Monday 28 December 2009

2月11日、ジュンク堂池袋

2月11日には、池袋のジュンク堂で小説家の佐川光晴さんとの対談です。詳細はジュンク堂ホームページから。「文学者」という肩書きがシンプルすぎて不可解ですが、「比較文学研究者」のことだと考えてください。

「本は読めないものだから心配するな」(左右社)刊行記念

読書の〈実用〉

佐川 光晴(小説家)×管 啓次郎(文学者)

■2010年2月11日(木)19:00~

本を閉じた瞬間に、読んだことを忘れてしまう。それでいいのか。それでいいのだ。

作家の佐川光晴さんと、翻訳家・著述家の管啓次郎さん。〈お金の共和国〉に対抗する、〈書店の共和国〉の片隅で、水の中でも火の中でも本を読む二人が、南米、旅、働くこと、そして読書の〈実用〉を語り合います。

<講師紹介>
・佐川 光晴
1965年生まれ。小説家。「生活の設計」で三島賞候補。「縮んだ愛」で野間文芸新人賞受賞。「ジャムの空壜」「縮んだ愛」「弔いのあと」「銀色の翼」「家族の肖像」はいずれも芥川賞候補。最新刊に「牛を屠る」

・管 啓次郎
1958年生まれ。翻訳家、比較詩学研究家。明治大学教授。著書に「コヨーテ読書」「オムニフォン」「ホノルル、ブラジル」など。最新刊に「本は読めないものだから心配するな」


この前後も、ジュンク堂では以下のように、友人たちのイベントが続きます。どちらもおもしろそうなので、できるだけ行きたいものだと思っています。

2月4日(木)19時~  清水 哲男(詩人)×木坂 涼(詩人)×清岡 智比古(フランス文学者)
 「東京詩」(左右社)刊行記念
 「詩人たちの生きた東京」

2月13日(土)19時~  野崎 歓(フランス文学者)×鈴木 雅雄(シュルレアリスム研究者)
 『シュルレアリスムの25時』(水声社)刊行記念
 「誰も知らないシュルレアリスム」

越川さんとの対談

以下のように、アメリカ文学の越川芳明さんと公開対談をします。お気軽にどうぞ!

☆「旅と翻訳」 越川芳明×管啓次郎トークショー

■2010年2月9日(火)19:00〜(開場18:30〜)
■会場:青山ブックセンター本店内 カルチャーサロン青山
■定員:60名様
■入場料:500円(税込)
■ご参加方法:
 [1] ABCオンラインストアにてWEBチケット販売
 [2] 本店店頭にてチケット引換券を販売
 ※入場チケットは、イベント当日受付にてお渡しします。当日の入場は、先着順・自由席となります。
 ※電話予約は行っておりません。

■お問い合わせ電話: 青山ブックセンター本店  03-5485-5511
 (受付時間: 10:00〜22:00)

■受付開始日:2010年1月7日(木)10:00〜
トークショー終了後にサイン会を行います。
サイン会対象書籍:お2人の著作・翻訳本

<イベント内容>
スティーヴ・エリクソン『エクスタシーの湖』の翻訳を刊行したばかりの越川さん、批評集にして読書論である、『本は読めないものだから心配するな』が話題の管さん。世界—主に南米、カリブ海、アメリカの境域(ボーダー)をフィールドワークしながら、 翻訳、研究を続けるおふたりの文学談義は、国境も時空も飛び越えたスリリングなものとなるに違いありません。

<プロフィール>
越川芳明 (こしかわ・よしあき)
1952年生まれ。明治大学文学部教授。アメリカ文学研究、翻訳を手がける傍ら、中南米の文化研究も行う。主な著書に、『ギターを抱いた渡り鳥 チカーノ詩礼賛』『トウガラシのちいさな旅  ボーダー文化論』。主な訳書に、S・エリクソン『真夜中に海がやってきた』『彷徨う日々』、J・ハスケル『僕はジャクソン・ポロックじゃない。』、P・ボウルズ『真夜中のミサ』『遠い木霊』、R・クーヴァー『ジェラルドのパーティ』『ユニヴァーサル野球協会』ほか多数。愛称はロベルト・コッシー。

管啓次郎 (すが・けいじろう)
1958年生まれ。比較詩学研究。明治大学大学院理工学科研究科ディジタルコンテンツ系教授(コンテンツ批評、映像文化論)。主な著書に、『トロピカル・ゴシップ』『コヨーテ読書』『オムニフォン』『ホノルル、ブラジル』『斜線の旅』。主な訳書に、E・グリッサン『<関係>の詩学』、M・コンデ『生命の樹』、J・M・G・ル・クレジオ『歌の祭り』、I・アジェンデ『パウラ』、J・キンケイド『川底に』、A・ベンダー『わがままなやつら』『私自身の見えない徴』ほか多数。

[※詳しくは、こちらをご覧ください]

http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_201002/event20100209.html

Wednesday 23 December 2009

あと10日

12月24、25、26、27日。
1月5、6、7、8、9、10日。

WALKING展も早いもので、あと10日を残すのみとなりました。

10年後には伝説になっていること、確実。ぜひごらんください!

完成!

ぼくの新しい本『斜線の旅』(インスクリプト)の見本ができたようです。

http://inscriptinfo.blogspot.com/2009/12/park-city_22.html

笹岡啓子さんの写真集と並んで、すばらしい眺め。

ぼくはまだ手にしていませんが、木曜には。みなさん、ぜひ新年に、書店でお買い求めください。

Monday 21 December 2009

『チョコラ!』セッションの中継

土曜日の和光大学での『チョコラ!』シンポジウム、インターネット中継されていました。

http://www.chokora.jp/news.html

iPhoneで収録された音声・画像が視聴できますので、ご興味があれば。

この上映会とシンポジウム、画期的だったのは、視覚障がい者の方のための音声ガイド(上映時)、聴覚障がい者の方のための手話通訳(シンポジウム時)がついていたこと。ふだん、そうした機会をもてない方々が参加できて、そのぶん媒介される範囲が広がりました。

準備・運営にあたられたみなさん、ごくろうさまでした!

きょうの詩

ワークショップの参考作品として、みんなの帰りを待ちながら、ぼくが書いたもの。「冬至の前日」として12月20日を表し、場所はむかし通っていたアテネ・フランセです。


十二月が十二月を思い出している
冬至と前日のあいだに危険な谷間がある
正午に灰色の霙が降り出して
深夜には流星のような雨になった
光が降る、小さな光の群れが
その群れを毛皮に宿して
はぐれた犬の仔が懸命に走っている
彼はabécédaireを学ぶだろう
どんなミモザ色の予感が過去における
未来をさしていたのか
未知の活用を探していたのか
そのころ初めて読んだ詩は「地帯」で
それですべての朝の街路が詩の洪水になった
リュテシアのアテナイの地理学者が
赤いセーターを着て口笛を吹いていた
坂の石段に性別があることを学んだ

ワークショップ、トーク、終了!

東京文化発信プロジェクト「WHAT AM I DOING HERE?」第1回のワークショップとトークは、ぶじ終了しました。特別なゲストの清岡さん、ありがとうございました。

ワークショップは、きょうの日付と時刻、そして場所(ないしはそのイコン)を入れて400字以内の詩を書くという趣向。3人ずつのグループに分かれて、新宿・渋谷・神楽坂・秋葉原・神保町に散って、詩を書いてもらいました。ぼくは本部待機、ちょこっと散歩。

帰ってきたみんなの詩を清書し、壁に貼り、交替で背景を話しながら朗読。その上で、参加者の互選で優秀作を選び、ついで清岡賞、管賞を選びました。

いずれも驚くほど充実して、きらりとひかる行のある作品ばかり。いろいろ楽しめるとともに、この形式のワークショップを、何度かやってもいいという気になりました。

夜の部は「東京詩」。まずは清岡さんにたっぷり東京詩のエッセンスを語っていただき、ついでぼくがコメントし、会場とのディスカッションに移行しました。

ぼくの友人で、文句無く話が上手なのは、清岡さん、黒田龍之助さん、堀江敏幸さんの3人。いずれも、その話術の背景は(たぶん)落語で、ぼくにはまったく欠けた分野です。遅ればせながら、来年は落語を聞いてみたいと思います。ユーモアと洞察にみちた清岡さんのお話に、聴衆のみなさんも満足のようす。快晴の一日にふさわしい収穫を得て、それぞれの家路につきました。

企画の宇野澤くんをはじめ、学生スタッフのみんな、ご苦労さま。写真の広瀬さんも、ありがとうございました。次は1月10日に会いましょう!

Sunday 20 December 2009

西江雅之先生と歩くことについて語ろう

管啓次郎研究室オープン・ゼミのお知らせです。

文化人類学者・言語学者にして永遠の旅人。西江雅之先生は、ぼくが30年前にピジン・クレオル言語学を初めて教わった恩師です。この偉大な歩行者から、われわれの「WALKING 歩き、読み、考える」展(明治大学生田図書館ギャラリー・ゼロ)についてのご感想と、歩くこと一般について、さまざまな旅についての、お話をうかがいます。

日時 12月23日(水・祝)15:00~16:30
場所 明治大学生田キャンパス A館401教室

■事前申し込みは不要ですが、必ずあらかじめ上述の展示を見ておいてください。

■どなたでもご参加いただけますが、あくまでも大学院ゼミの一環だということをご理解ください。

■A館は生田キャンパスのもっとも高い建物。すぐわかります。

Saturday 19 December 2009

『チョコラ!』上映会、終了

寒い青空の一日、和光大学での『チョコラ!』上映会・シンポジウム終了。

またもや、じんと感動しました。シンポジウムでは、学部生時代以来30年ぶりに会った西研くんの司会に支えられ、道場さんやリケットさんの鋭い意見が続出。そして質疑応答のときに垣間みた小林監督のソウルフルな横顔に、打たれました。

小林さんの、映画にささげた半生が、また感動的です。岩波ジュニア新書の『ぼくたちは生きているのだ』は掛け値なしの名著。自分の煮え切らなさを反省します。

アフリカから一時帰国中のタバタさんや井形夫妻をはじめ、古い友人数人にも再会。また和光OBでむかし『知恵の樹』読書会(!)をやっていたというおふたりにもお会いできて、うれしい驚きでした。

和光はおもしろい学校です。お正月明けに、和光から明治まで歩いて『WALKING』展にむかうというツアーを決行します。和光の学生のみなさん、ぜひ参加してください!

『斜線の旅』

インスクリプトのブログに新刊情報として『斜線の旅』の紹介が掲載されました。

http://inscriptinfo.blogspot.com/2009/12/blog-post_16.html

写真=港千尋、装幀=間村俊一。新年に、ぜひどうぞ!

「本の雑誌」2010年1月号

「本の雑誌」は2009年度ベスト10特集。若島正さんが「私のベスト3」に『本は読めないものだから心配するな』を選んでくださいました。ありがとうございました。この本が事実上の『コヨーテ読書2』だということ、もちろん若島さんはお見通しでしょう。これからも、事実上の『コヨーテ読書3、4、5...』をお届けするつもりです。

おなじ特集では、いしいしんじさんがよしもとばなな『彼女について』を評して記す言葉が気になる。「よしもとばななは、意識してでなく、知らず知らずのうちに、脂ののりきった頃の谷崎潤一郎が触っていたのと同じ世界に触れていると思った。」

これでお正月の本は決定。

Friday 18 December 2009

想像の吹雪

ずいぶん寒くなりました。午後、金沢の友人からのメールにひとこと、「いま建物が揺れそうなくらい吹雪いてます」。想像するだけでドキドキ。東京にはまだ雪は当分来ないかもしれないけれど、who knows? いよいよ20日に迫ったワークショップの日が、案外、白い一日になるかも。

この冬は、いずれにせよ、例年になく降るかもしれませんね。

Wednesday 16 December 2009

「BRUTUS」読書特集

「BRUTUS」も「本が人をつくる。」という読書特集号。表紙のしかけがおもしろい。岡田斗司夫「本棚のダイエット」、松岡正剛+幅允孝「読書地図の創り方」が、非常に参考になります。

ロベルト越川さんは「ブラジル、光と影」で研究室のようすを公開。ぼくの最初の本『コロンブスの犬』(1989)を、ブラジルを知る8冊の中に選んでくれました。

『コロンブスの犬』は来年、夏までには新版を出す予定。まったくちがう表情をまとうことになるでしょう。お楽しみに。

Monday 14 December 2009

世界中のアフリカ2010、いよいよ!

1月9日は新宿に集合! イベント詳細を、詩人・翻訳家のくぼたのぞみさんがご自分のブログにきれいにまとめてアップしてくださったので、そちらを見てね。

http://esperanzasroom.blogspot.com/

早く予約しないと埋まっちゃうよ。

ぼくの朗読なんかはどうでもいいけど、ゾマホンさんとロジェの対話は、全世界中継したいくらいです。

『チョコラ!』上映会@和光大学

いよいよ19日(土)が近づきました。忘れがたい、傑作ドキュメンタリー。もちろん、無料です。ぜひみんなで見に行きましょう!

和光大学現代人間学部現代社会学科 2009年度文化企画

 日本から遠く、しばしば「アフリカ」とひとくくりにされてしまう巨大な大陸。その大陸の、ほんの片すみのひとつの街・ティカに暮らす「ストリート・チルドレン」たちを描いたのが、小林茂監督のドキュメンタリー映画『チョコラ!』だ。「チョコラ」とは、路上でものを拾うことをさすことばであり、映画は少年たちのもの拾いのシーンから始まる。そこに映し止められていく子どもたちは、不登校、家族不和、薬物中毒、環境破壊、エイズ…と「問題」に満ち満ちている。ときにどうしていいかわからずことばを失う子どもたち。遊び、食べ物を分け合い、「恵み」を乞う子どもたち。あまりに遠いケニアに、いま世界の子どもたちが共通におかれている困難がある。

 和光大学現代人間学部現代社会学科では、市民に開放された文化企画を毎年開催してきた。今年度は、このドキュメンタリー映画の上映、監督とパネラーによる討論を通して、ケニア社会とその子どもたちへの理解、そして私たちの足元にある「日本」という社会の「いま」を解読する豊かな可能性を手に入れたいと考えている。


□■日時・場所■□
2009年12月19日(土) 14:00~17:00 和光大学 J301教室
※終了後、会議室にて参加者も交えた懇親会を予定。

□■講師・パネラー■□
小林茂氏(映画『チョコラ!』監督)
管啓次郎氏(明治大学教授)
ロバート・リケット(和光大学教授)
道場親信(和光大学准教授)

□■定 員■□
200名

□■参加費■□
無料

□■申込方法■□
事前申し込みは不要。直接会場へ。

□■主 催■□
和光大学現代人間学部現代社会学科

お問い合わせ
和光大学教学支援室
TEL:044-989-7487 FAX:044-989-7474

Thursday 10 December 2009

ギャラリーにいる日

何人かの方からお問い合わせをいただいたので、ギャラリー・ゼロの展示会場につめている日を決めました。

12月15日(火)15:00〜17:00
(ご希望があれば延長)

12月18日(金)18:30〜20:30

12月22日(火)15:00〜17:00
(ご希望があれば延長)

としたいと思います。

それ以外の時間帯も、「ギャラリー内でアンディ・ゴールズワージー論を書く」という個人プロジェクトにとりくんでいるかもしれません。でも発熱などで休む可能性もありますから、あらかじめご連絡いただけると確実です。

ぜひ遊びに来てください!

Wednesday 9 December 2009

「フィガロ・ジャポン」読書特集

「フィガロ・ジャポン」12月20日号は、恒例の読書特集。去年はぼくも書いたけれど、今年はなし。

それでも202冊のうちに、ぼくの本が2冊、登場しています。

『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009)を選んでくださったのは大竹昭子さん。文章道の先達のコメントは、何よりうれしいものです。

そして『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト、2006)を選んでくださったのはスタイリストの岡尾美代子さん。旅好きらしい彼女が「どこか遠くに行くときに、何度も読んだこの本を持っていくことが多い」とのひとことに、報われた思いです。

おふたりに心からの感謝(と、感謝されても困るとは思いますが!)。

新著『斜線の旅』(インスクリプト)は、すでにゲラを見終えて手を離れました。間村俊一さんの装幀が上がり次第、印刷・製本に入るはずです。ご期待ください!

清岡ワークショップ、定員に達しました

12月20日のワークショップ「東京を書く」は15名の定員に達しました。ありがとうございました。夜のトークセッション(定員30名)はまだいくらか余裕がありますので、ぜひどうぞ。

それにしても、さすがカリスマ・フラ語教師の人気! ぼくひとりなら参加申し込みは3名が限度だったでしょう。

思い出に残る一日にしたいですね。いまから、当日の天候は「雪」と勝手に予言しておきます!

Monday 7 December 2009

WALKING展、はじまる

ついに始まりました、WALKING展。画期的な展示です。本の中では、このために新規購入してもらったAndy Goldsworthy の数冊が人目をひきます。それ以外のどの本も、ブラウズすれば心にしみいるものばかり。

そして正面の壁、驚いてください。立ちつくしてください。

生田の丘は駅からちょっと遠いけれど、それを補って十分あまりある満足が得られるはず。歩いて、見にきてください!

Thursday 3 December 2009

展示の準備

いよいよ12月になって、WALKING展は目前。みんな準備に追われている。設営を手伝ってくれる、片山くんを中心にした建築学科の学生グループHillは、すごいパワーで猛然と作業中。もらってきたツーバイフォーを電動のこぎりで切って、椅子と本棚がいっしょになったブースを作っている。明日の搬入をめざしているので、できあがりが本当に楽しみ。みんな、ごくろうさま。

そして! ついに! 佐々木愛さんから作品の画像が届いた。ぼくが書いた7編の16行詩をモチーフに、彼女のやさしくて力強い絵が鳥を、森を、描き出してゆく。いずれもかなりの大きさ。土曜日には実物がやってきて、それをぼくらは壁に掛けるだろう。掛け方も、もちろん、いろいろ工夫する。みなさん、絶対に見に来てください。

ぼくは他に組写真をいくつか出品する。

「国際芸術センター青森の森を歩く」(2Lサイズのプリント36枚)
「青森、3つの歩行」(2Lサイズのプリント24枚=予定)
「大連」(ワイド六つ切りのプリント9枚)

これ以外に、「ロバート・ルイス・スティーヴンソンの墓をめざして登って行く」も展示しようかと思ったのだが、あまりに多くなりすぎてもいけないので。きょうは「国際芸術センター」のパネルを作った。

展示する本から18冊を選んで解説を加えた小冊子「BOOKS WALKING 歩いてゆく本たち」もなかなかの出来映え。清岡秀哉さんのデザインが、すっきりまとめてくれた。

来週以後、展示を見にきてくれるみなさん、火曜日と金曜日ならぼくは生田にいますので、ぜひあらかじめ連絡してください。よろしくお願いします!

Monday 30 November 2009

西アフリカのフランス語文学

東京外国語大学で、以下の博士論文公開審査があるそうです。すごく興味深い! でも展示準備のため行けないのが残念。興味がある方は、ぜひどうぞ!


村田はるせ博士資格申請論文公開最終審査のご案内

日時:12月5日(土) 午後3時より
場所:東京外国語大学(多磨キャンパス) 研究講義棟4階、401−3教室

論文題目:「アフリカで作家であるということ−−ベルナール・ダディエとベロニック・タジョーから読む西アフリカのフランス語文学」

村田はるせは、かつて海外青年協力隊に参加し、アフリカはニジェールで保育士の経験をすることから童話や文学の意味にめざめ、大学に入り直して2000年から東京外国語大学の大学院に入り、博士前期課程を経て後期課程に進み、この9月にようやく博士資格請求論文を書き上げました。

文学部から文学研究を目指した学生とは違って、その独自の経歴から、みずからを促す要請にしたがって課題にかたちを与え、研鑽を積んだその結果が博士論文となりました。

Saturday 28 November 2009

<群島-世界>、波打ち際で

今夜はシンポジウム「<群島-世界>波打ち際で」が開かれる予定。みんな島に集まりはじめていることでしょう。高良勉さんの紹介文を引用します。


群島論の可能性の交流へ
高良 勉(詩人・批評家)

 日本国家やアジア・世界と、どう向き合いどういう関係を構築するか。いま、大きな歴史の曲がり角で、一人一人に深く静かに問いかけられている。
 私は、学生時代からその問いをくり返し考え実践してきた。その過程で、新川明、川満信一、岡本恵徳らの「反復帰論」や島尾敏雄・ミホの「ヤポネシアと琉球弧」の思想に出会った。そして、「隔ての海を、結びの海へ」を合い言葉に琉球弧の住民運動や祭祀を巡礼してきた。とりわけ、現在は鹿児島県へ分割されてしまっている奄美群島への旅を重視してきた。
 そのような思索と祈りの旅の中で、今福龍太の大冊『群島—世界論』(岩波書店)を手にすることができた。この文化人類学者による文化・思想・世界論は、私(たち)をさらに新しいヴィジョンの地平へ誘ってくれる。
 今福の『群島—世界論』は、島尾が夢みながら充分に展開することができなかった「ヤポネシアを太平洋のネシア世界へ開放する」思想を、さらに世界規模で拡大している。
 今福は、海洋・群島から「大陸原理」へ向け反転する。すると、琉球弧や東アジア・太平洋・カリブ海・アイルランド群島等々の世界中の群島が、新たな可能性を帯びて浮上する。そこで琉球群島は、悪しき「日本対琉球」の閉鎖的回路から解放される。
 しかも、今福は海底の結びの力までヴィジョンを伸ばす。世界の海底に埋蔵されている死者たちの骨片の歴史や文化の智恵に耳を澄ます。私(たち)は、その海底の可能性によって「隔ての海」を乗り越える。
 そのような『群島—世界論』が出版されて一年余。私(たち)は、韓国、台湾、香港等からゲストを迎えて、群島の体験とヴィジョンの可能性についてヤンバル・奥区で議論し、交流する。アジアへ、世界への構想力を。
 なぜ、奥ヤンバルなのか。今福らは、この間「奄美自由大学」を主宰し、沖永良部島から奄美大島までの奄美群島巡礼し、私(たち)も参加してきた。そして、日本全国から芸術家や編集者、研究者をはじめとする錚々たるメンバー30人余が、今回は与論島から奥区へ巡礼して来る。
 言うまでもなく、与論・沖永良部と奥・辺戸とは、北山王国時代以前から歴史と文化において一つの群島地域を形成している。現在の、沖縄県と鹿児島県という人為的な「県境」は、日常に於いて越えられている。奄美自由大学の参加者は、それらの群島でどんなヴィジョンを視てきたのか。
 深まりゆく秋のヤンバル・奥区で、地元の方々に支えられながら、新しい「群島—世界」へ交流したいものだ。

◎11月28日(土)午後8時〜・民宿「海山木」
 「即興編:群島、揺れる」川満信一、おおしろ建、比嘉豊光、濱田康作、中村達哉、宮木朝子、高良 勉、奥区の歌と踊り、その他

◎11月29日(日)午後1時〜・奥区「集落センター」
 「シンポジウム篇:群島論のヴィジョン」
  パフォーマンス・島袋正敏(元名護市立図書館長)
  朱恵足(台湾中興大学)、川満信一、仲里効、イ・ヨンスク(社会言語学者)、グレッド・D(ミクロネシア島嶼文化研究)、デニッツア・G(香港城市大学)、高良 勉、今福龍太


奄美自由大学が、ついにヤンバルにまでつながって。2002年に始まった自由大学、ぼくは最初の2回に参加しましたが、それからなかなか都合が合わなくて残念。今年は大洞くんが参加しているので、また話を聞かせてくれることでしょう。

清岡ワークショップは12月20日

そしてその第1弾は?

①土地をめぐる言葉 12月20日(日)

(W):「東京を書く」清岡智比古+管啓次郎13:00~17:00(定員15名)
(T):「東京詩」清岡智比古+管啓次郎18:00~20:00(定員30名)

言葉で土地をどのように語ることができるのか?
例えば「東京」について書いてみる。
詩はどんなふうに東京を書いているのだろう。

※ワークショップでは、実際に都内を移動するため交通費が必要です。公共交通を使う予定です。500円ほどご用意ください。


■申し込み方法
どなたでも無料でご参加いただけます。
ワークショップとトークは、それぞれ単独でお申し込みいただけます。もちろん両方のお申し込みも歓迎です。
参加を希望するワークショップ名・トーク名、お名前(フリガナ)、年齢、性別、連絡先(電話、住所、メールアドレス)をお書き添えのうえ、下記の申し込み先までお送りください。

※メール・FAXの場合は、件名等に「WHAT AM I DOING HERE?」参加申し込みであることを明記してください。
※FAXの場合は、それぞれの実施日の1週間前までにお申し込みください。
※申し込み多数の場合には先着順とさせていただきます。

■申し込み先
明治大学大学院 理工学研究科 新領域創造専攻DC系修士2年宇野澤宛
メール:ce87403@isc.meiji.ac.jp
電話:090-3426-7527
FAX:044-934-7908 (明治大学理工学部総合文化資料室気付)
(FAXの場合は、それぞれの実施日の1週間前までにお申し込みください)

東京文化発信プロジェクトWHAT AM I DOING HERE?

いよいよ始まります。12月から2月、熱い冬になりそうです。


WHAT AM I DOING HERE?
5 Paths: Workshops and Talks ワークショップとトーク 5つの小径

主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(財団法人東京都歴史文化財団)、明治大学
企画:明治大学大学院 新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系 管啓次郎研究室
日程:平成21年12月~平成22年2月
会場:明治大学猿楽町第二校舎 新領域創造専攻共同演習室(東京都千代田区猿楽町2-4-1)
参加費:無料(要申込み)
http://waidh.exblog.jp

本事業は、東京文化発信プロジェクトにおける「学生とアーティストによるアート交流プログラム」の一環として実施されます。

私は、今ここで何をしているのか?
どこから来てどこに行くのか? 
今ここにいる私は誰なのか?

東京と人の新しい関係をつくるための方法を探るため、
5つのテーマによるワークショップとトークを行います。
記録展示も予定しています。

WALKINGは12月7日から!

その「WALKING 歩き、読み、考える」展は、いよいよ12月7日から。学部のホームページに広告をアップしてもらいました。

http://www.meiji.ac.jp/koho/hus/html/dtl_0005251.html

ぜひ遊びに来てください! 折角だから、何らかのかたちで、歩くイベントをやりたいもの。小田急沿線なら、たとえば日本女子大から明治まで歩くツアーとか、和光大学から明治まで歩くツアーとか。杉山さん、長尾さん、そのうち相談に乗ってください。東海大からはさすがに遠すぎるだろうなあ。

「図書新聞」2944号(2009年12月5日)

「図書新聞」に西江雅之『アフリカのことば』(河出書房新社)の書評を書きました。西江先生のアフリカ研究の集大成。30年前、先生に出合わなければ、自分の人生がまったくちがった経路をたどることになったのは確実。それを思うと(勝手に)感無量です。

書評といえば、「週刊金曜日」で、こんどは本橋哲也さんが、『本は読めないものだから心配するな』を「本橋哲也が選ぶ3冊」の1冊としてとりあげてくださったようです(まだ見ていないけれど)。「この本は以前に陣野さんが選んだから」などといわない編集部もえらい! お礼をいわれても困るとは思いますが、ありがとうございました。

WALKING展の冊子、制作中です。乞うご期待!

Friday 27 November 2009

「言語」、永遠に

大修館書店から「言語」が12月号をもって休刊されるとのご挨拶をもらった。創刊は1972年4月! 一般読者むけの言語学月刊誌が、これだけの期間持続したのは、思えば驚異だ。

ぼくが「言語」を初めて買ったのは高校2年のころ。1974年。そのころは漠然と言語学科に行きたいと思っていた。

その後、「言語」には2、3度文章を書かせてもらったが、もちろん言語学とは無縁のしろうとの駄文。でもいい思い出だ。

この雑誌がなくなるのは残念だけれど、言葉に関する興味を人が失うことはありえない。また新たなかたちで、この雑誌の読者共同体(お互いを知らない共同体)が、おのずから言語を語り論じる道を見出してゆくにちがいない。

Thursday 26 November 2009

松丸本舗

先月オープンした、丸善の店舗内店舗、松岡正剛さんの松丸本舗をやっと見てきた。

茫然。結界に一歩足を踏み入れたら、まるで外とはちがう電撃的な空気がみなぎっている。ぞっとするほどの凝縮力、構想力だ。いまわれわれが準備している「WALKING」(冊数にして200冊程度)が、あわれ、まるで石ころひとつにすぎないものに見える。

1979年ごろ、「プラネタリーブックス」を愛読していた。やはりおなじころ、渋谷の全国書房で、作務衣姿で本を棚の端から端までといった感じで買っている松岡さんのお姿(たぶん)を見かけたこともある。現代日本で、読書の免許皆伝といえる達人は、まずは松岡さんと高山宏さんだろう。

松丸本舗の片隅に、坪内祐三さんの『雑読系』などと並んで、ぼくの本も。これはうれしい発見。きょうはごくざっとしか見られなかったので、また東京方面に行ったとき、じっくり見ることにしよう。

Tuesday 24 November 2009

本が歩いてゆくのをただ助けるだけでいい

WALKING展の準備が、いよいよ佳境。きょうは設営を手伝ってくれる建築学科のみんなとのミーティングがお流れになったので、もともとの展示メンバーである宇野澤、伊藤の両君と、宮田さんの入れてくれたMJB珈琲を飲みながら話す。

そして突然出てきた、すごい案。

今回の図書展示では、歩くことを主題とする本を200冊くらい並べるが、まだまだぜんぜん不十分。考えるたび、ほら、これも、ほら、あれも、と数は増えてゆく。そこで。この展示「WALKING 歩き、読み、考える」自体を恒久化し、どんどん各地を巡回するのだ。リストは当然増殖してゆく。

しかし、ただ巡回するだけではまだおもしろくないので、さらに考えた案。

お茶箱みたいな箱に、レギュラーの36冊をつめて、これを背負って、次の展示場まで歩いてゆく。たとえば札幌の書肆吉成でやるなら、川崎からそこまで歩いてゆく。題してBOOKS WALKING 、あるいは、歩いてゆく本たち!

行った先で本を並べ、ポップを作り、見てもらう。この旅を本にさせながら、その36冊についての解説を10枚ずつくらいで執筆し(歩きながら、歩きながら)、発表してゆく。ある段階で、それを本にする。そして、また。そして、また。いつか自分が90歳くらいになって背負えなくなったら歩けなくなったら、誰かにひきついでもらう。こうして本は、今後の数十年数百年を旅しつづける、というプロジェクト。

開催場所を、裏表紙に小さな文字で書き込んでいく。

これはすごいね、絶対やろう。一回の旅ごとに、参加者が2人なら18冊ずつ、参加者が6人なら6冊ずつ、背負って一緒に歩いてゆく。途中でむりやり朗読会をやって、投げ銭をもらい、食費にする。犬も連れてゆく。猫はついてこい。

Kindle読書で満足できる人は、どうぞお好きなように。日に焼け、雨でぼよぼよになった本が好きな人は、この旅にいつでも加わってください。本が歩いてゆくのをただ助けるだけの旅だ。

Monday 23 November 2009

知覚と想起

考えとは進まないもの。こないだのゼミでフロイトのWunderblock(魔法のメモ板)の話になり、知覚と想起のあいだに生じるのが意識という説明をしながら、既視感に捉えられる。なんだ、1983年ごろ、誰かとこんな話をしたなあ。たぶん当時、ラカンについて書いていた友人と。

驚くべきなのは、その後、自分の考えがまったく進んでいないことで、いまでも正直なところ、意識とは何なのか、さっぱりわかっていない。各瞬間ごとに、外界からの視覚的・聴覚的・触覚的刺激は絶えずやってくる。知覚は、つねに全面的に行われている。そして知覚が残すであろう痕跡はただちに過去に送りこまれ、過去は一瞬前からはるかな幼少期までの時間幅をもって、想起の対象となる。

実際に思い出されるかどうかはともかく、この時間幅のある記憶からの想起が知覚をそのつど支え、それではじめて人は外界を把握している。ここで知覚と想起にはあるバランスがあり、現在時の知覚が強いときには想起は背景に追いやられ、想起が強いときには現在はお留守になる(白昼夢的状態)。

意識とは知覚と想起の危うい統合の上に成立しているものだが、意識を意識しはじめると、とたんにそれはその場での行動を妨害しはじめる。「〜を意識した」という言い方は、つねに事後的な描写にすぎず、意識の現場ではわれわれは知覚と想起のあいだの尾根をなんとか必死に歩いているだけ。

それでは意志とは何か。意志はつねに想起の中にあり、過去に習得された「文」がそれを代表し、その想起にしたがって人は次の一歩を瞬時に踏み出している。

このあたりのこと、四半世紀たってもまったく自分の中で話が進んでいない。そしてじつは、そんなことばかり。いつも高峰を眺めながら、都会の楽な舗装された平地ばかり歩いているようなものだ。しかも、無目的にさまよっている。

人はやはりどこかこれと決めた山に登り、そこにばかり何十年も登りつづけるのがいい。たとえ小さな里山でも、その里山についてはすみずみまで知っているという境地をめざしたい。

Thursday 19 November 2009

台湾2題

台湾から戻って、司馬遼太郎『街道をゆく・台湾紀行』を読み始めた。

するとこんな記述。「革命家としての孫文は百敗の人であった。/武装蜂起にしくじっては他国に亡命するということをくりかえしつつ、表情はつねに明るかった。そのあかるさが、ひとびとを魅きつけた」

いいことだ! 反射的に、大洞くんの「元気が正義」ということばを思い出した。そう、百敗でいこう、われわれは。

朝日新聞の夕刊に、いま「琉球400年を歩く」という画期的連載が掲載されている。

それで知ったのが、石垣島の総人口の1パーセント強が台湾系だということ! そうだよな、近いし。行き来はつねにあり、その中から定着する人も出てきただろう。それが自然。

こんどは八重山から台湾へと、船路をたどってみようか。

台北にて

台北で市立美術館に行くと、ちょうど「これは誰の展覧会なの?」みたいなタイトルのグループ展をやってて、われらが田中功起さんの作品が真っ先に目に飛び込んできた。おもしろい! その新鮮さは台湾のお客にも伝わっている。

そして21日からはじまる蔡國強の『泡美術館』は、設営がまさに佳境で、吹き抜け部分に8台の自動車(実物)を宙づりにしてバチバチ電気を光らせているのに、度肝を抜かれた。

アーティスト本人(たぶん)も、ごま塩頭をかきながら立ち会っていた。

中庭部分には、なぜか温泉? 中国語の説明では、こんな感じ。

其中作品《文化大混浴》即是一例。藝術家蔡國強的作品《文化大混浴》將於北美館西側中庭展出,是藝術家居住紐約時有感於其文化大熔爐的稱號,因此把這些文化現象與中藥、風水結合起來,試圖探索一種有別於西方的現代藝術方法論,希望在東方優秀的哲學理念上,尋找到一套與之相應的模式。於是藝術家將開放觀眾親身參與泡澡,融入此藝術作品,視為作品的一種表演方式,也正呼應了此次展覽的主軸「泡美術館」。

「文化大混浴」! ニューヨーク時代に、みんなで風呂に入るのがいちばんと目覚めたということなのか。

バカバカしいが、それをプレゼンして企画として成立させるのが、すごいかも。

冬休みにまた台湾に見に行きたくなる。

連載終了

講談社のメールマガジン「現代新書カフェ」に連載してきた「アメリカ・インディアンは何を考えてきたか」が最終回を迎えました。

これから越冬中に全面的に手を入れて、できれば来年の夏休み前に、新書として出したいと思っています。

とはいえ、まだまだぜんぜん不十分。対象が巨大なので(北アメリカ大陸の先住民世界のすべて)どう書いても不十分ですが、それでも。

ぼくの英雄ともいうべきジョン・ウェズリー・パウエルやフランツ・ボアズ、そしてクロード・レヴィ=ストロースやデル・ハイムズに捧げる本にしたいもの。

最後に引用したズニの祈りの一節を、以下に引用しておきます。

**************

 太陽をめぐる話の最後に、ズニが新生児を太陽に紹介する儀礼のことばを見ておきたい。生後八日目、赤ちゃんの頭はオバ(父方の氏族の女性)たちによって洗われる。これが新生児にとって最重要の儀礼だという。赤ちゃんの手にトウモロコシの粉を握らせ、夜明け、屋外に連れ出す。一同は東をむいて立つ。
 それからトウモロコシの粉をはらはらと撒きつつ、父方の祖母によって、こんな祈りが唱えられる。

 さあ、いよいよ今日、
 わたしたちの子よ、
 おまえは立って太陽の
 光の中に出てゆく。
 おまえのこの日を用意するため、
 おまえのこれまでの日が終わったとき、
 八日間が過ぎたとき、
 わたしたちの父である太陽は、
 彼の聖なる場所にこもっていた。
 そして夜の父たちが、
 出てきてかれらの聖なる場所に立ち、
 祝福された夜を過ごしたのだが、
 その夜の夜明けを迎えるために
 わたしたちはやってきた。
 そして今日、
 わたしたちの父たち、
 夜明けの司祭たちは、
 出てきてかれらの聖なる場所に立った。
 父なる太陽が
 出てきてその聖なる場所に立った。
 わたしたちの子よ、
 今日はおまえの日です。
 今日、白トウモロコシの肉、
 この祈りの食物を、
 わたしたちの父なる太陽に
 この祈りの食物をささげます。
 おまえが父なる太陽にむかってゆく道、
 この道がゆたかなものでありますように。
 おまえの道が果たされたとき
 おまえの考えの中で(わたしたちが命を得て)
 おまえがやがて思い出すのがわたしたちでありますように、
 今日、この日、
 わたしたちの父なる太陽にむかって
 そのためにわたしたちは祈りの食物をささげます、
 わたしたち全員が道を歩み抜くのを
 おまえが助けてくれるように。

バナナと水牛

友人から教えられて、よしもとばななさんの日記をひさしぶりに見ると、10月末に『本は読めないものだから心配するな』が紹介されていました。「本を書いていてよかった」というばななさんの感想に感動!ありがとうございました(とお礼をいわれても困ると思うけれど)。

そもそも、正確にいって、ぼくの本の一部分は彼女が書いたものです。そこには彼女の『サウスポイント』の書評が含まれていて、それはつまりは彼女が書いた『サウスポイント』がぼくに書き込んだ何かの、痕跡。本というのは、それを読めば読むだけ、書けば書くだけ、人が自分から解放されて別の何かになってゆけるもの。地球に対流圏があり成層圏があるように、人間世界のちょっと別の層にある言語界での交渉が、どこか根源的な無謀な勇気を与えてくれるのは、おもしろいことです。

また、かの「水牛」ホームページでは、八巻美恵さんが「水牛だより」で紹介してくださいました。

http://www.suigyu.com/

ありがとうございました(とお礼をいわれても困ると思うけれど)。並べていただいた3冊の、あと2冊がすごく興味深い! 中川六平『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』と津野海太郎『したくないことはしない 植草甚一の青春』です。特に、津野さんは、ぼくはお目にかかったことがないのですが、たぶんものすごく本質的な影響を受けていると思います。高校から大学にかけて、完全に晶文社カルチャーで育った以上。つねに宇宙線につらぬかれ太陽風の影響にさらされてきたようなものか。

ともあれ、うれしい反応でした。水牛はいい、水牛は水に潜ってじっとしている。石垣島で見た水牛の目が忘れられません。

Wednesday 18 November 2009

R.I.P. Dell Hymes

デル・ハイムズが亡くなった。偉大な言語人類学者。リード・カレッジ以来のゲイリー・スナイダーの友人、エスノポエティクスの産みの親のひとりだった。むかしむかし「へるめす」に掲載してもらったエスノポエティクス小詩集に、彼が採録した民話も入れたことがある。結局、言語学という分野に入門すら果たせなかったことを改めて反省しつつ、ふたたび彼やスタンリー・ダイアモンド、ナサニエル・ターンらが描き出した世界の探求に戻ってゆきたいと強く思う。

Objet : Passing of Dell H. Hymes

It is with sadness that we announce the death of former LSA President Dell Hathaway Hymes, Commonwealth Professor of Anthropology and English (emeritus) at the University of Virginia. Professor Hymes died peacefully on Friday 13 November 2009 in Charlottesville, VA, USA.

A memorial service will be held on Saturday November 21 at 1:00 at Peace Lutheran church, 1510 Broad Crossing Rd, Charlottesville, VA 22911-7483.

A memorial gathering has been organized for the upcoming meeting of the American Anthropological Association in Philadelphia, PA. The gathering will take place on Saturday December 5, 2009 from 7:30-9:30 pm in Grand Ballroom III of the Courtyard Marriott.

Condolences may be addressed to Virginia Hymes care of the Department of Anthropology, PO Box 400120, Charlottesville, VA, 22904-4120, USA.

Thanks to Prof Hymes' former student, Prof Alicia Pousada, for sending the news. He will be missed.

Tuesday 17 November 2009

『越境する文学』(水声社)

土屋勝彦編『越境する文学』(水声社)に寄稿しました。一昨年の名古屋市立大学におけるシンポジウムから派生した本です。

ぼくのはエドゥアール・グリッサンの『第四世紀』をめぐる論考。ほんとうは『第四世紀』の翻訳が完成したときに「あとがき」として使うつもりだったのですが、翻訳が遅れていて。

来年にはなんとか。その場合、「あとがき」はまた画期的な別稿を準備します。

Monday 16 November 2009

エコクリティシズムと日本文学研究

1月のシンポジウムのお知らせです。残念ながら、ぼくは行事が重なってゆけず。われらが若き同僚、波戸岡さんも登場します。

国際シンポジウム

「エコクリティシズムと日本文学研究—自然環境と都市」

 日本文学研究に「エコクリティシズム」すなわち「環境文学研究」の視点を導入することにより、日本文学/文化と自然環境の関係、その思考と表象のありかたを歴史的に検討する。

 「環境問題」が多様な学問分野に波及しつつある昨今、文学もまたその一翼を担うためには、どのようなアプローチが可能であるか、とりわけ日本文学が歴史的に形づくってきた〈自然〉という表象ないし意匠にはどのような特性があるのか、また、日本文学における特性は現今の環境問題を考える際、どのような意味をもたらすことになるのか。

 「環境問題」はすぐれて政治的、社会的な課題としてすでに重視されているが、文学からのアプローチは、この問題が本質的な意味で “文化的”な課題でもあることを示唆しようとするものである。〈自然〉と人間との関係は、文化と知の根源にかかわる問題であり、それは言語、思想からテクノロジーに至る多様な〈文化〉の諸相に通底する共通基盤である。本シンポジウムは、日本文学の表象と思想はいかなる「自然観」を具現化しているのかを、多様な視点から集中的に明らかにする試みである。

日時 2010年1月9日(土)〜10日(日)
場所 池袋キャンパス 太刀川記念館3F多目的ホール
対象者 本学学生、教職員、校友、一般

内容 【第1日目】1月9日(土) 
13:00〜13:05 開会の挨拶:加藤睦(立教大学)

13:05〜14:30 基調講演
四季の文化—二次自然の表象と社会 
講師:ハルオ・シラネ(コロンビア大学)
司会:加藤睦(立教大学)
    
14:30〜14:40 休憩

14:40〜16:30 シンポジウム1:二次自然と野生の自然
司会:野田研一(立教大学)
講師:加藤幸子(作家)/小峯和明(立教大学) /佐藤泉(青山学院大学)/ジャック・ストーンマン(ブリガム・ヤング大学)/北條勝貴(上智大学)/舛谷鋭(立教大学)/山里勝己(琉球大学)
コメンテーター:沖森卓也(立教大学)/千石英世(立教大学)

16:30〜16:45 休憩

16:45〜18:00 シンポジウム1:質疑

18:30〜 懇親会

【第2日目】1月10日(日)
10:00〜12:00 ワークショップA:自然描写の近代と前近代
司会:藤井淑禎(立教大学)
パネリスト:王成(中国首都師範大学)/北川扶生子(鳥取大学)/クリスティーナ・ラフィン(ブリティッシュコロンビア大学)/柴山紗惠子(コロンビア大学)/新保邦寛(筑波大学)/照沼麻衣子(立教大学)/天満尚仁(立教大学)/ピーター・フルッキガー(パモナ大学)

12:00〜13:00 昼食

13:00〜15:00 ワークショップB:大衆文化の表象と環境
司会:鈴木登美(コロンビア大学)
パネリスト:片山宏行(青山学院大学)/中村優子(立教大学)/丹羽みさと(立教大学)/波戸岡景太(明治大学)/浜田雄介(成蹊大学)/藤井貴志(立教大学)/山本洋平(立教大学)/若松伸哉(青山学院大学)

15:00〜15:30 休憩

15:30〜17:00 シンポジウム2:中央と周辺
司会:篠原進(青山学院大学)
講師:大屋多詠子(青山学院大学)/加藤定彦(立教大学)/ケヴィン・M・ドーク(ジョージタウン大学)/小林実(十文字学園女子大学)/松田宏一郎(立教大学)/安原真琴(立教大学)

17:00〜18:30 全体討論
司会:渡辺憲司(立教大学)
総括コメンテーター:石川巧(立教大学)/小嶋菜温子(立教大学)/サカエ・ムラカミ・ジルー(ストラスブール大学)/ミハエル・キンスキー(フランクフルト大学)/結城正美(金沢大学)

18:30 閉会の挨拶:渡辺憲司(立教大学)

*プログラムの発言者は50音順に表記しています。
受講料 無料
申込 不要
主催 立教大学大学院文学研究科日本文学専攻
共催 青山学院大学文学部日本文学科
コロンビア大学東アジア言語・文化学部
【後援】
立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科
立教大学ESD研究センター
立教大学観光学研究所
立教大学日本学研究所
問合せ先 国際シンポジウム「エコクリティシズムと日本文学研究」運営委員会
ESD研究センター内 照沼
TEL&FAX:03−3985−2686

第2回「デジ研」は12月9日(水)

以下のようにデジ研(テキストコンテンツのデジタル配信に関する勉強・研究会)第2回を開催します。お誘い合わせの上、ぜひご参加ください。(仲野くん、またよろしく!)



● 電子出版、デジタル配信の可能性を探る勉強会です。

● Blogやメールマガジン等に代表されるテキストコンテンツのデジタル配信の商業化が進むなか、電子書籍の商業利用(有料コンテンツの販売等)も一般化されはじめています。未だ決定的なシステムやモデルが存在しない状況とはいえ、国内外の既存の出版社や電子出版ベンチャーなどにより、実践的な試みが数多くなされています。
  
● “書物”とは読まれて初めてその力を発揮するものであり、その配信の可能性の広がる今、どのように“書物”を“読者”に届けるのか、その可能性を議論する場になればと思います。

■ 音楽のデジタル化がCDやレコード産業に及ぼした大きな地殻変動は、出版産業にも遅からず起こりうる変動だと仮定し、その時、私たちに何ができるのかということを一緒に考えてゆければと思います。

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・デジ研(第二回)

日時: 2009年12月9日(水)/午後7時〜(6時半オープン)
会場: 明治大学秋葉原サテライトキャンパス

【共催】
・明治大学理工学研究科新領域創造専攻DC系
・デジ研:
代表: 田内万里夫(株式会社アウルズ・エージェンシー)
代表: 深澤晴彦 (株式会社ユナイテッド・ブックス)

Saturday 14 November 2009

IMAGINASIAにむかって

13日の金曜日、政治大学との交流セッション。

ふりしきる雨の中、台北動物園近くのキャンパスにむかう。ジャーナリズム・ビルディングのテレビ・スタジオで、いよいよ共同ワークショップにむけた最初の一歩。

まず、盧老師とぼくが簡単に挨拶したのち、早速、畠中景子のプレゼンテーション。いろいろな人に噛んでもらったグミを「彫刻」として提示する作品に、みんな興味津々。ついで高梨こずえの、ある若い女性同性愛者を追った写真にも、多くの人が強い反応をしめした。

それから発表は台湾側に移り、女性ホルモンを飲み続ける性同一性障害者の男性へのインタビューを中心とするドキュメンタリー・フィルム。主題として高梨の写真とみごとにつながった。台湾側は、今年スタートしたばかりのディジタルコンテンツ修士課程1年生が主体で、プログラムの大きさがほぼおなじなのも好都合(ただし設備・資金力などはむこうが比べ物にならないほど上)。

来春までに、まずは共同のウェブサイトを運営しつつ、双方からたとえば2名ずつのチームを作り、ディジタルストーリーテリング、ドキュメンタリー制作などにとりくみたい。

午後はみんなでマイクロバスに乗って故宮博物館に。おそるべきゆたかさ。ぼくは特に書の世界に見とれる。それから台北市庁舎にゆき、360度スクリーンに上映される台北市紹介ビデオを2本(15分程度のもの)。これはいずれも盧老師が制作に関わっていて、みごとなできばえ。

最後に市庁舎内の中華料理店での晩餐に招待していただいた。あまりに完璧なホスピタリティに感動。しかし重ねられる杯(38度のコーリャン酒!)に、こっちはとてもついてゆけず、なんとも情けない。ナボコフを専攻している英文学者の女性が、顔色ひとつ変えず次々に乾杯を(文字通りに)実行するのを見て、畏敬の念に打たれた。

とにかく先生方も学生のみんなも、温かく、こまやか。今後も、親しく友人としてつきあってゆきたい人ばかりだ。来年は、どんな展開を見せるか? ぜひ政治大学側の学生にも(特に助手のヴィクターたちには)東京に遊びにきてほしい。

ぼくの個人的プロジェクトとしては、淡水河と多摩川の河口部汽水域の比較研究がある。Estuaries... いつかは、かたちにしたい。

共同ワークショップとは別に、台北に新たにオープンするメディアアートセンターでの展示も可能性がある。われらが宮下さんの作品なども、ぜひそこで。

「土曜訪問」

きょう14日の東京新聞/中日新聞の「土曜訪問」に出ています。先週が内藤礼さんだったのも不思議なシンクロ。早くもオンラインで読めるのに驚いた。

とはいえこうした聞き書きのつねで、小さな誤解が入ってくるのは避けられない。ちょっとだけ訂正させてください。

ぼくが「クレオル文学」という呼び名を使うのはクレオル語で書かれているか、会話の大きな部分がクレオル語になっているものだけ。英語圏のウォルコット、キンケイドはもちろん、フランス語圏のコンデやグリッサンも「クレオル文学」と呼んだことはない。「カリブ海文学」ないしは「アンティーユ文学」。

アメリカに最初に留学したのは、20年前ではなくほとんど30年前。

『ホノルル、ブラジル』と『本は読めないものだから心配するな』はまったく内容も性格もちがう本で、後者はいわば『コヨーテ読書2』としての意味をもっている(これだけ、ちょっと強調)。

まあ、小さなことばかりですが。生田まで取材に来ていただいた大日方さん、どうもありがとうございました。

いずれにせよ、来年こそグリッサンを出さなくては。

Thursday 12 November 2009

「世界187の顔」

日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の写真展「世界187の顔」を明大前のキッド・アイラック・アートホールで見た。

ことばを失い、何もいえない。強烈。われわれは何も見ていない。それに対して、この協会員のみなさんは。日本のフォトジャーナリズムの水準の高さを思い知らされた。

そしてもちろん大切なのは、そんな水準の評価よりも、そのむこうの世界そのもの。

佐藤文則さんのイベント(「陰に追いやられる難民申請者」11月5日)に行けなかったのが、かえすがえすも残念。他のみなさんの写真も、メッセージも、胸をつくものばかり。

このJVJAからのパネルの貸し出しというかたちで、写真展を開催できるようだ。明治も生田はちょっと集客には弱いけれど、駿河台の図書館でやってみれば、ずいぶんいろんな人が見るだろう。

ともあれ、15日(日)まで。和泉校舎のみなさん、明大前に用があるみなさん、ぜひ立ち寄ってみてください。

阿蘇、ハーン、グリッサン

週末、フランス文学会のため熊本大学へ。

キャンパスに入ると、ラフカディオ・ハーンの銅像! いいぞ。あいつはほんとにすごいやつ。

ぼくは会員ではないのだけれど、日曜日に行われた「クレオール再考」と題したワークショップに参加。中村隆之、塚本昌則、(ぼく)、恒川邦夫のみなさんが順にしゃべった。構成と司会は熊本県立大学の砂野幸稔さん。ありがとうございました。

ひとりあたりの持ち時間が少なかったけれど、相当に広がりのある、本質的な話だったと思う。どこかで文章にまとめたいもの。

翌日、午後の飛行機に乗るまえに、あちこち走ってみた。いい天気で、快適そのもの。白川水源、蘇陽峡、そして阿蘇山一周。外輪山の美しさ。それから最後はいよいよ阿蘇火口で仕上げ。

阿蘇は高校の修学旅行以来だ(1975年)。今回はあのすさまじい火口がよく見えて、緑色の水(お湯?)の強烈さに圧倒された。火山はいい。いつかはエンペドクレスのように?

帰って、火曜日は一日中びっしり、あれこれ。きょうは12月刊行の本のゲラを戻し、来春刊行の中村隆之訳エドゥアール・グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』のゲラのコピーをもらう。これは驚くべき好著。

来年は、来年こそは、グリッサンの年になるだろう。

明日、木曜日から台湾の政治大学を訪問してきます。来春の共同ワークショップの打ち合わせが大きな使命。IMAGINASIA!

Friday 6 November 2009

「世界中のアフリカ2010」

ちょっと早すぎるけど、まあ、いいか。みなさん、大切な発表があります。

新年をむかえて1月9日(土)、在日アフリカ知識人たちとアフリカの現在を熱く語り抜きついでに踊る、すごいイベントをやります。題して『世界中のアフリカ2010』。

詳細はいずれお知らせします。場所は新宿某所。会場費・出演者謝礼として入場料をいただくことになりますが許されよ。その分、思いっきりおもしろい場にします、エンドレスで!

まずは1月9日を空けておいてください。

映画の変な連鎖

このところ見ている映画作品のつながりが、妙な糸をつむいでゆくのがおもしろい。意図を超えている。何かがつながってゆく。

張作驥『黒暗之夏』、金基徳『サマリア』、王家衛『欲望の翼』、張芸謀『幸福時光』、陸川『ココシリ』、トム・ティクヴァ『ラン、ローラ、ラン』、ハル・ハートリー『フラート』。

『黒暗之夏』から『幸福時光』は盲目という主題がつなげ、『ラン、ローラ、ラン』と『フラート』はおなじ話の3つのヴァリエーションが両者を並列する。

他にもいろんなかたちでいろんな要素がつながってくる。ということは。映画にも「本」という単位を超えた次元があるということだ。

大学院生の何人かと一緒に見ていると、かれらが細部に気づく繊細さがどんどん研ぎすまされてくるのが、手に取るようにわかる。見て、記憶すること。この基本作業を、きちんと続けていく必要がある。

それはともかく。『黒暗之夏』『幸福時光』が並んだら、『珈琲時光』を置かないわけにはいかない。年末のパーティーには、それを見ることにするか。

Wednesday 4 November 2009

北欧シンクロニシティ

なぜか、北欧が重なっている。

昨日、打ち合わせに神保町に行って、入った喫茶店がどことなく京都めいたお店。いいジャズがかかっていたが、店の主題はなぜかノルウェー。ノルウェー情報であふれている。

きょう、麻布十番のgm tenで見たのがフィンランド在住のアーティスト、ネネツボイの作品展。ふしぎに明るいユーモア。ネネツボイという名前のフィンランド人だとばかり思ってたら、つぼいさんという日本人だそうだ。フィンランドを舞台にした映画『かもめ食堂』がおもしろいと学生たちがいっていたのも思い出す。展示の仕方がすごく参考になった。

そしていま読んでいる本が、そろえるつもりもなかったのだけれど、『よみがえれ! 夢の国アイスランド』。いわば北欧中の北欧。

こうしてみると、来年は北欧をめざすしかなさそう。

Tuesday 3 November 2009

満月とハクビシン

満月の論理に一般と特定の区別はない
眺める人の心に月影の紋様が浮かぶだけ
ネットワークは幾何学的に発生し
ときどき氷のように光が凝固する
たくさんの団子をすすきとともに供えてみた
ハクビシンの親子が物欲しげに見るのを
ウクライナ人の老女がけらけら笑いながら見ている
秋のこの時期こそ祭礼の夜
循環する時間が声のように聞こえてくる
楽しいね、楽しかったね、楽しいね
もう来ないね、また来るさ、また来るよ
荒城に登りて楼閣を燃やし
それを松明として以て絶対的な持続を照明するのみ
輝けよ縞の尾
きらめけよ妖しい鼻
満月の無垢が砕け散りたくさんの団子となる

書肆吉成完成!

札幌で古書店を営む吉成くん、ついに「実店舗」が完成しました。

http://diary.camenosima.com/

書肆吉成の、新しい展開がはじまります。おめでとう!これからも「アフンルパル通信」をよろしく。

『チョコラ!』上映会@和光大学

12月19日(土)午後2時から、和光大学でドキュメンタリー映画『チョコラ!』の上映会とシンポジウムがあります。ぼくも参加します。

監督の小林茂さんとぼく、そして和光のファカルティから西研、道場親信、ロバート・リケットのみなさん。アフリカのことを何も知らないぼくには何もいえることがないのですが、このすばらしい作品はぜひたくさんの人に見ていただきたいので、少しでもそのお手伝いができるなら。

学生時代に一緒に授業に出ていた哲学者の西くんとは、20数年ぶりの再会になります。それも楽しみ(授業というのは社会学者の宮島喬先生の「フランス5月革命(68年5月の運動)論」などで、思えばそのころは「5月革命から10年か」などという言葉がリアリティをもっていた時代でした。え、30年前か!)。

12月19日は鶴川に集合!

「週刊金曜日」10月30日号

「週刊金曜日」読書欄の「陣野俊史が選ぶ3冊」に、『本は読めないものだから心配するな』が紹介されました。他の2冊はECD『暮らしの手帖』(扶桑社)と中村文則『掏摸』(河出書房新社)です。

陣野さん、どうもありがとう(と、お礼をいわれても困ると思いますが)。また渋さのコンサートか何かで会いましょう!

佐川光晴さん

まだまだ鬼に笑われそうな話ですが、年が明けて2月11日、池袋のジュンク堂で小説家の佐川光晴さんと対談します。

佐川くんは、彼がまだ北大の学生だったころからの知り合い。それから20年以上、思えば「文学」の話なんてしたことがなかった! でも彼の生き方そのものが、「文学から文学を生む」やつらの対極。話題はたぶん「読書と南米」とでもいった方向になるのかな。

ぜひ来てください。

『斜線の旅』

そして11月。北では初雪か。どんどん冬になってほしい。

インスクリプトのページを見ると、すでに『斜線の旅』が予告されている。

http://inscriptinfo.blogspot.com/

いま、ゲラを見ています。タイトルはこれで確定。ジル・ラプージュの弟子としてのぼくの、2006年から9年にかけての「風の旅人」での連載23回分をまとめたもの。

去年の学習院の「トラヴェル・ライティング」のみんな、ぜひ読んでください。今年のクリスマス本です!

Thursday 29 October 2009

いつのまにか

いつのまにかアマゾンに『本は読めないものだから心配するな』の読者レビューが3件も! うれしいなあ。フォーマルな新聞書評も、それは出ればうれしいけれど、どこかにいる同時代の読者のみなさんの声がこうしてつぶやきみたいに書かれると、本を作ってよかったなあ、という気になります。どこかのどなたか、どうもありがとうございました。

そのうち書店イベントなども開催しますから、ぜひ遊びにきてください! 

太陽/月

さっき、月を見上げて、ふと考えた。

あの光が太陽の光だと最初に見抜いたのは誰なんだろう。

たぶん、おそくとも数千年前。陰の部分のかたちの移り変わりから光源があることを見抜き、その光源としては夜姿を隠している太陽しかないことを、世界の各地で、いろんな人が見抜いた。(理論上の地動説の発見は、たぶん各地の文化で個別にあっただろうと思う、それもキリスト教ヨーロッパよりもずっと早く。)

しかしそれは人類の歴史の中で考えると、ものすごい飛躍だ。高揚と畏れを、同時に感じさせる発見(というか着想)だったにちがいない。

ポップ巡り

書店で本の宣伝のために本と並べて立てておく小さなカードをポップといいます。ポップ・アップとか、そういうことばから来てるんだろうな。

で、このあいだ、清岡さんや波戸岡さんと一緒に、20枚作りました。土曜日に渋谷のブックファーストに行ってみると、あった、あった。「犬だって本を読めるようになりたい」という文。

生田のキャンパス内の丸善にも火曜日に入荷。こちらのポップは「毎日7冊、2ページずつ The Rule of Reading」というもの。

このように20枚すべてちがう内容になってるんだけど、ほぼ眠りながら書いたので、自分でも何を書いたかまったく覚えてない。どこに行ったかも、ぼくは知らない。

どこかの書店(ジュンク堂とか、青山ブックセンターとか)で見かけた人は、なんて書いてあったか教えてください!

Wednesday 28 October 2009

なんというやつ

金基徳の1998年作品『悪い女』Birdcage Innを見て、あっけにとられた。

港町の民宿に住み込みの娼婦として働いている若い女性が主人公。感情の動きも、数々のできごとも、どうにも嘘くさくてばかばかしく感心しないまま、物語が続く。

それが、ラストの10分かそこらで一気に収斂してゆく。すさまじい軋みを発して、凝縮されてゆく。爆発する。その主題は『サマリア』の、あの二人の少女の驚くべきスピリチュアルなむすびつきを予告し、二人の海上での姿は、『弓』の少女の海上ブランコを予示する。

いったいキム以外の誰が、夏に雪を降らせ海に金魚を泳がせて平然としていられるだろう。

恐ろしいやつだ。フィクションそのものが人間世界にとって持つスケープゴートとしての位置をこれだけはっきりと言明しているやつは、他のあらゆる表現ジャンルを見渡しても、思い当たらない。

なんとしても全作品を見なくては。

学生とアーティストによる交流プログラム!

お待たせしました。われわれの企画が、東京都歴史文化財団東京文化発信プロジェクト「学生とアーティストによる交流プログラム」に採択されました。

題して「What am I doing here?」。宇野澤昌樹をコーディネーターとして、2009年12月から2010年2月にかけて、猿楽町校舎を舞台に数々のワークショップ、セミナーを順次開催します。総予算は200万円。

各イベントの詳細は、そのつどまたお知らせしますから、ここをたびたびチェックしてください。基本、日曜日です。さて、どんな驚きが待っていることか。

第1弾は12月20日、清岡智比古さんとぼくによる詩のワークショップ。カレンダーにでっかく赤丸を、青丸を、足りなかったらpaint it black!

Monday 26 October 2009

王子直紀の「川崎」

いよいよ木曜日からです。ぜひ行こう!

明治大学生田図書館 Gallery ZERO 企画展のご案内
Contemporary Photography #2
王子直紀写真展「川崎」

明治大学大学院新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系では、2009年度より明治大学 生田図書館Gallery ZEROを舞台に現代の写真家たちの個展を主催しています。

その第2弾として王子直紀写真展「川崎」を開催いたします。王子直紀は2001年に北島敬三、笹岡啓子らとphotographers' gallery(東京・新宿)を 設立、以降主にここを拠点に数多くの個展を開催、またこれまで『Kawasaki 576』 (2003年)と『TEROMERIC』(2006年)の2冊の写真集を出版しています。

今回の展覧会では、都市や地方の風景・人々を斬新なスナップ写真の手法で撮り続け、 注目を集めている写真家王子直紀が、とくに繰り返し写してきた場所「川崎」にあらためて挑みます。ピント、白黒のトーン、構図、意味など、写真の既成概念の数々に 揺さぶりをかける作者の新作にご注目下さい。

名称 王子直紀写真展「川崎」

会期 2009年10月29日(木)〜11月15日(日)
*11月1日(日)は休館

開場時間 平日8:30-19:00、土8:30-18:30、日・11/3 10:00-16:30
*10/30は13:00-19:00

会場 明治大学生田図書館 Gallery ZERO
〒214-8571 川崎市多摩区東三田1-1-1
小田急線生田駅下車南口徒歩[約10分]
*一般の方は図書館入口ゲート前の呼び出しボタンにて係の者をお呼びください。

主催 明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系
http://www.dc-meiji.jp/

☆レクチャー&トーク
11月9日(月)15:00-16:30 生田図書館Gallery ZERO
王子直紀+倉石信乃(ディジタルコンテンツ系准教授)+伊藤貴弘(司会・明治大学大学院)
*予約不要・無料

☆お問合せ
明治大学生田図書館 電話044-934-7945

IMAGINASIA

NHKの日本賞のために来日中の台湾・国立政治大学のみなさんを、ふたたび猿楽町校舎にお迎えしました。

高橋正也、佐藤達野、畠中景子、高梨こずえが順次作品のプレゼンテーション。通訳はフェイフェイと于さんがみごとに務めてくれました。

どれも興味深い内容。盧老師ほか、台湾のみなさんからの反応も上々でした。

11月には短期間、台北での打ち合わせ。ついで来春からいよいよ本格的交流がスタートします。きょう早速決まったのが、プロジェクト名。その名もImaginasia! いうまでもなく、imaginationと Asiaの組み合わせです。

さしあたっては東京と台北の2都市の現在をマルチメディアで提示する作業を共同で進めることに。政治大学のディジタルコンテンツ学科(修士課程)はこの秋にスタートしたばかりなので、どちらの側からも期待が高まっています。

来年のいまごろまでにはImaginasiaの一定の成果をお見せできることでしょう。ご期待ください!

世界187の顔

日本ビジュアルジャーナリスト協会の方たちの写真展が、11月3日から明大前で始まります。

http://www.jvja.net/The%20Face%20187.htm

トークセッションも興味深いものばかり。ぜひ行こう!

昨年、すばらしいヴードゥー写真を見せてくださった佐藤文則さんも参加されてます。

http://www.k2.dion.ne.jp/~satofoto/

Thursday 22 October 2009

『燃えスカ』のいま

読売新聞の読書コラムで、緒川たまきさんが『燃えるスカートの少女』をとりあげてくださいました。ありがとうございました。

http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pickup/20091013bk20.htm

この文庫版は、いま4刷。ジェシカ・アルバ主演で映画化が進行している『私自身の見えない徴』も、やがて文庫に入るかもしれません。

また新しい読者に出会ってゆくのは、本自身の運命。すでに訳者の手を離れてひさしい作品ですが、長く読み継がれてほしいと願うばかりです。

Wednesday 21 October 2009

ジャックなき40年

ついに日付が変わって、21日。きょうは世界的に「ジャックなき40年」。つまり、ケルアックの没後40周年のイベントが開催される。

早速、うちでも始めた。何を? 何もしない。ただケルアックの数冊の本を、拾い読み。それでいい。

あと22時間20分ほど、この追悼行事をそっと続けよう。

Tuesday 20 October 2009

何語だっていい

本屋で新潮クレスト・ブックスの宣伝小冊子をもらって読んでいると、沼野恭子さんの「クレスト・ブックスはロシアの十字路」という文が目にとまった。

そうか、とつい目が輝くのは、彼女が紹介する旧ソ連出身の作家たちの動向。ロシア語作家は、もちろんいる。アンドレイ・クルコフやレオニード・ツィプキン。

それだけでなく、「ラトヴィアからカナダに移住して英語作家となった」デイヴィッド・ベズモーズギスとか、「フランス語作家になった」アンドレイ・マキーヌとか、「ドイツ語作家になった」ウラジーミル・カミーナーとか。

生まれた土地とか家庭の言語とは関係なく、人は「〜語作家」になることができるわけだ。あたりまえのことだけど、永遠に新鮮な選択。

たとえばいまから現代中国語と漢文を一所懸命学んで、やがては中国語で何か文章を書くという道だって、ないわけではない。楽しいだろうな、それができたなら。できるものだろうか? それはやってみなくてはわからない。

Sunday 18 October 2009

柴田元幸×テッド・グーセン

学習院大学での講演会です。

学習院大学文学部・英語英米文化学科では、11月7日に柴田元幸さんとテッド・グーセンさんの講演会を開催いたします。

予約や入場料は不要です。ぜひご参加ください。


<講演会 概要>
【日時】2009年11月7日(土)
    16:00〜17:30  ※開場 15:40   
【会場】西5号館303教室 
【演題】What We Talk About When We Talk About Japanese and American Literature And Music

【講師】柴田 元幸 氏
    (東京大学大学院人文社会系研究科教授 アメリカ文学研究者、翻訳家)    
   テッド・グーセン 氏
    (カナダ ヨーク大学人文学部教授 日本文学研究者、翻訳家)

R.I.P. 加藤和彦

ぼくらが高校生のころ、かっこいい人、というと彼だった。ぼくが最初の本を出したとき最初に出た書評で、平岡正明さんが、こいつの感覚は加藤和彦に通じると書いてくださったのが、妙にうれしかった。

今夜は「あの素晴らしい愛をもう一度」「悲しくてやりきれない」を歌って、追悼。渋いところでは、「墨絵の世界」とか「どんたく」とか「ジョージタウン」とか「気分を出してもういちど」とか「ガーディニア」なんかも歌えますよ。

Wednesday 14 October 2009

タイポロジック

学生時代からの友人、港千尋が監修する活字の展覧会が、今週からはじまります。

http://www.typologic.net/

これは必見! 活字ばんざい。

ヨーロッパ化するロシア貴族?

絶対におもしろそうなレクチャーです。なぜ人は「後進」の意識をもち「先進」を真似するのか、という根本的な問題への手がかりになりそう。ロシア語がわからないのが残念!



特別講義のお知らせ

講師 アンドレイ・ゾーリン博士(オックスフォード大学教授)
境界を越える感情——18世紀末〜19世紀初頭のロシア貴族の感情世界のヨーロッパ化

日時:2009年10月17日(土)午後4〜6時
場所:東京大学文学部3号館7階スラヴ語スラヴ文学演習室

交通 地下鉄丸ノ内線・大江戸線「本郷3丁目」または南北線「東大前」下車、徒歩10分。
東大構内案内図 http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_05_03_j.html
東大本郷キャンパスへのアクセス
 http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/map01_02_j.html

 この度、日本学術振興会外国人招へい研究者として来日された、アンドレイ・ゾーリン博士(現オックスフォード大学教授、元ロシア国立人文大学教授)による特別講義を開催いたします。ゾーリン博士は、18〜19世紀前半のロシア文学に関する世界的な権威で、今回の講義では、18世紀末〜19世紀初頭のロシア貴族の感情世界がヨーロッパの「教育」を受けて変化していった歴史を、Н. カラムジン、А.
トゥルゲーネフ等についての考察を通して解説していただきます。
専門的関心をお持ちの皆様のご来聴を歓迎します。
なお、今回のゾーリン博士の来日は、鳥山祐介氏(千葉大)の招聘によるもので、講義の開催にあたっても鳥山氏にご尽力いただきました。

司会:沼野充義(スラヴ文学・現代文芸論)
※講義・討論はロシア語、通訳なし。
※入場無料。事前登録不要。

共催:スラヴ語スラヴ文学研究室・現代文芸論研究室
問合せ先 現代文芸論研究室 電話03(5841)7955

Monday 12 October 2009

Kindle?

キンドルを買うか買わないかで、迷ってるところ。

279ドル。でも物珍しさで買っても、読むには紙本が一生分あるし。たぶん主な用途は、新聞購読になるだろう。ニューヨーク・タイムズが月に13ドル99。

たとえ毎日もち歩いたとしても、常時、本を5、6冊もち歩く習性は変わらないだろうから、するとそれを開く時間が限られてくる。やっぱりムダになりそう。

エンターテインメント本をたくさん読む人にはいいだろうけど、そういう喜びを知らないし。1500冊入れられるといっても、たぶんぜんぶ詩集とか戯曲とかになりそう。すると、やはり紙本のほうが便利。

やめておくか。といいつつ、ちょっと興味あり。誰か、買ったら見せてください!

Friday 9 October 2009

40 ans sans Jack

「ジャックなき40年」、それはモンレアル(モントリオール)のジェラール・ラルナックが呼びかけているイベント。

といっても、別に何をするわけでもない。10月21日はジャック・ケルアックの40年めの命日。その日に彼を思い出し、彼の作品の一節でも朗読し、グラスを傾ければそれでいい。

東京でも何かやろうか。何がいいかな。何か考えてみよう。

休講なんてしてられない

台風だった、休講になった。最初は午前中だけと発表されたけど、アキバに着いたころには、それが5限までになっていた。

学生も定時に来たのは、まだ入学していない大洞くんだけ。ふたりでは仕方ないので、王家衛の傑作『恋する惑星』のビデオを見始める。あまりにすばらしい撮影にひきこまれていると、次第にみんなが到着。最後まで見て、結局そのまま5時50分まで、いつもの授業に。

大学院の授業で90分は短すぎる。アメリカの大学だと、週1の大学院授業は150分が標準。ただでさえ短いのだから、台風だからといって休講にはしてられない。しかし正式には休講だったわけだから、きょうやったのはカウントせず、学期末には補講をやることにしようか。

Wednesday 7 October 2009

そろいぶみ!

まず、このページを。左右社のホームページです。

http://sayusha.com/sayusha/左右社HOME.html

なんとうれしい風景! 清岡さんの『東京詩』、波戸岡さんの『オープンスペース・アメリカ』、そしてぼくの本。去年の相談が、こうしてはっきりかたちをとって実現して、これほどのよろこびはありません。

中旬から書店に並びます。平積みになるお店では、手書きのポップもつける予定。書店で待ち構えて、買ってくれた人にはその場でむりやりサインをしないまでもお礼をいう、かも。先着何名様かには、おまけをつけたいくらい。

カリスマ・フランス語教師の清岡さんも、数々のフラ語本(『フラ語入門、わかりやすいにもホドがある!』をはじめ)を除けば、可憐な小説『小さな幸福』以来の著書。そして若きサウスウェスト派のアメリカ文学者・波戸岡さんには、これが最初の本になります。どちらも新鮮で、はっきりした味わいと歯ごたえがある内容です。しかもおしゃれ。

ちなみに清岡さんの本のオビには吉本隆明さん、波戸岡さんの本のオビには片岡義男さんのおことばがあります。なんという豪華さ。(ぼくのは無し。)

ともあれ、よろしく!

森と林

学部生たちと森に行きたいねという話をしていて、森と林のちがいが話題になった。四手井綱英『もりやはやし』という文庫本があって、たしかそのちがいがふれられていた。「もり」は「盛り上がった」という意味で「はやし」はお祭りの「お囃子」なんかとも関係する言葉、だとか。つまり、人為的に「はやした」もの。手元にないので、興味がある人は見てみてください。

それで改めて日本語の単語として考えてみると、たしかに「もり」とは「盛り上がる」ことでもあるだろうし(自然な丘陵地帯?)、地面そのものから樹木が自然成長してきたという感じもする。雨漏りなどの「もり」も、要するに水がおのずから溢れ出たということなのではないか。

満月を「望月」というときの「もち」もどこか関係してくるかもしれないし、だったらお餅もそうか(「望月」というと漢字に惑わされるけれど、たぶん最初の「もち」はお餅の「もち」に通じたものと考えるべきだろう)。モル、モツ。それでは手に持つときの「もつ」と日持ちがするというときの「もつ」にはどうつながるのか。そもそも「も」とは何だったのか。水藻の「も」と「萌える」と「燃える」(いずれも植物なり炎なりが出現することをさす?)は、どんな関係なんだろう。

一方、林は「はやす」から来て(「もやし」が動詞「もやす」から来るように)、人の手が加わって、それまで木々のなかった平地に樹木を育てたことがうかがえる。

北陸に住む友人が、昨日は森に行き薪を伐ったというのを、心底うらやましく思った。うちのあたりには森もない、林もない。市が指定した「保存樹」のいくつかに手をふれて、かろうじて樹木との対話を確保しているだけ。都市にはせめて林が必要。いまあるマンションの新築現場の何割かが林になるなら、ほんとうにいい町になる。

せめてちょっと詳しい地図を買ってきて、市内にマンションが立っているすべての土地を濃い緑の色鉛筆で塗り、市街地「はやし化」計画が進行したらどれくらいの面積が緑化されるかを、アナログにシミュレーションしてみようか。

Monday 5 October 2009

マサオ・ミヨシ

カリフォルニア大学サンディエゴ校のマサオ・ミヨシが10月2日に亡くなったそうだ。サンタクルーズのロブ・ウィルソンからの知らせ。

日本で生まれ育ちながらアメリカで「英文学者」として勝負する、その生涯はどれほど大きな冒険だったことか。ぼくはミヨシさんにお目にかかったことはないが、1990年ごろ、サンディエゴの博士課程に登録しかけたことがあった。結局シアトルに行ったのだが、サンディエゴに行っていたら、またその後はまったく別の人生だったにちがいない。

Sunday 4 October 2009

アキバから新宿

きょうはサテライトキャンパスに行ったあと、アキバから新宿まで歩いてみた。楽勝、楽勝。河内くんたちと雑談しながら歩いて、1時間40分くらいか? 曙橋のあたりは、思えば歩いたことがなかった。新宿といっても6丁目あたりは、ほんとに静かな住宅地。

歩けば東京もおもしろい。こんど、徹夜ウォークを企画します。

Saturday 3 October 2009

その姿は?

といっていたら、誰よりも親切なわが同僚の清岡智比古さんが、カバーの写真をアップしてくれました。かっこいいでしょ。

http://tomo-524.blogspot.com/

清岡さん、ありがとう!

ちなみに、この12月あたりに、清岡さんと組んで、東京を歩き詩を書くワークショップをやります。時が来たら、参加者を大募集することを約束します。詩なんて関係ない、と思ってるみんなにも、人生が変わる一日にすることを約束します。歩くのはちょっとキツイよ、たぶん。

田村隆一を生んだ明治、澁澤孝輔が、入澤康夫が、安藤元雄が教えた明治です。現代詩といえば明治です(ちょっとウソ)。ぜひ参加してください! 

Friday 2 October 2009

『本は読めないものだから心配するな』

左右社から出るぼくの新刊『本は読めないものだから心配するな』が刷り上がりました。発売は15日。デザイナーの清岡秀哉さんのおかげで、すっきりした、とてもいいデザインになりました。

15日以後、ぜひ書店で手にとってみてください。

デジ研、そしてダイドーとナカノ

第1回「デジ研」は水曜日、ぶじ終了。参加者22名。主宰のマリオくん、ごくろうさまでした。次回からもがんばって進めましょう。

ところで、その場にふらりとやってきて参加してくれたのがナカノくん。いまはシステム・エンジニアとして働く彼だが、もともと大変な読書家。書物の文化の終焉に対する危機感を、熱く論じてくれた。

そしてこの日の最大の事件は、じつはナカノくんとダイドーくん(来年、うちの大学院に入学が決まっている)の出会いかもしれない。ふたりとも、学校教育に早くから嫌気がさし、不登校を選び、やがて「大検」で大学に入学した。学校が嫌になった理由が「時間がもったいなかった」ということも似ている。そしてふたりとも、ギャンブラーの大人たちのあいだで成長し、多くを学び、真剣な独学者となった。20代前半という年齢で、これだけいろいろ考えているのは、あたりまえのコースをたどってきた大学生には、まずありえないこと。

ふたりがこれから何を語り合い、何を考えていくのかは、ぼくには不可知の世界。でも深い共振が生じることだけは予測がつくし、ちょっと類例のない協同が(どんなものであれ)かたちをとってゆくのも確実。それだけは、賭けてもいい。

ぼくはただ場所を提供するだけだけれど、こういうことがあるから、おもしろい。やりがいもある。学校とは、学校を否定する力との緊張関係に立つときにのみ、あるべき輝きを取り戻す、と改めて思った。

そういえば近藤くんはどうしてるかなあ。お元気ですか。まだそんな気持ちが残っているなら、将来ぜひ、DC系を受験してください。2月の受験も、まだまだ間に合うよ。

ムクドリの雲

このところムクドリが近所に多くて、うちからは鼻先の高圧線と大きな樹木だけで、毎日、夕方には何千羽が集っている。なかなかの壮観。

ところが、「風の旅人」38号に掲載されているパオロ・パトリッツィの連作写真がすごい。ローマのヨーロッパムクドリの大群。ローマだけで500万羽! まさに黒い雲となり、刻一刻と姿を変えながら、空を舞い、車を糞で埋める。

こんな風景は見たことがない。その場にいたら、どれだけ恐ろしいかわからないな。ムクドリ共和国が、ヒトの世界にとって代わる日も近いかも。

「風の旅人」38号

雑誌「風の旅人」38号が完成。ぼくの連載「斜線の旅」も23回め。今回は「テ・マエヴァ・ヌイ」と題し、クック諸島の国家的フェスティヴァルについて書いています。

「斜線の旅」は、この23回めまでで1冊の本としてまとめることにしました。インスクリプト刊、今年のクリスマス本として準備中。ご期待ください!

『ハプスブルク家の光芒』

ドイツ語の同僚、菊池良生さんの『ハプスブルク家の光芒』がちくま文庫に入り、解説を書きました。歴史好きのみなさん、ぜひどうぞ!

Thursday 1 October 2009

山形行きたい!

あれこれと驚くべきことが起こりそうな山形。やっぱり行きたい、一泊でもいいから! 



山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 自主講座
【山猫争議!】土本典昭の海へ

日時:2009年10月11日(日)22時─24時
会場:香味庵1階奥(山形市内)

出席者:
山根貞男+上野昂志+鈴木一誌+諏訪敦彦+石坂健治(予定)+中村秀之+藤井仁子

ツチモトを忘れるな。記録映画作家・土本典昭(1928─2008)。その偉業をヤマガタの地で顕彰するのは、ドキュメンタリー映画を愛する者の務めであろう。これは追悼シンポジウムではない。遺された映画のいまだ見尽くしえぬ「光」を、映画の歴史・映画の現在へと召還するための、ワイルドキャットなアクションである。その光にみちびかれ、山形の秋の一夜、幻視の党が編まれ、無償の言葉が放たれるのだ。

*通訳無し、日本語のみ。
*聴講無料。参加退出自由。カンパ歓迎。

http://wcnt2009.blogspot.com/
企画:岡田秀則・中村大吾

チャランケほか

この秋の首都圏アイヌのみなさんのイベント情報です。

<9月30日〜10月02日>
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先住民族アイヌからのメッセージ
〜アイヌモシリと首都圏を結んで〜
プレ・イベント「アイヌ文様刺繍作品展」
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会場:足立区役所・アトリウム
地図
http://www.city.adachi.tokyo.jp/adachimap/index.html

時間:9:00-17:00(最終日は15:00まで)

<10月03日>
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先住民族アイヌからのメッセージ
〜アイヌモシリと首都圏を結んで〜
プレ・イベント「カムイノミ・講演と交流」
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●カムイノミ(儀式)
会場:先住新橋右岸・虹の広場
地図:
http://www.ara.go.jp/location/map/map04.html

時間:15:00-17:00

●講演と交流会
会場:生涯学習センター研修室1 学びピア)
地図:
http://www.city.adachi.tokyo.jp/031/d09900014.html

時間:18:00-20:00
 「チカップニコタンとアイヌラマット(魂)」
  講師-川村シンリツ・エオリパック・ア2ヌ
 (チウペツアイヌ民族文化保存会会長・アイヌラマット実行委員会共同代表)
 「コタンに生きて-伝承文化と私」
  講師-杉村 フサ
 (アイヌ文化伝承者)
*いずれも参加無料

<10月04日>
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先住民族アイヌからのメッセージ
〜アイヌモシリと首都圏を結んで〜
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首都圏には5千人から1万人のアイヌ民族が居住していると言われています。昨年はアイヌウタリ連絡会が「先住民族アイヌはここにいるよ!」と首都圏アイヌ民族文化祭を開催し、アイヌ民族の存在と権回復をアピールしました。今年は「アイヌラマット実行委員会」の主催により、旭川の文化保存会の皆さんと共に開催 されます。

日時:2009年10月4日(日)14:00〜17:40
開場:13:30
会場:天空劇場(北千住)
   北千住駅より徒歩12分
   http://www.art-center.jp/tokyo/
*参加無料

スケジュール:
 14:00〜
 オープニング(座り歌)
 講演「先住民族アイヌからのメッセージ」
  −講師1:川村シンリツ・エオリパック・アイヌ
 (チウペツアイヌ民族文化保存会会長・アイヌラマット実行委員会共同代表)
 0ー講師2:長谷川 修 (レラの会会長)
 アイヌ古式舞踊:チッカプニアイヌ民族文化保存会
 15:20〜
 アイヌウタリ連絡会4団体からの自己紹介とメッセージ
 講演「アイヌ・オカイ・アン・ワから」
  −講師:丸子 美記子(アイヌウタリ連絡会代表)
 アイヌ古式舞踊:アイヌウタリ連絡会
 未来へのメッセージ

<10月31日-11月1日>
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  第16回  チャランケ祭
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東京・中野駅前で開催されている「チャランケ祭」も今年で16回目を迎えます。皆さん、お誘い合わせのうえ、是非ご参加ください!

10月31日(土)
 13:00〜 
 首都圏アイヌの方々によるカムイノミとイチャルパ
 15:00〜
 アイヌウタリ連絡会によるアイヌ古式舞踊など
 *16時前後に終了予定

11月01日(日)
 9:00〜
 店舗開店
 10:00〜
 旗すがし(神様を迎える琉球の儀式とアイヌの清めの儀式)
 10:30〜
 琉球やアイヌ民族を中心とした伝統舞踊など
 *18時頃終了予定

会場:中野駅北口広場
ホームページ:http://charanke.com/
*現在更新作業中のため情報が2008年になっておりますが、当日の演目スケジュール詳細や出演団体はHPにて後日公開します。

Wednesday 30 September 2009

ゼミ初日

総合文化ゼミ、とは1・2年生むけの少人数授業のこと。きょうが後期分の初日で、ぼくは1時間目に「ヒトと進化」、2時間目に「歩くこと」を主題にしている。学生数、前者が6名、後者が4名。あいかわらず人気ないねえ。

いままでで、いつも目一杯(定員20名)いたのは「作文」、ついで「シェイクスピア」か。もっとも不人気だったのが「宮澤賢治」、そしてずいぶん前の「オートポイエーシス」。でも人数が少ないときほど大体うまく行くもので、きょうもさしあたっては反応がよかった。

といってもきょうは導入。1限ではもっぱらゴーギャンの「われわれはどこから来たのか、何者なのか、どこに行くのか」という絵のタイトルからはじまり、多田富雄の免疫理論へ。そして2限ではゲイリー・スナイダーのエッセー「リインハビテーション」が話の中心。

「歩き」のゼミでは、いずれ生田緑地の岡本太郎美術館までの小遠足を企画する。近すぎてつまらないが、いい気分転換になるはず。

Tuesday 29 September 2009

明治大学アフリカ文庫講演会のお知らせ

日本におけるもっとも充実したアフリカ関係文献コレクション、それが明治大学アフリカ文庫。ぼくはアフリカ大陸に足を踏み入れたことのないまま、その運営委員のひとり。

そのアフリカ文庫では、以下のような講演会を開催することになりました。興味がある方は、ぜひどうぞ。またこれとは別に、画期的なアフリカ本として読者がどんどん増えつつある『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店)関連のアフリカ・イベントも計画中です。この秋はアフリカ! アフリカに学ぼう。

アフリカ文庫講演会

日時 10月9日(金) 午後2時00分から午後3時30分

場所 中央図書館多目的ホール

講師 ダカール大学 学長 アブドゥ・サラム・サル氏(Abdou Salam SALL)氏 

講演テーマ 「ダカール大学、文化的遺産から市民社会へ Du patrimoine culturel de l'UCAD a la Citoyennete」
       (講演はフランス語、同時通訳あり)
講演内容:
(1)ブラックアフリカ基礎研究所(IFAN)の博物館学的(民族学的)遺産(Le fonds museographique de l'IFAN)
  ・豊穣と多産のシンボル(La fecondite et la fertilite)
  ・民族音楽と通信手段としての楽器(Les instruments de musique et de communication)
(2)ダカール大学のおける芸術、文化、文明論(Art, Culture, Civilisation a l'UCAD)
(3)ダカール大学の国際文化祭−「アフリカ合衆国」創設の観点から−(L'UCAD en fete ou La fete des nationalites - dans la perspective de la creation des Etats-Unis d'Afrique)
(4)映像上映(15分、「ダカール大学夏休み市民キャンプ」)(Projection du film<< Les camps de vacances citoyennes>>)

Sunday 27 September 2009

渋さ知らズ、20周年記念コンサート

そもそも日比谷の野音だってトム・ジョビンの来日公演以来。あれはいつだ? 1986年ごろか? そして89年に結成された渋さの活動がまるで視野に入っていなかったことはいくらでも責めてくれていいが、ぼくは87年から98年まで日本にいなかった。その後も、日本のバンドに、まったく注意を払っていなかった。愚かさ。むなしさ。

そしてきょう。ついにかれらの演奏をまのあたりにして。

渋さって、こんなにすごいのか。こんなに、こんなにすごいのか。CDを聴いただけでは何もわからない。この驚愕のステージ。空までかれらに味方した。3時間50分、休みなしの演奏、踊り。青空の映像に涙した。現実の青空が、その上にあった。

疑いなく、わが生涯の最高のコンサートのひとつ。漫画家の久住昌之さんの歌のうまさもあっぱれ。ゲスト・ギタリスト(?)の山本精一さんも、ぞんぶんに弾きまくってくれた。いつか、あのステージに立てるなら。まあ無理だけど、別にかまわない。

これから渋さには、すべて行くつもり。会場で会おう。会いましょう!

第1回「デジ研」のお知らせ 出版関係者のみなさんへ

第1回「デジ研」(テキストコンテンツのデジタル配信に関する研究会)を開催します。

● 電子出版、デジタル配信の可能性を探る勉強会です。

● Blogやメールマガジン等に代表されるテキストコンテンツのデジタル配信の商業化が進むなか、電子書籍の商業利用(有料コンテンツの販売等)も一般化されはじめています。未だ決定的なシステムやモデルが存在しない状況とはいえ、国内外の既存の出版社や電子出版ベンチャーなどにより、実践的な試みが数多くなされています。
  
● 「書物」とは読まれて初めてその力を発揮するものであり、その配信の可能性の広がる今、どのように「書物」を「読者」に届けるのか、そのあり方を議論する場になればと思います。

● 音楽のデジタル化がCDやレコード産業に及ぼした大きな地殻変動は、出版産業にも遅からず起こりうる変動だと仮定し、その時、私たちに何ができるのかということを一緒に考えてゆければと思います。

● 皆様のご参加をお待ちしています。
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・デジ研(第1回)

日時: 2009年9月30日(水)/午後7時〜
会場: 明治大学秋葉原サテライトキャンパス
http://www.meiji.ac.jp/akiba_sc/outline/map.html
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【共催】
・デジ研(代表:田内万里夫/株式会社アウルズ・エージェンシー)
・明治大学理工学研究科新領域創造専攻DC系

Thursday 24 September 2009

古墳へ、古代へ

絵はがきをもらうのは、いつもうれしい。友人がアイルランドの古墳ニューグランジから絵はがきをくれた。

http://www.knowth.com/newgrange.htm

ここは、行ってみたい場所のひとつ。この巨大な古墳が、紀元前3000年のものなのだから、言葉を失う。エジプトのピラミッドに匹敵する古さ。

しかし思うのだが、その時代のものが残るのは、砂漠とか寒冷地に限られているのではないだろうか。日本列島はあまりに植物の繁茂が旺盛なので、仮にその時代に巨大な構造物が作られても、見捨てられればただちに森に戻るのでは?

ダニエラが「考古学と詩」のパネルをやりたがっていて、ぼくも大いに興味があるのだけれど、扱える題材がない。石舞台? いちど奈良に旅行してみようか。最後に行ったのは1977年、大学に入った年だった。

Tuesday 22 September 2009

望遠鏡とトウモロコシ

「白水社の本棚」147号を読んでいると、宇宙物理学者の池内了さんが、こう書いていた。

「1613年にイギリスの軍艦クローブ号でやってきたジョン・セーリスは、駿府にいる家康と会見した。そのとき、銀台鍍金の「靉靆(筒眼鏡)」を献上したと『通航一覧』に記載されているのだ。ガリレオ式望遠鏡が発明されてたった4年足らずで、遙か東方の日本に渡来しているのである」

17世紀初頭の段階で、最先端テクノロジーが世界的にどの程度の速さで伝達していたのか(そして近代における視覚の専制がどのように広まっていったのか)が、なんとなくうかがえるエピソード。

これで思い出したのが、トウモロコシの伝播という謎。宮本常一先生が名著『塩の道』で書いておられたが、新大陸(アメリカス)原産のトウモロコシがどのように日本に導入されどのように広まったのかは、まったくわからないのだという。南蛮貿易のころ紹介されたものが、まったくの庶民ベースで(記録に残らないかたちで)どんどん伝わり普及していったものか。それまではヒエを作っていた山間部にトウモロコシが植えられ、よく増え、よく食べられた。これが山間部の人口を維持するには大いに力があった、ということらしい(たしか)。

かくして、アメリカスの土着の人々とヤマトの土着の人々は、すでに3、400年前、おなじ栽培植物に命を頼っていたのだと考えることには、なんともいえないおもしろみがある。

そしてその伝播の速度は、まるで根拠はないが、1970年ごろから日本列島においてハンバーガーが普及した速度にもまったく負けなかったのではないかという気がする。

Monday 21 September 2009

DC研のお知らせ(9月25日)

以下のように第13回のディジタルコンテンツ学研究会を開催します。興味がある方は、ぜひお気軽に参加してください。

ゲスト講師:土屋誠一氏(美術評論家・沖縄県立芸術大学専任講師)
日時:2009年9月25日(金)16:20〜18:20
場所:明治大学生田キャンパス 中央校舎6階 メディアスタジオおよび生田図書館Gallery ZERO

当日は現代美術/写真に関する講演の後、ギャラリー・ゼロで開催中の倉石信乃ゼミの院生展「行かなくちゃ」を、現場において講評していただきます。

土屋誠一氏プロフィール

1975年神奈川県生まれ。沖縄県立芸術大学専任講師。2001年多摩美術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了。2001年に第4回[武蔵野美術]評論賞(主催;武蔵野美術大学出版部)を受賞。2003年に「失くしたものの在処をめぐって──斎藤義重、一九七三年、再制作」で第12回芸術評論募集(主催:美術出版社)佳作を受賞。以後、評論活動を展開する。

『美術手帖』、『10+1』、『photographers' gallery press』などへ寄稿多数。主な論文に「平面・反復・差異 アンディ・ウォーホルの二連画について」(2001年)、「小林秀雄『近代繪畫』について──小林秀雄の美術評論とその方法」(『多摩美術大学研究紀要』22号、2008年)、「「横須賀」、「私」、「女」、そして「石内都」 −石内都論−」(『石内都展 : ひろしま/ヨコスカ 』、2008年)ほか多数。

2005年「disPLACEment──「場所」の置換 下薗城二・宮内理司展」、2007年「disPLACEment──「場所」の置換 vol.2 倉重光則展」(photographers' gallery +IKAZUCHI)で企画・展示構成をつとめた。

2009年に現代美術と言説との相関について考える運動体「美術犬(I.N.U.)」(http://bijutsuken.cocolog-nifty.com/blog/)を創設し、現在メンバーとして参加している。(http://www.geidai.ac.jp/pc/class/eizo.htmより引用)

Sunday 20 September 2009

しまった!

最終氷期埋没林、こんなにはっきりと根が突き出しているところは見なかった。

http://www.pref.aomori.lg.jp/douro/drivemap/tsugaru_bense.html

ざんねん!

やぶれかぶれ

イラストレーターで民俗研究家の遠藤ケイ氏の作品を20余年来愛読しているが、今年の新刊『海の道、山の道』(筑摩書房)を読んでいて、あっと思ったこと。

氏によると、トカラ列島の悪石島では「ヤブレコブレ」というと「無縁仏」をさすそうだ。

それを知って、ピンときた。いま、「やぶれかぶれ」とは自暴自棄と似た意味で使われる。これはもともと「藪霊、川辺霊」とでもいった言葉から派生したのではないだろうか? つまり、家族や親族に葬られることなく、藪に捨てられ、河原に捨てられた死人のこと。

ここから転じて、「もうどうなってもいい、行き倒れてもいい、とことんやってやる」といった意味をこめて使われるようになった表現が「やぶれかぶれ」ではないかと思うのだが、どうだろう。

その当否はともかく、人間、やぶれかぶれで行こうという気持ちにならないうちは何にもできないということだけは、改めて自分に言い聞かせよう。

Friday 18 September 2009

最終氷期埋没林への旅

国際芸術センター青森での合宿、終了。充実の4日間だった。

青森公立大学のロケーションは最高、キャンパスは疑いなく日本でもっとも恵まれた環境にある。森を散策しながら、きれいな宿舎に泊まり、このうえない設備を備えたスタジオでの作業。期間が短すぎた、またたくまに過ぎた。次回は1週間は滞在したいもの。

初日、まず八戸近郊の種差海岸を歩く。スコットランドを思わせる典型的なリンクスランドの風景が珍しい。それから青森入りし、夜はアーティスト佐々木愛さんによるワークショップ。初日の課題は、なんと刺繍! クロススティッチなんて、やったのは小学校のころか? しかし楽しめた。

2日目、八甲田山大岳への登山。酢ヶ湯温泉の先に車を停めて登り始める。前日の強い雨でかなりぬかるむ小道を行き、高度とともに気分も高揚。やがて石がごろごろする硫黄臭の谷間をわたり、美しい湿原を横切るころには爽快そのものの気分に。最後の山頂へのアプローチ部分は傾斜もきつかったが、ナンバ歩きの応用(?)で難なくこなす。頂上は標高1584メートル。

ところが寒い山頂で震えていると、いきなりものすごい速度(たぶん時速にしたら10キロくらい?)で雲が襲いかかってきて、たちまち視界は数メートルに。恐れをなして、お弁当をひろげることもせず、下山にかかる。一部の者が大幅に遅れてハラハラしたが、ともかく無事生還。雪中行軍で有名な八甲田だけど、冬にはとても一歩も足を踏み入れられないだろう。しかし、冬のその姿を見てみたい気もする。

夜は銅版画(ドライ・ポイント)の制作。これも高校以来、30数年ぶりの体験。新鮮で、驚きがあって、発見があった。みんな愛ちゃん先生の生徒となって、謎めいた絵を描き、刷った。

3日目、朝地図を見ていて発見した「最終氷期埋没林」が気になって気になって、突然出発して日本海側へ。2万5000年前の森林がおそらく氷河期の洪水に埋もれ、炭化し、海岸で露出している。大きな喚起力のある風景。そこからベンセ湿原を歩き、十三湖をぐるりと回って帰る。この日はワークショップは学生たちにまかせ、ぼくは夕食当番、鶏肉と茄子のカレーを作る。

夜、深夜の森を散歩。そして国際芸術センターの完璧な音響のアンフィシアターで、順番に歌をうたう。おもしろかった。

そして4日目、午前中に制作物の発表会をすませたあと、ふたたび八戸。八戸市美術館で露口啓二さんのすばらしい写真の大規模な展示、吉増剛造さんや同僚の倉石さんの映像作品を見る。会場では吉成くん発行の「アフンルパル通信」バックナンバーの販売も。これはうれしい。

それから美術館のある本八戸から新幹線の駅のある八戸まで、たぶん7キロくらいを歩いて戻る。馬淵川をわたる根城大橋が、この行程ではいちばんよかった。

夜、8時半すぎに東京に。ワークショップを指導してくれた佐々木愛さん、自費参加で、歩くことに関して真剣な考え方の道をしめしてくれた英文学者のダニエラ加藤さん、そして全体のコーディネートをしてくれた宇野澤昌樹くん、お世話になった国際芸術センター青森のスタッフのみなさん、ありがとうございました。

参加した8名の学生のみんなには、強烈な経験だったはず。やりたいことの数分の一しかできなかったけれど、新たな覚醒を次の糸につなげよう。来週からの秋の学期も、しっかりやろう!

Monday 14 September 2009

あ、もう今週!

というわけで、ギャラリー・ゼロでの新しい展示がはじまります。これは、行かなくちゃ!



明治大学生田図書館Gallery ZERO企画 
《行かなくちゃ》展のお知らせ

明治大学生田図書館Gallery ZEROでは、理工学研究科ディジタルコンテンツ(DC)系、倉石研究室に所属する4人の大学院生による美術・映像作品展《行かなくちゃ》を開催します。

私たちはさまざまな差異が生み出す境界によって互いに隔てられています。
制作においては境界線を越え、互いの領域の垣根を取り払い自由に領域を横断する力強さが求められます。
展覧会タイトル《行かなくちゃ》にはそんな思いが込められています。
メディアは写真やアニメーション、ビデオなど。ジェンダー、身体、日常の現象についてとらえ直す試みです。この機会にぜひご覧下さい。

出品作家:高梨こずえ 高橋慶 高橋正也 畠中景子

会期:2009年9月16日(水)〜10月2日(金)
   開催時間
   9月16日(水)〜9月23日(水) 平日10:00〜18:30 土日祝10:00〜16:30
   9月24日(木)〜10月2日(金) 平日8:30〜19:00 土8:30〜18:30 
                  日10:00〜16:30
会場:明治大学生田図書館 Gallery ZERO
   〒214-8571 川崎市多摩区東三田 1-1-1 TEL 044-934-7945
   ※一般の方は図書館入り口ゲート前の呼び出しボタンにて係の者をお呼び下さい。
   http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/ikuta/access.html
   http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/izumi/campus.html

主催:明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系
   http://www.dc-meiji.jp/

世界はひとつ(の航空会社?)

航空業界のことはさっぱりわからないが、日航に出資するのがデルタかアメリカンかエール・フランス=KLMかという話が、あちこちで話題になった。

どうせなら、航空業界に限っては世界すべてが一社ということにしたらどんなもんだろう。他のすべての産業はともかく、航空だけは、もはや競争も市場原理も何もなく、世界的に最適化された共同運行にする、と。

まあ、何が最適という点で意見がバラバラになるから、無理。それに「空は聖域、空に関わることは神聖」とでもいった合意ができないかぎりは、これはありえない。ところが人類には聖性の合意がない。世界宗教が、それを不可能にした。

いずれにせよ、大航空時代はもうピークを過ぎて、いまから2、30年後には人はそれほど飛行機に乗らなくなるだろう、とぼくはかねてから思ってきた。流通をめぐる人類史的な狂気は終わりを告げ、ローカルに自足して生きる道を探るしかないことが誰の目にもあきらかになってくるような気がする。

それとも、そうでもないのか。

Friday 11 September 2009

味愉嬉食堂のごまだし

佐伯(さいき)は握り鮨の名店がそろっていることでも知られていて、豊後水道の地魚を中心にした鮨の水準の高さは大都市ではとてもかなわない。ドバイの王室にまで出前している寿司源のような店もある。鮨や干物はもちろんすべていいが、ぼくが好きなのは「ごまだし」。

エソという魚の身をほぐして胡麻と擦り合わせ、醤油で味を整えたペースト。うどんを茹でて、これを大さじ一杯入れ、お湯を注ぐだけで、最高の味が楽しめる。

ふるさと的感覚がまったく欠如したぼくにも、この味だけは懐かしい。あるときまで、叔父が作っては送ってくれていた。今回も佐伯に着いて真っ先に行ったのが、市街地の中心にほど近い味愉嬉食堂。ごまだしうどん(400円)と冷やしごまだしうどん(500円)を頼んで、たちまち口いっぱいにひろがる海そのものみたいな味わいにみたされる。

感動するのは、味愉嬉のお兄ちゃん(たぶんお母さんと二人で店をやっている)のきっぷのよさ。うどんの旨さを堪能していると、これ食べてみて、ともってきてくれたのが、きびなごの飴煮。材料は一緒。エソの餌になる小さなきびなごと胡麻だから、なるほど、そのとおり。これもうまい。

それに加えて帰りがけ、手みやげ代わりにもたせてくれたのが、エソの卵を焙ったもの。(たらこより一回り小さいが味は似ている。)ぼくが歩きに歩いて汗だくで店に入ったので、歩き疲れたとき塩分の補給にもなるし元気が出る、といってくれたのだった。アルミホイルで包んでおやつにくれる、その心遣いがうれしい。

ちなみにこの食堂、ぼくは馴染みでもなんでもなくて、初めて入った。別に身の上話をしたわけでもない。お客さん、どっからね?と聞かれて、東京だよ、と答えただけ。とことん気前のいい若主人だった。

ごまだしの作り方は、同食堂のホームページが惜しげもなく公開している。

http://www.gomadashi.com/gomadashi.html

ひと瓶が7食分で、630円。これだけ安くて、これだけ確実にうまいものは、あまりない。ごまだし、ばんざい。いつかごまだしパーティーを開きたい。青梅の河原でやったら、最高だろうな。

この場所がすごい、2009

ここはすごい、と唸るしかない場所に行ってきました。

大分県宇目。宮崎県との県境近くの山奥にある藤河内渓谷。80メートルほどの高さの滝を水源とする鮮烈な清流が、花崗岩を削りに削って変幻自在な造形を現出しながら流れてゆく。いたるところに、さまざまなかたちのプール、カスケード、岩の表面を流れる水幕など。時には幅30センチもない急流の岩を穿つ回廊になったり、ときには青い水が深くたまり清流の魚が泳いでいたり。

これが全長8キロにわたって続く。しかも! 訪れる人は、ぼくがそこにいた2時間ほどのあいだ、他に皆無でした。水が冷たいので、足をつけただけだったけど。裸で泳いでもよかった。

曲がりくねった山道のドライヴはちょっと遠いけど、舗装が途切れることはないし、落石もなかったので、恐れるには足らず。宇目の「歌げんか大橋」から林道に入って、ちょっとしたところにある夢みたいなパン屋さん「むぎふく」(若いご主人は東京からの移住者)で買ったパンをお弁当に、晩夏の一日をゆったりと過ごすことができた。よかった。

(「むぎふく」については http://www.mugifuku.com/index.html 
をどうぞ。心意気がうれしいお店です。)

帰路、いったん宮崎県に出てから海辺の町、蒲江に。ここは小説家・小野正嗣の故郷。カリブ海小説との深い親近性をもつ作品を精力的に発表している彼の背景がはっきりとうかがえる、広大な漁師町。入り組んだ海岸線の美しさ。舟で沖合に出たところにある小島の珊瑚礁を見にゆき、こちらも大満足。

ところで、山奥の宇目から海辺の蒲江まで、すべての町が現在では大分県佐伯市の一部となっている。佐伯市は、こうした大合併で、九州でもっとも面積の広い市になったのだとか。山あり川あり海あり、風光明媚のきわみ。日没は九州最東端の鶴御崎で。そこからは四国もすぐそこに見えて。

大分県南部のすばらしさを再認識した一日でした。

Tuesday 8 September 2009

9月26日、「津田新吾への絵葉書」

ぼくらの世代の編集者で、文学や思想の分野でもっとも重要な仕事を続けてきた津田新吾が亡くなって、はや40日あまり。この夏は、ずっと彼と交わした言葉、彼とともに歩いた場所を、思い出しながら過ごしていました。ぼくにとっては編集者/著者というより、ただ単純に、同い年の親友でした。

その彼の仕事と人柄を偲ぶ会を、友人たちとともに、以下のように催します。彼が作った本の展示(全点は無理ですが!)に加え、彼と一緒に本を作った著者たちがそれぞれにとっておきの一節を朗読します。そしてみんなで、彼に宛てた絵葉書を書くことにします。

彼となんらかの接点があった人はもちろんのこと、彼を直接は知らなくても若い世代で彼の仕事に興味がある人は、ぜひお気軽に参加してください。



みなさま

 朝夕、秋めいてまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 さる7月25日、津田新吾さんが逝去なさったことで、2009年の夏は私たちにとって決して忘れることのできない夏となりました。

 ご葬儀からしばしの時を経て、来る9月26日午後、故人を偲ぶ集まりを開催いたします。

 題して〈津田新吾への絵葉書〉。筆まめで、旅先からよく絵葉書を送ってくれた津田さんのひそみにならい、みんなで彼宛に絵葉書を書こうではないかという趣旨です。

 あわせて、津田さんと縁の深い著訳者の方々に、朗読とショートトークもお願いしたいと思います。

 以前中学校の校舎だった場所を、会場に予約いたしました。「津田新吾林間学校」とでもいった感じでしょうか。三々五々、気ままにお集まりいただき、津田さんにまつわるあれこれを楽しく語り合っていただければと思います。

 どうかお気軽にご参加くださいませ。会場で多くの方々とお会いできることを願っております。

 なおご参加くださる方々には、世田谷区教育委員会の管理下にある会場の性格上、何点かご承知おきいただく必要がございます。下記の事項をご一読いただければさいわいです。また、このお知らせはご自由にご転送ください。

 発起人 管啓次郎、野崎歓、堀江敏幸、鈴木英果

…… …… …… ……

〈津田新吾への絵葉書〉

*日時 9月26日午後3時から7時ごろまで (ご都合のいい時間にふらりとお越しください。順次、朗読やトークを交えつつ、歓談したいと思います)

*場所 世田谷ものつくり学校 スタジオ http://www.r-school.net/

   東京都世田谷区池尻2-4-5 電話03-5481-9011

*朗読、トーク以外に特段、「出し物」は考えておりません。マイクおよびプロジェクターを借りてありますので、ご使用になりたい方はどうかご自由にお使いください。津田新吾あての文章を綴っていただくための絵葉書・筆記具はこちらで用意しますが、もちろん、何かお気に入りの葉書をお持ちいただいてもかまいません。

*簡単な食べ物、飲み物等を準備いたします。お持ち寄りいただくのも大歓迎です。アルコール類もOKですが、ただし会場側より「赤ワイン」の持ち込みだけは禁止とのお達しがありました。また会場は全面禁煙です。

*紙コップ、紙皿などはこちらで準備いたしますが、当日、ゴミとなったものは、できるかぎり各自に持ち帰っていただきたく思います。ゴミ回収・持ち運び用の小袋をご持参いただけるとありがたいです。

Monday 7 September 2009

張作驥『黒暗之光』(1999)ノート

張作驥のすばらしい『最愛の夏』(黒暗之光)を2回続けて見て、少し見えてきたこと。

黒暗の光とは、もちろん、盲人たちにとっての光だが、それが写真撮影のフラッシュとも、花火とも、死者たちが現れてくるマイナスというかネガティヴな光とも重なり、驚くべき稠密さで物語をつむいでいる。

最初、主人公の少女・康宜が盲目の父親を連れて台北の地下道にゆくところに胸を突かれたが、2度目に見ると、それがそれよりも前にある、少女の盲目の義母を少女があこがれるチンピラの彼(阿平)が車で送ってゆくところ(星をめぐる会話)と見事な対をなしているのに気づいた。

康宜も、阿平も、母親を亡くしている。車の場面で、少女の義母が、少年に対しても義母として受け入れている(これから受け入れる)ような予感。

とはいえ、阿平と康宜は、むしろ兄妹的な関係だとも見えてくる。キスはするけど、ふたりのあいだに性交はない。ところが最終シーンの家族写真では、阿平はそこに入ることがない以上、結局は彼は「兄」でも「夫」でもないことが暗示される。ふたりは恋人以前に留まっている。

台北の地下道は、父が実母との思い出を求めて再訪した場所。視覚を失った父にとって、音によって把握できる空間としての地下道が、過去との(妻との)唯一の接点として浮上した。

少女は父をこの世からあの世へとわたす渡守であり、それは「目」としての彼女の役割の到達点。

少しだけ知恵おくれの弟の存在が、きわだって生きている。

康宜が最後に自室の窓から花火を見るところ以後のシークエンスは、信じがたいほど完璧。これだけのものが撮れれば、ぼくなら、それでもういい。

くりかえされる単純な主題曲が、非常に、非常にいい。場面転換ごとの暗転も。

というわけで、これはまた何度でも見たい。まだ見ていない人、お勧めします。

見逃したものたち

思えば今年も3分の2が過ぎて。困った、困った。

世界のほとんどすべてをわれわれは見逃しているのだから、いまさら嘆くにも当たらないのだけれど、今年もいくつか、見たかったものを見逃した。

ニューヨークでのフランシス・ベイコンの大回顧展。ロンドンでのリチャード・ロングの大回顧展。そして先日の東京でのエイミー・マンのステージ。

まあ仕方がない。代わりに、そのつど、「私」の経験をみたしている何かがあるわけだし。

それより富士山に今年も登らなかったのが、最大の反省。9月、これから登ったら、死ぬだろうな。

Sunday 6 September 2009

プルースト

本日の東京新聞(9月6日)に、書評を書きました。

室井光宏『プルースト逍遥 世界文学シュンポシオン』(五柳書院)。

小説家が書いた批評らしく、クレイジーな着想でいっぱいの、大変おもしろい本でした。ちょっと繰り返しが多いけど。

プルーストはぼくの長い、長い、長い年月にわたる宿題。『失われた時を求めて』を、これまでは最初とまんなかと最後しか読んでなかった。ちょうどようやく読める感じになってきたところだったので、これを機に、これからのんびり取り組もうと思います。

それよりも室井さんのおかげでキルケゴールへの興味を、改めてかきたてられました。

Friday 4 September 2009

清里で

清里での最後の、そして最大の衝撃は、清里フォトアートミュージアムでの久保田博二の作品。

アジア各地で撮影された写真が、ダイ・トランスファーという手法でプリントされている。

http://en.wikipedia.org/wiki/Dye-transfer_process

1940年代にコダックが開発したこの手法、簡単にいうと3原色に分けた色を、それぞれ色素を吸収するフィルムに担わせて、版画を重ね刷りするように何度も重ねてプリントする、というもの。

美しい。これまでに開発されたすべての写真技術の中で、もっとも幅広くまた微細な色の差異を表現できる。その場で上映されていた、プリント現場のビデオが壮絶。インド人の、ああ名前が思い出せないけどみのもんたに似た名前の人が、自由自在に色を調整してゆく。その結果は、思わず身震いするほどの美しさだ。

そしてこの手法、今年、終わりを告げた。断腸の思いというほかはない。どれほどすぐれた手法でも、かけがえのない技術でも、あるとき終わりが来るのか、来ずにはいないのか。

ポラロイドも終わり、ダイ・トランスファーも終わった。人が経験する画像は、いまもどんどん変貌している。仕方がないことではあるだろうが、無くすにはあまりに惜しいものも無くなっていく。さびしさ。

ところでこのフォトミュージアム、はじめて行ったけど、すばらしい場所だ。建築がいい、環境がいい。宿泊施設もレストランも、もう営業を止めている。もったいない。この宿泊施設を、たとえば、あまり売れないけどやる気は十分の作家たちのリトリートとして開放できないものか。あるいはベルギーのどこかのお城でやってるみたいな、翻訳者たちの合同キャンプとして。

きっと創作力が爆発する場所が、実現できるにちがいないのに。もったいないなあ。じつにもったいない。

Tuesday 1 September 2009

トヨダヒトシの秋

わが友人、トヨダヒトシくんのスライドショーが、今年も秋の訪れとともに何度か開催されます。

まずは来週末、横須賀美術館にて。無料!

http://www.hitoshitoyoda.com/09yokosuka.html

今年は新作はないそうですが、これまでの3つの作品をまだ見ていない方(見た人も)、ぜひ晩夏の夕暮れを楽しんできてください。

Monday 31 August 2009

ハンドアウトの解説

ASLEでのぼくのハンドアウトの解説を記しておきます。説明する時間がなかったので。

表。左上から時計回りで。
西オーストラリアのアボリジニ絵画に描かれた地理学。
スペイン、ガリシア地方における岩石絵画と馬の放牧コースの一致。
イングランド南部、メイドン・キャッスルの迷路。
リチャード・セラのパリのチュイルリ公園に設置された彫刻。
1800年ごろのロンドンからドーヴァーへの道の地図。
イングランド北部、ハドリアヌスの城壁。

裏。左上から時計回りで。
二頭のチャウチャウを連れて散歩するジョージア・オキーフ。
プエルトリコのパフォーマンス・アーティスト、パポ・コロの「スーパーマン51」。
19世紀、アビシニア(エチオピア)の都市ハラールの街路。
リチャード・ロングの有名な「歩行によりできた線」。
デニス・オッペンハイムの「年輪」。
ナスカの地上絵を歩くマリア・ライヒェ。

ASLE-Japan 2009

週末、清里のキープ協会清泉寮で行われたASLE(文学=環境学会)に参加。

ぼくらのセッションは日曜日の午後。「WALKING 歩行という経験」と題して、以下の5人がそれぞれに発表した。まず、ぼくが簡単なイントロダクションとして歩行の目的別の分類とブルース・チャトウィンについて。ついで宇野澤昌樹(DC系修士2年)がパリを歩く堀江敏幸について、伊藤貴弘(教養デザイン修士2年)が尾仲浩二と村越としやの「地方」写真について、パコ・ガルシア(DC系修士2年)が日本の伝統的身体技法であるナンバ歩きについて、最後にダニエラ加藤(明治大学ほか講師)が歩くことの伝統をイギリスの詩人や「歩くアーティスト」に探るかたちで、それぞれ。

ひとり12分程度という限られた時間だった割には、まずまずいろいろな方向性を出せてよかった。あとはこれを出発点として、12月の明治大学生田図書館ギャラリー・ゼロでの図書展示とインスタレーション「Walking」につなげていくこと。

アメリカの代表的日本文学研究者のひとりであるコロンビア大学のハルオ・シラネさんによる基調講演にはじまり、いろいろおもしろいお話が聞けた3日間だった。特に、夜の懇親会(「とっておきの1冊」を紹介)、交流会(みんながもちよった質問にみんなが答える)、早朝の散歩(川俣渓谷を歩く)、夜の森の体験、午後の『西の魔女が死んだ』の家を訪ねるハイキングなどが、楽しい経験だった。

またアイヌの活動家、長谷川修さんのお話は、胸を突かれることの連続だった。

人文学のすべての側面が、すでに生態学的意識を抜きにしては語れなくなっている。文学に興味があり、自然や動物について少しでも考えたことがある人、ぜひASLEに加入してください。一緒に歩いたり、本を読んだりしましょう。

Saturday 29 August 2009

政治?

選挙って、うるさい。なぜあんなにスピーカーで増幅した声で、名前を連呼するんだろう。車で走り回って。白い手袋をはめたり、タスキをかけたり。21世紀になってもこんなことをやっているとは、前世紀には思ってもみなかった。

選挙のたびに思い出すのがソローの次の言葉。

「政治にしたって、政治に固有の場所を占めているだけのことで、世界全体を独占しているわけじゃありませんからね」

そして「政治家」たちの世界は、そんな政治の場所と比べてさえ、はるかにはるかに小さい。

Thursday 27 August 2009

名古屋セッションの終了

名古屋市立大学での4日間の集中講義、ぶじ終了。

現代文化の条件を論じるために過去500年のカリブ海を見直しておこう、というのが出発点。年表を順次追ったり、国別(島別)に紹介したりというスタイルではなくて、時間も空間も言語もとびこえていくつかの文章の断片を読み、むすびつけてゆくというかたちだったので、理解しづらい人もいたみたいだったが、全体としては非常に反応がよかったと思う。最後の時間に筆記試験。その問題は以下のとおり。

(1)授業を通じてあなたが発見したことを3点あげて、解説を加えなさい。
(2)授業でふれた内容を生かすかたちであなた自身の「問い」を作成し、自分で答えなさい。

さすがにこの問題だと、15人の答案がみごとに千差万別。採点するほうも、非常におもしろかった。

採点表を提出して、夕方はドイツ文化研究会での講演。翻訳と文学について、漠然と思っていることを話す。あまりまとまりがなかったが、文学関係者以外でも、文化人類学者の野村さんや精神科医の鈴木さんらがわざわざ聞きにきてくださって、とてもありがたかった。でも分野を超えた議論をうまく作り出すことができなかったのは、こっちの力不足。

これからさらに考えて、異文化間のコミュニケーションも、精神病理も、文学創作も、動物芸も、いずれはすべて「翻訳」という観点から論じられるようにしたい。


ともあれ、いい経験だった。誘いの声をかけてくださった土屋さん、ありがとうございました。また、この機会にアリゾナ時代の友人、経済学者の森さんとも10数年ぶりに再会できて、大変にうれしかった。

人の永遠の別れはいつやってくるともしれないのだから、友人たちとの再会は、できるときにしておきたいもの。

水の宇宙船

名古屋で、ほんとうにひさしぶりに栄の地下街を端から端まで歩いた。

30数年前、中学・高校のころはこの地下街が通学路。バスの乗り換えの都合で、西の端から東の端まで、学校がある日には必ず歩いた。いまは商店の並びはもちろん変わっているけれど、そして書店にも名前が変わったところがあるけれど、基本構造は変わらず。地下街とは19世紀的アーケードが地下に潜ったもの。人の顔、顔、顔が、怖いくらいの波となって押し寄せてくる。

それから地上に出ると、むかしのバスターミナルが宇宙船になっていた! 水の宇宙船。屋上庭園にでっかい池が作られている。綺想、名古屋ならではの。2002年にはできていたというのだが、初めて来た。過去7年ほども、栄にはほとんど来てなかったということか。

おなじひとつの都市の中でも、行く場所、行かない場所は、はっきり分かれるもんだなあ、と改めて思った。人それぞれのケモノ道が、年ごとに変化してゆくわけだ。

Tuesday 25 August 2009

世界最長寿のゴリラ

きょう見かけたポスターで知って、じーんと感動したこと。

名古屋の東山動物園のゴリラのうち最年長のオキは、1959年に3歳で東山に来て、今年で50年。押しも押されもせぬ、世界最長寿のゴリラだ。

ということは。1964年ごろ、幼稚園児だったぼくが東山動物園に行って見た、たぶん初めて実物を見た、あのときのゴリラが、オキだったわけだ! 

なんという生涯。どれだけの人間を観察し、どれだけの時間を瞑想にふけり、どれだけの英知をたくわえてきたことか彼女は。ただわれわれに、それを知るすべがないだけ。そして50年におよび彼女を囚われの身としたことを、詫びる方法もないだけ。

ありがとう、オキ、おばあちゃん! 近いうちに会いに行きます。せめて生の声で、お礼をいわせてください。

Friday 21 August 2009

POLART

荒木経惟さんのポラロイド写真展『POLART』が最終日なので、ラットホール・ギャラリーに行ってきた。

これは... 言葉が続かない。ヌードはもちろんだが、空も樹木もおもちゃも猫も食物も、arresting そのもの。こんなふうに撮ってみたかった、並べてみたかった。誰にもまねできっこないけれど。そもそもポラロイドで青空が撮れるとは思ってなかった(いつも失敗してばかりだったので)。

このシリーズを収めた写真集も発売されていたが、本では衝撃がなくなる。展示の力がなくなる。

まったく驚くべき作品群だった。

校正終了

9月24日発売予定のエッセー集、『本は読めないものだから心配するな』(左右社)の校正をやっと終えた。

巻末に書き足したごく短い文を除けば、すべて過去10年間に発表したものばかり。散逸するばかりだった文たちの、同窓会みたいなものか。

読書論と書評が主体だが、いくつか少しだけ長い文も入っている。多和田葉子とか、動物説教とか、翻訳をめぐって。

あとは完成の日が楽しみ。同時発売の清岡さん、波戸岡さんと、祝杯をあげよう。

Monday 17 August 2009

クマが眠れない島、山?

以下、米田一彦『クマは眠れない』(東京新聞出版局)からの引用です。同書、43〜44ページ。

「私という存在は、いつもクマの死とともにあった。涙の後に花を愛でることも許されない日々だった。暗やみに松明を灯そうにも、いつも涙雨に消された。私はいつも生き物の生死のあり方を自分に問うてきた。歩いているブナの林間で、ふと気高い樹冠を見上げるとき、私の胸に『絶滅』という二文字が去来する。

 日本人はクマを、この日本から駆逐するのか、残すのか。

 私は、「クマ」と「自然の森」と「そこに棲むあらゆる野生生物の豊かな生態系」は同義語であり、クマを守るためには森全体の保全が必要で、したがってクマが守られればすべてが守られるのではないか、と思っている。単なる除去論は、二一世紀の地球人が目指そうとする野生動物との共存理念に逆行するものだろう。仙台、広島、札幌。百万都市にクマが棲む国は日本だけではないだろうか。世界に冠たる日本の自然環境を誇るなら、クマと共存すべきだ。

 『クマは世界に誇る日本の宝』だということを、われわれ日本人だけが気づいていないのではないだろうか。クマ(森)との共生という思想は、縄文以来の日本古来の伝統文化そのものではなかったか。」

「図書新聞」8月15日号

留守中に出ていたのが図書新聞。

4月に出版された宇野邦一『ハーンと八雲』(角川春樹事務所)の書評を書いた。

ハーンの大きさが、改めてわかったような気がする。ハーンの英語圏での評価は、まだまだこれから高まっていくだろう。そのとき、宇野さんや西成彦さんのハーン論が、当然、大きな刺激になるはず。ただ、それを受けとめるだけの外国の文学研究者の数が、まだあまりにも少なすぎる。日本語が読める「日本文学者」にとっては、英語作家ハーンは二次的な興味の対象でしかないだろうし。

「国語」はおろか「作家」個人という<個>にすらとらわれないというのが「比較文学」という領域の唯一の約束事。日本語が読める非日本語系比較文学者は、たぶんいま、各地で育ちつつある。そうした人たちとの共同を作り出すのが、目下の課題のひとつ。

スコットランドの高地を3日がかりで

グレン・グールドやマーシャル・マクルーハンの研究者でロシア文学者でもある(音楽と文学とメディア論、カナダとロシア、すごい組み合わせ!)宮澤淳一さんのサイトを見ていると、サイト名について、以下のような説明があった。

「サイトの名称 walkingtune は, 作曲家パーシー・グレインジャー(1882-1961)の同名の作品に拠ります. 1899年,彼がスコットランドの高地を3日がかりで徒歩旅行したときに口ずさんだ旋律です.(各種の演奏・録音があります.)

グレインジャーは長らく忘れられていた作曲家ですが, 宮澤淳一はその日本での紹介に努めています」

3日間の徒歩旅行! スコットランドのハイランドを!それだけであまりにも魅力的。

聴いたことがない作曲家だが、こんど探してみよう。

Sunday 16 August 2009

転職10年

日本の大学ではじめて授業をもったのは、1999年夏。東大駒場での「カリブ海文学」の集中講義で、1週間かけてエメ・セゼールの『故郷への帰還のノート』を読んだ。他には映画『マルチニックの少年』や『アワラ・スープ』を見て。それを思うと、この10年、この方面ではまったく進歩がない。

出席してくれた学生は10名足らずだったが、工藤晋、中村隆之、藤田さつきなどとは、いまでも交遊が続いている。うれしいことだ。

その翌年から明治に勤めはじめ、その10年のあいだにも環境は激変しているし、学生たちのエートスも変わらないようでいて相当に変わっているように思う。

それもあたりまえか。修士1年の原一弘がいっていたが、物心ついたころメディアが「バブル崩壊」を叫び続け、小学校低学年でオウムや阪神大震災の報道に接した世代には、その世代なりの共有された世界観が生じないわけはない(ぼくらにとってはベトナム戦争であり、1968年であり、連合赤軍だったが)。

と書いているうちに、朝の最高の時間帯が終わり、気温が上がってきた。きょうはだらだら汗を流しながら、仕事にとりくむか。

デジタルへのシフト

今回のポリネシア旅行では、かねて愛用しているリコーのコンパクトカメラ2機種、GRのフィルムのやつとデジタルのやつをどちらも持って行ったのだが、結局、フィルムは8本持って行ったうちの1本しか撮らず。デジタルで2000枚くらい撮った。

フィルムの入れ替えが必要ないし、夜コンピュータに移して、あとは充電をちゃんとすれば、いくらでも撮れるし、消せる。

何より、いちばんいいのは、人物スナップを撮ったとき、その場で相手にも見てもらえること。この習慣が確立してしまえば(事実上そうなっているーーこどもたちはもうカメラとはそういうものだと思うようになっている)、旧来のようにその場で画像が見られず撮られただけというのは撮られるほうにとってあまりうれしくないことになるだろう。

ぼくはポラロイドが好きだったが、もうないし。2002年ごろは会う人ごとにチェキで2枚撮って、1枚を相手に、1枚を自分にというかたちで溜めていた。チェキはすごくいいけど機動性に欠けるし、フィルムがかなりかさばる。

たぶんこの夏をもって、全面的にデジタル化かな。あとはマニュアルのフォーカスとホワイトバランスの調整を学ばなくてはいけない。

でもGRS1台を使いつぶして写真集を1冊作るというところまでやってみたい気もする、いちどは。あいかわらずの犬猫写真でも。

踊るマリオ曼陀羅!

田内万里夫さんから、次回のイベントの案内をもらった。現役最高のストリッパー牧瀬茜さんのボディに、マリオくんのあの自然成長的曲線がライヴで描かれてゆく。これは強烈な予感! その日、ぼくは清里合宿なので行けないのが残念。みなさん、ぜひどうぞ。

クラブの名前がWomb Loungeだというのもすごいね。


“日本のトップ・ストリッパー・牧瀬茜の裸体が、アーティスト・田内万里夫によるボディ・ペインテイングで、踊るマリオ曼陀羅へと変身する。独自のエレクトロニック・ミュージックを世に放つNumb+Saidrum(EKOUNE SOUNDS)、METAMORPHOSE、FUJI ROCK FESTIVALなど数々のレイブやクラブ・ミュージックシーンで幅広い活動を展開するTARO ACIDA(Dub Squad, FLAT!)をゲストに迎え、ストリッパー、舞踏家など、身体表現者たちを撮り続ける写真家・谷口雅彦によるライブ・フォトセッション、cloudchair として活動中のJake(元GUNIW TOOLS、SUPER SOUL SONICS)が、異才・石田幾多郎とのアンサンブルで音響空間をデザイン。ストリップとアクション・ペインティングによる視覚世界を、容赦ない音像空間が包み込む。”(WOMB LOUNGE告知より)
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■ S/TRIP ■
@ WOMB LOUNGE (東京/渋谷)
8/29(土)
open: 13:30 / start: 14:00
close: 18:00
予約/前売: 2000yen + 1drink (500yen)
当日/door: 2500yen + 1drink (500yen)

ACT:
S/TRIP
牧瀬茜 (stripper)
田内万里夫 (painter)
谷口雅彦 (photographer)
cloudchair featuring 石田幾多郎 (music)

GUEST ACTS:
Numb + Saidrum (EKOUNE SOUNDS)
TARO ACIDA (DUB SQUAD、FLAT!)
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各出演者やメール予約などの情報は以下のURLよりご確認いただけます。http://mario-mandala.seesaa.net/article/125618625.html

サモアの夜

サモアではあちこちにファレがある。ふだん住んでいる西洋式の家屋とは別に、伝統的な、吹き抜けの、あずまやのような建物。夜になると暗闇の中、ファレに電灯がともり、人々が集まっている。

車座になって真剣に話し合いをしているところもあれば、おばあちゃんが小さな孫たちを1ダースくらいまとめて遊ばせているところもある。深夜、12時。あるファレでは老人がふたりぽつんと腰を下ろし、話をするでもなく、じっとそこにいる。また別のファレではごろりと横になったおばさんたちが何か冗談を言い合っている。そのままそこで眠るのだろうか。すずしい風に吹かれて。

昼間は怯えた顔で人を避ける痩せ犬たちが、夜には攻撃的になり、吠えかかってくる。群れをなして。これはトンガと共通。

ポリネシアの国々はどこも似ているけれど、サモアがいちばん人がフレンドリーだという気もする。

Monday 3 August 2009

建築学科の「スタジオワークス展」

現在、明治大学生田図書館ギャラリー・ゼロでは、建築学科の3年生による「計画・設計スタジオワークス展2009」を開催中。9月13日まで。

さっき見てきたが、すばらしい出来映えだ!

川崎の、生田の近くに「子どもと老人のふれあいサポート施設」「文化交流センター」「多摩コミュニティコンベンションホール」の三つの公共施設を設定し、それを課題として設計する。

どれもよく考えられた、魅力的な建物。模型が非常によくできている。

理工学部では、建築学科にいちばんやる気がある子がたくさん集まっていることは、否定できない。やるか、やらないか。できるか、できないか。そして、大変な時間と労力を、つぎ込めるかどうか。それがきびしく問われることにかけては、やはり建築以上の学科は(平均的に見るなら)ないだろう。

時間と、作業。時間と、作業。結局それしかないことくらいわからないのか、といいたくなる相手が多いのは、別に学生に限った話ではないけれど。

背景と指導

日本語のアクセントはあまりに気ままで、ある単語をどう発音すればいいのかわからないことが多い。ぼくの場合、両親がそれぞれまったく別の地方の出身で、しかもそのいずれとも無縁の場所を転々として育ったため、アクセントに関しては正誤も何も(正誤があるとして)判断できないことが多い。

それでも、ときどき気づくことがある。

たとえば最近、「背景」を「拝啓」と、「指導」を「師道」と発音する人が多いなあ、と感じている。最近も、ある会議で、6人中4人が「背景」を「拝啓」(つまり「は」が高い)と発音するので、あれ?と思った。念のためアクセント辞典を調べてみると、やっぱり「背景」も「指導」もフラットだ。

まあ、どうでもいいことなのだが、ときどき、人にわざわざ非「標準」のほうに直されるときがある。

学生のころ、バイト先の出版社で「密教」の話になって、ぼくが「み」っきょう、と発音すると、その場にいた他のみんなから「みっきょう」(フラット)と訂正された。でも「新明解」は両者を併記している。

これも学部生のころ、ぼくが「ら」っこ、ってかわいいね、といったら、いまは高名な翻訳家になっている友人から「らっこ」(フラット)だと訂正された。しかも彼は何の根拠があってか、「本だけでことばを覚えたやつはそうなるんだよな」と付け加え、こっちもさすがにカチンときた。「新明解」は両者を併記している。

映画はぼくにとっては「え」いが、だが、これはいまは「えーが」(フラット)で発音する人のほうが多いみたい。「新明解」ではフラットは(新)。

まあ、アクセントは世につれ。こだわるつもりもない。「は」いけいも、「し」どうも、そう発音する人が多くなればやがてそうなっていくんだろう。

Sunday 2 August 2009

すごい一日

強烈な思考の竜巻だった。第1回・合同ゼミは10時に開始。ひとりあたり(質疑応答を入れて)20分の持ち時間で16名が発表。終了は、17時50分。

発表者は、以下のとおり。佐藤、原(一)、篠塚、宇野澤、黄、于、滝沢(以上、DC系学生)。ついで外部ゼミ生に移って、志村、河内、原(る)、佐々木、大洞、工藤、大塚、星の、賀内。最後にゲストの宮澤くんが感想を述べてくれた。

これに、カナダに里帰り中のパコ、アフリカ旅行中のケン、そして外部ゼミ生の安西、中村、敷田が加わったら、さらにすごいことになっていただろう。

あまりにも多岐にわたる問題の中から、共通するいくつかのトピックが浮上してきたのが不思議。

次は半年後、来年2月くらいに、年間のまとめを(合宿で?)開催してみたい。

古いともだちに電話

ともだちのAが、Bに行くことになった。
Bという土地の名はよく知っている、古いともだちのCが住んでいるから。
Cは30年前、20歳のころの親友だ。
ぼくはBに行ったことがない。
Cに電話をかけてみた。
ああ、C? ひさしぶり。元気?
なんとかやってるよ、とCがいった。30年になるなあ、そろそろ。どうして電話をくれなかったんだ?
ごめん、ごめん、なんか忙しくてさ、いろいろ。人生が。あのさ、Aっていうやつがいてね、こっちのともだちで。
そう?
そう。それで、そいつがこんどBに行くんだよ。ていうか、もう行ってる。
そう?
そう。それで、そいつに会って、そっちのようすや生活を、教えてやってくれないかな。
ああ、いいよ。よろこんで。明日の朝にでも、会ってみるよ。
ありがとう、C。きみにも会いたいよ、また。そのうち会わなくちゃ。
ああ。いつでもいいよ、来てくれるなら。こっちからは行けないからなあ。
そうだね。じゃあ、Aをよろしく。
ああ、心配しなくていいよ。すぐ親しくなるから。Aはおまえのともだちだろ? だったら、すでにおれのともだちだよ。
うん。じゃあ、また。ありがとう。
うん、また会おう、いつか。

ぼくは電話を切った。Aは、もうBに着いている。その電話は、一度だけ、かけることが許されている電話。
Cがそういってくれただけで、ぼくは何かなぐさめられた気持ちになった。
ぼくはまだBには行かない、行けない。
でもいつか、必ず、BでAやCと再会する。
そのときまでは、日々の仕事がつづく、生活がつづく。

Tuesday 28 July 2009

報道写真の傑作

こないだ、宇宙飛行士の若田さんが宇宙から撮影したカムチャツカ半島の火山の噴火写真に感動したけれど、またすごい傑作。

7月25日(土)の朝日新聞に掲載。キャプションには「高架下の道路で、ライトがついたままの自動車が水没していた」とある。撮影場所は福岡市南区大橋、古田大輔撮影。

異常な状況下の、異様な美しさだ。報道写真はおもしろい。

原瑠美の36冊

外部ゼミ生、原瑠美さんのリストです。もともと日本文学を勉強していて、いまは企業で翻訳の仕事をしている彼女、これからどんな展開を見せるのか、楽しみ。日曜日もよろしく!

1. 自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

中川李枝子作、大村百合子画『いやいやえん』(福音館書店、1962年)
平岩弓枝『風子』(新潮社、1978年)
泉鏡花『高野聖・眉かくしの霊』(岩波文庫、1992年)
今井源衛他校注『堤中納言物語・とりかへばや物語(新日本古典文学体系26)』(岩波書店、1992年)
河合隼雄『明恵夢を生きる』(講談社+α文庫、1995年)
米井力也『キリシタンの文学』(平凡社、1998年)
ロラン・バルト『記号の国1970(ロラン・バルト著作集7)』(石川美子訳、みすず書房、2004年)
福田恆存『私の幸福論』(ちくま文庫、1998年)
安田登『ワキから見る能世界』(NHK出版、2006年)
Bataille, George “L’érotisme” (Les éditions de minuit, 1957)
Jung, C. G. “The Archetypes and The Collective Unconscious (Collected Works of C.G. Jung Vol. 9 Part 1)” (Princeton University Press, 1981)
Tyler, Royall “Japanese No Dramas” (Penguin Classics, 1992)

2. 自分が専門と呼びたい分野の12冊(アート、都市、廃墟)

赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊編『路上観察学入門』(ちくま文庫、1993年)
クリストファー・ウッドワード『廃墟論』(森夏樹訳、青土社、2003年)
海野弘『パトロン物語—アートとマネーの不可思議な関係—』(角川書店、2002年)
ドミニック・オドルリ、ラファエル・スシエ、リュック・ヴィラール『世界遺産』(水嶋英治訳、白水社文庫クセジュ、2005年)
谷川 渥『廃墟の美学』(集英社、2003年)
ルネ・デヴナン『伝説の国』(笹本孝訳、白水社文庫クセジュ、1978年)
中沢新一『芸術人類学』(みすず書房、2006年)
長谷川如是閑『倫敦!倫敦?』(岩波文庫、1996年)
バルテゥス、セミール・ゼキ『芸術と脳科学の対話―バルテュスとゼキによる本質的なものの探求』(桑田光平訳、青土社、2007年)
前田愛『都市空間と文学』(筑摩書房、1992年)
ル・コルビュジエ、ポール・オトレ『ムンダネウム』(山名義之・桑田光平訳、筑摩書房、2009年)
Gabriel Bauret, Ikko Narahara “Ikko Narahara photographies 1954-2000” (Maison européene de la photographie, 2002)


3. 「現代性」を主題とする12冊

デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』(高祖岩三郎訳、以文社、2006年)
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫、1998年)
小山登美男『現代アートビジネス』(アスキー・メディアワークス、2008年)
坂口安吾『堕落論』(新潮文庫、2000年)
島田雅彦『退廃礼讃』(読売新聞社、1998年)
ダグラス・K・スミス、ロバート・C・アレキサンダー『取り逃がした未来—世界初のパソコン発明をふいにしたゼロックスの物語—』(山崎賢治訳、日本評論社、2005年)
アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア―刻印された時間—』(鴻英良訳、キネマ旬報社、1988年)
坪内祐三『靖国』(新潮文庫、2001年)
中上健次『現代小説の方法』(作品社、2007年)
中沢新一『緑の資本論』(集英社、2002年)
四方田犬彦『日本のマラーノ文学』(人文書院、2007年)
Philip K. Dick “Do Androids Dream of Electric Sheep?” (Orion Publishing Group, 1968)

工藤晋の36冊

外部ゼミ生で友人の工藤晋のセレクションです。彼はジャズ・ピアニストで都立高校の英語の先生。即興の哲学には、ぼくも大いに興味があります。


自分の考え方・感じ方・判断力の核をなす12冊

1) 串田孫一『光と翳の領域』、1973年、講談社文庫
2) ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』(1912)、豊島与志雄訳、岩波文庫
3) フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』(1885)、氷上英廣訳、岩波文庫
4) 森有正『バビロンの流れのほとりにて』(1957)、筑摩書房、1978年
5) 村上春樹『風の歌を聴け』(1979)、講談社文庫
6) 小川国夫『海からの光』(1973)、講談社文庫
7) 西脇順三郎『あむばるわりあ』(1947)、筑摩書房、1982年
8) ルネ・デカルト『方法序説』(1637)、落合太郎訳、岩波文庫、1979年
9) ブレーズ・パスカル『パンセ』(1670)、前田陽一責任編集、中央公論社、1978年
10) 山口昌男監修『説き語り記号論』、国文社、1983年
11) 丸山圭三郎『ソシュールを読む』、岩波書店、1983年
12) 山下邦彦編集『キース・ジャレット 音楽のすべてを語る』、立東社、1989年


今回の「専門」とする12冊

1) エドゥアール・グリッサン『〈関係〉の詩学』(1990)、管啓次郎訳、インスクリプト、2000年
2) エドゥアール・グリッサン『多様なるものの詩学序説』(1996)、小野正嗣訳、以文社、2007年
3) エドゥアール・グリッサン『全-世界論』(1997)、恒川邦夫訳、みすず書房、2000年
4) ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』(1993)、上野俊哉、毛利嘉孝、鈴木慎一郎訳、月曜社、2006年
5) ウィリアム・フォークナー『アブサロム・アブサロム』(1936)、高橋正雄訳、1998年
6) ガストン・バシュラール『空間の詩学』(1957)、岩村行雄訳、ちくま学芸文庫、2002年
7) ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ『知恵の樹』(1980)、管啓次郎訳、ちくま学芸文庫、1997年
8) ウンベルト・エーコ『開かれた作品』(1967)、篠原資明、和田忠彦訳、青土社、2002年
9) デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション』(1980)、竹田賢一、木幡和枝、斉藤栄一訳、工作舎、1981年
10) 山下邦彦、ティモシー・ヒル編訳『インナービューズ キース・ジャレット』、太田出版、2001年
11) リロイ・ジョーンズ『ブルースの魂 白いアメリカの黒い音楽』(1963)、上林澄雄訳、音楽の友社、1965年
12) アリストテレス『詩学』、松本仁助、岡道男訳、岩波文庫、1997年


「現代性」を主題とする12冊

1) 今福龍太『群島-世界論』、岩波書店、2008年
2) 管啓次郎『オムニフォン』、岩波書店、2005年
3) 市田良彦『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』、白水社、2007年
4) 石田英敬『記号の知/メディアの知』、東京大学出版会、2003年
5) ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』(1994)、石田英敬監修、法政大学出版会、2009年
6) ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(1980)、宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、豊崎光一、宮林寛、守中高明訳、河出書房新社、1994年
7) ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』(1970)、岡田温司、岡部宗吉、多賀健太郎訳、人文書院、2002年
8) ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、山田登世子訳、1987年
9) 石塚道子、田沼幸子、富山一郎『ポスト・ユートピアの人類学』、人文書院、2008年
10) 鵜飼哲『主権のかなたで』、岩波書店、2008年
11) Edouard Glissant, Tout-Monde, Gallimard, 1993.
12) ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』(1918)、ちくま学芸文庫、2002年

東京イチャルパ

8月9日は見逃せない。心して行こう、学ぼう、その心を。ぼくは東京にいなくて行けないけれど、みんなぜひどうぞ。



東京イチャルパ 8/09
テーマ:イベント情報
東京イチャルパ
〜シンリツモシリ・コイチャルパ〜

イチャルパとはアイヌ民族の伝統的な先祖供養です。

 1872年、北海道から38名のアイヌが「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」および「第三官園」に強制連行、就学させられました。そのうち5名は故郷から遠く離れた土地で亡くなりました。また、何らかの理由で北海道を離れ関東で亡くなったアイヌも想い、アイヌプリ(アイヌの作法)でイチャルパ(先祖供養)を行ないます。東京イチャルパは2003年にはじまり、今年で7回目となります。

日時:2009年8月9日(日) 午後1時から5時
場所:港区芝公園内4号地 みなと図書館近く
交通:都営三田線「御成門」徒歩2分 JR「浜松町」徒歩12分
主催:東京・イチャルパ実行委員会
連絡先:レラの会 長谷川(090-8048-6126)

ホームページ: http://tokyo-icarpa.com/

 
プログラム
 13:00 カムイノミ(神への祈りの儀式)
 14:00 イチャルパ (先祖供養)
 16:00 アイヌ古式舞踊
 17:00 終了
 

 
 イチャルパとは、アイヌ民族の伝統的な先祖供養です。女性が行う儀式で、一人ずつ、先祖供養用の神棚にイナウ(御幣)やにごり酒、供物を供えます。それらが先祖の国に住む先祖に届くと考えられています。

  囲炉裏に立てたアペフチイナウ(火のカムイの御幣)にトノト(御神酒・にごり酒)をたらし、アペフチカムイ(火のカムイ)を通して、様々なカムイに言葉を語りかける儀式です。その後、イチャルパ(先祖供養)へと続きます。

● 一般の方も儀式を観覧できます。
● 儀式の最中は大きな物音や声を立てず静かにご覧ください。
● 写真撮影はご遠慮ください。東京・イチャルパ実行委員会の了解を得ない撮影はお断りさせていただ
いています。
● 儀式を行う場所にはヌササン(イナウ=御幣を並べた神棚)があります。カムイの通り道であるた
め、その周辺には極力近づかないでください。

Monday 27 July 2009

8月2日

ゼミの前期まとめのセッション、いよいよ来週の日曜日(8月2日)です。

午前10時からアキバで。まず内部ゼミ生、ついで外部ゼミ生に移ります。

自分の「36冊のリスト」をA4の片面にまとめて(レイアウトやフォントは自由)、コピーを20部作っておいてください。(解説部分は不要。)

それに基づいて、ひとり15分、いま自分が考えていることの最先端の部分を話してください。質疑応答5分で、計20分です。

何か、根本的な発想の転換につながれば。そして思ってもみなかった視界が開けるなら。よろしく!

Sunday 26 July 2009

ハワイの風

25回目を数える今年をもって幕を下ろす、「東京の夏」音楽祭。これまで、ずいぶんいろいろ楽しませてもらった。

今年の目玉はウクレレのエディ・カマエ。ハワイアン・ルネサンスの中心人物、現在われわれが知るかたちでのハワイアン音楽を作り上げてきたひとり。今年で82歳という高齢にもかかわらず、その演奏も歌も、ほれぼれとする成熟ぶり。

驚いたことに、日本のハワイアン・ファンも層が厚い! 満席、かなり平均年齢は高いが、ほとんどロッケンロールといいたいパワフルな演奏をよく受け止め、またヒット曲をハワイ語の歌詞で合唱する。理想的な聴衆だろう。

おかげで青山がそのままワイキキになり、この上なくリラックスした、美しい夕べになった。

ハワイはいい、ハワイはそのまま遠い世界に通じている。ポリネシアの中でも、なぜハワイだけが、あそこまで洗練された踊りと音楽をもつことになったのか。それをまた、アオテアロアやサモアで考えてこよう。

Thursday 23 July 2009

ハーモニー・コリン

日蝕は残念でした。翌日の午後、つまり今日、ハーモニー・コリンの3本を、ひといきに続けて見る。

どれもすばらしいが、やはり『ジュリアン』がきわだっている。なんという映像。なんという展開。

さしあたっての疑問は二つ。

(1)冒頭の少年殺しは、すべてが終わったあとのことなのか?
(2)悲劇の現場でユダヤ教の少年が歌う歌の意味は?

ゆっくり考えていきたい。

Wednesday 22 July 2009

日蝕

ついに日蝕の日。お天気はどうかな? 

3年くらいまえには、船に乗って悪石島に行くつもりだった。でも住んでいるところで見ることに意味があるような気がして。

西日本のほうが天候に恵まれそうなので、友人のひとりは今夜、皆既日蝕は無理でも相当に欠ける博多に向かった。

カメラ・オプスクラの原理による「光の鱗」が見られるといい。

Sunday 19 July 2009

パティ・スミスが!

なんというイベント! 急げ。

http://www.towerrecords.jp/store/event/882.html

Friday 17 July 2009

ヒロシマへ

学期も大詰め。これから8月1日の大学院入試までは、息もつけない。とはいっても日蝕の日には、ぼんやり空を見上げたい。皆既日食ではなくても、東京でもウロコ型の影が見られるはずだ。

午後、数人の大学院生たちと、ヒロシマ映画を3本連続で見る。アラン・レネ『24時間の情事』(『ヒロシマ、わが愛』1959)は、なんといっても広島の町の移動撮影がすばらしい。語り得ない記憶、をめぐる話。語ってしまえば、結局それだけのものになってしまう。そして語り終えたとき、できごとはステータスを変え、地名が端的にそれを表すものになる。地名。すべてを伝えるもの。何も伝えないもの。

吉村公三郎『その夜は忘れない』(1962)は、非常に興味深かった。冒頭から、団伊久磨の音楽がブキミな情感をかきたてる。物語はかなり無理があるのだが、田宮二郎が川に浸かりながら号泣するラストは衝撃的。握ればもろく崩れるヒロシマの石が、展開の中心。

スティーヴン・オカザキ『ヒロシマ/ナガサキ』(2005)は必見のドキュメンタリー。まさに「語り得ない」体験を、あえて語る人々の姿が、『ヒロシマ、わが愛』に対する回答になっている。

50年、半世紀。あっというまに過ぎた。そして広島、長崎の経験をめぐるわれわれの考えは、別に深まったわけでもない。ヒロシマを主題とする映画作品を、これからも探していこう。おりしも今日の新聞に、三宅一生さんの文章が出ていた。7歳にして原爆を体験。それにふれることなくキャリアをすごしてきた彼が、いま語りはじめた。

Wednesday 15 July 2009

ギャラリー・ゼロで

建築学科3年の片山くんたちがインスタレーションの準備をしている。この金曜日から週末にかけて、展示。

キャンパスの時間の停滞を表すため、本棚やテーブルやソファをコンクリートで固めるそうだ。壊れたギターやスケートボードも。

どんなものになるかわからないが、がんばってくれ!

カリブのあれこれ

早稲田での「カリブ海文化論」、先週と今週の2回、みんなに発表をしてもらった。

話題はいろいろ。国旗のデザイン、キューバ概説、カリプソとスティールパン、ディアスポラ音楽、ハイチ入門、ニューオーリンズ音楽、ついでマリーズ・コンデ、キューバ経済の現状、『ジャマイカ、楽園の真実』について、カブレラ=インファンテの短編、世界遺産学検定とキューバ、ファノン、ヴォドゥとゾンビ、映画『ロッカーズ」と70年代のジャマイカ。

これだけ幅があると、聞いてておもしろい。ごくろうさま。

あとは期末試験。授業でとりあげたことはすべて出るかも。きちんと準備してきてほしい。

Monday 13 July 2009

倉橋由美子文学賞!

これはすごい。明治大学の父母会が、なんと文学賞を創設しました。

http://www.meiji.ac.jp/koho/hus/html/dtl_0004530.html

倉橋由美子文学賞(審査は高山宏さん)、そして阿久悠作詞賞(審査は阿木燿子さん)。いずれも大賞は30万円!

悪いことはいわない、DC系のみんなは、夏休みをかけて、両部門に応募すること。分母がけっして大きくないのだから、チャンスは大いにある。

がんばれ、この夏は文学だ! そして文学を文学部の学生にまかせておく必要はまったくないのだから。

「アフンルパル通信」8号

札幌の古書店・書肆吉成の孤高の小冊子「アフンルパル通信」8号が出ました。

今号の表紙は石川直樹さんの富士山写真! 吉増剛造さんの題字にみごとにマッチして、ほれぼれする出来映えです。

くぼたのぞみさんがついにふるさと北海道に向き合った、感動の詩編。石川さん、宇波彰先生、関口涼子さん、それぞれの鋭い短文。そして文月悠光さんの新鮮な詩。ぼくは連作Agend'Arsを、また三つだけ進めました。小石を積むみたいに。

ちょっとほかではありえない刊行物。ぜひ購読申し込みをして、吉成くんの持続を支えてあげてください。

詳細は彼のホームページ

http://camenosima.com

までどうぞ!

Sunday 12 July 2009

土曜日の旅

土曜日は土曜日でいろいろあって。

まず、駿河台校舎で1限の授業「新領域創造特論」。北野大先生をはじめ、新領域創造専攻の総力を結集してのオムニバス授業、今週はぼくの担当というわけ。水曜の3限と土曜の1限(社会人むけに)、同一内容で。

ぼくは「言語、メディア、世界の変容」というタイトルで、メディア、情報、記号といった言葉のミニマリスト的定義の話から入り、ついで現代におけるネイティヴの知の重要性などについて、考えていることを即興的に話した。

4ページの図版構成を作っていったのだが、登場するのはアレクサンダー・グレアム・ベル、ヘレン・ケラー、シャイアン族の手紙、パラアスリートでファッションモデルのエイミー・マリンズ、ジャネット・カーディフのインスタレーション、コロラド州の森林、日本におけるイノシシ狩りと熊狩りの儀礼、トリンギット族のカヌー、マオリのカヌー、トリンギット族のシャーマンのお守り、マオリの首長のカヌー記念碑(使用されなくなったカヌーを記念碑として立てて使う)、ユング、サン・イルデフォンソの鹿踊り......あれも、これも。自分自身にとって、いいまとめになった。

終了後、ちょっとぐったり。エチオピアでカレーを食べてからリバティタワーの根元でしばし昼寝。これで回復。それからアカデミー・コモンのリバティ・アカデミー「世界文化の旅・先住民編」最終回へ。中村和恵さんがアボリジニの話をする。彼女がしばし滞在してきたアーネムランドの人々の話とか、映画『10のカヌー』とか。さすがに一時も興味をそらさない話術で、受講者のみなさんも大満足だった。

和恵さんのおかげで、3年連続のこの講座はとても楽しめたし、多くを学んだ。ぼくにとっては、彼女は師匠。すばらしい詩人なのだが、最近、あまり作品は書いていないのかな? またいつか、何か一緒に企画したい。

夕方は、この講座の初年度の「アフリカ編」から生まれた『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店)の、ささやかなパーティ。これもおもしろい本で、ぼくの貢献は駄文だけに終わったけれど、みなさん、ぜひ読んでみてください。それからすぐ横浜に向かい、明治の4年前の卒業生の結婚式の二次会へ。若者たちのあいだですっかり浮きながら、めでたくも楽しいひととき。

きょう結婚した須藤、まもなく結婚する岡本、結婚なんてまるで視野の片隅にもない小林と斎藤の4人とは、かれらの学生時代に嵐をついて西表、沖縄、沖永良部島に一緒に行った。あんなにおもしろい旅行はなかった。4人はその後もアラスカにオーロラを見に行ったり、それぞれ勝手にあちこちでかけていったり。いまは中学校の数学の先生になっている須藤、新婚旅行の行き先はアルゼンチンだそうだ。いったい何を求めていることやら。ともかく、二人でいつまでも元気に旅をつづけてほしい。

長い一日が、こうしてまたたくまに過ぎていった。

Saturday 11 July 2009

隠れる必要がなくなっても隠れていることについて

ロジェさんの隠れキリシタン講義。10年前、日本に来たころはぜんぜん日本語を知らなかった彼が、すでに日本語で論文を執筆し博士号を取得し、日本語で調査しこうして講義するのだから、多言語空間をあたりまえのものとして生きているアフリカ人の、言語能力の高さを痛感。そして五島列島の隠れキリシタンに彼が寄せる情熱にも、感動的なものがある。

現在、3、400家族のおよそ1500人が、かれらの信仰を維持している。「オラシオ」を守り、「バスチャン暦」にしたがって年間行事を組織する。五島には行ったことがあるが、あのしずかな海のしずかな山々に、どんな記憶が蓄えられてきたことか。

でうすぱあてろ(deus padre)、ひーりょー(filho)、すべりとさんた(espirito santo)のみちのぺれす(persona)の、ひとつのすすたんしょう(substantia)のおんちから、ごきどくをもって始め奉る。

三位一体の力か。この朗唱をその場で聞いたら、異教徒のぼくも、陶然とするにちがいない。

帰り道、ブックカフェ「槐多」(そう、村山槐多)で、友人であり外部ゼミ生の工藤さん、佐々木さんと宗教談義。ちょっとだけ、しんみり。たったひとりの信仰を(対象がどんなカミであれ)もち、それについて沈黙を守れば、それは誰も知らないままの「隠れ」でありそんな「隠れ」の誰かが電車ですぐかたわらにいても誰も気づかない。

でうさまあてら(deusa madre)、ひーりゃー(filha)、すべりとさんた...

いずれは東北の「隠れ」の伝統も、訪ねてみたい。

Friday 10 July 2009

黄菲菲の36冊

今年の修士1年には、中国からの女子留学生がふたり。ふたりとも、やる気の塊で、ゼミのみんなにとてもいい刺激を与えてくれます。

そのひとりフェイフェイは天津出身。明治理工の建築学科から進学してきましたが、広告やファッションやデザインに強い興味をもっています。勉強熱心で、いつかきっと自分の会社を設立して大成功するにちがいない、と思えます。

折角ふたりが身近にいるんだから、ぼくも中国語を真剣に覚えよう。

以下、彼女のリストです。

1 自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(語学春秋社、原著1847年)
シャーロット・ブロンテ『Jane Eyre』(北星堂書店、原著1847年)
アレクサンドル・デュマ・フィス『椿姫』(新潮文庫、原著1848年)
梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮文庫、2001年)
新間美也『恋は香りから始まる』(飛鳥新社、2006年)
リリー・フランキー『東京タワー~ぼくとオカンと時々オトン』(扶桑社、2005年)
高橋史郎『世界の大学  知をめぐる巡礼の旅』(丸善、2003年)
マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(新潮社、原著1936年) 
ジェイン・オースティン『高慢と偏見 』(アイ・ヴィー・シー、原著1813年)
村上春樹『ノルウェイの森』(講談社文庫、1987年)
吉本ばなな『キッチン』(角川書店、1998年)
夏目漱石『こころ』(新潮社)

2 自分が専門と呼びたい分野の12冊(広告、ファッション、デザイン)

真鍋一史編集『広告の文化論―その知的関心への誘い』(日本経済新聞社、2006年)
印刷博物館編『1950年代日本のグラフィックデザイン  デザイナー誕生』(国書刊行会、2008年)
日本テレビコマーシャル制作社連盟編『CM制作40年 CM文化をつくりあげたCM制作者たち』(宣伝会議、2002年)
ブライアン・ホ-ム編著『Advertising 世界100年のベスト作品』(青木俊夫訳、誠文堂新光社、1983年)
William Lidwell, Kritina Holden, Jill Butler『デザイン、新・100の法則』(小竹由加里・バベル訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2004年)
岡本太郎『美の世界旅行』(新潮社、1982年)
電通出版事業部、メディアボンド企画編集『POP・イベント・商業空間』(東京電通、1991年)
石毛直道責任編集『食べる・飲む  料理のルーツからマナーまで 』(日本交通公社出版事業局、1982年)
フォルカー・ライヒェルト『世界の体験  中世後期における旅と文化的出会い』(法政大学出版局、2005年)
モーガン・スパーロック 『スーパー サイズ ミー』(スクリーンプレイ、2004年)
生田信一、大森裕二、亀尾敦『Design basic book : はじめて学ぶ、デザインの法則』( ビー・エヌ・エヌ新社、2007年)
デービッド・ルーアー、スティーブン・ペンタック著『Design basics : デザインを基礎から学ぶ 』 (大西央士訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2004年)


3 <現代性>を主題とする12冊

パトリック・バーゴインリズ・ファーバー『インターネットデザイン : トップ・クリエイターが選んだグッド・サイト 』(リンガフランカ訳、グラフィック社、2001年)
成実弘至『20世紀ファッションの文化史』(河出書房新社、2007年)
南谷えりこ、井伊あかり『東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論』(2004年)
アンドレ・プットマン『アンドレ・プットマン パリのインテリア』(阪急コミュニケーションズ、2007年)
並木誠士、中川理『美術館の可能性』(学芸出版社、2006年)
萩原修『デザインスタンス 新世紀のクリエイターと仕事』(誠文堂新光社、2007年)
野田邦弘『創造都市・横浜の戦略 クリエイティブシティへの挑戦』(学芸出版社、2008年)
常見美紀子『20世紀のファッションデザイン史』(スガイドア、2000年)
原研哉『Designing design = デザインのデザイン : special edition』(岩波書店、2007年)
佐藤尚之『明日の広告』(アスキー新書、2008年)
吉田喜彦、影山明俊『30時間でマスターWebデザイン』 (実教出版、2003年)
渡辺純一『鈍感力』(集英社、2007年)

STUDIO VOICE 8月号

「STUDIO VOICE」8月号は特集「本と旅する」。ぼくは西江雅之先生をめぐる短文を寄稿。

ごく客観的にいって、よくがんばっている、とてもおもしろい雑誌だと思う。まもなく休刊とは、あまりに残念。

マルコムとヴィヴィアン

マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッド。パンクの産みの親たちである二人の足跡を追うテレビ・ドキュメンタリーを、たてつづけに見る。

最高! 二人とも、あらゆる権威をまったく意に介さない。目立ちたがりではあるだろうけど、誰にもおもねることがない。やりたいことを、好きなように、妥協なくやるだけ。

ただし、二人ともそれぞれの「美」がきわめて強くあることも、はっきりと感じられる。メインストリームかエスタブリッシュメントに対する批判だけが、おもしろいものを生む。あたりまえだけど、なかなか実践できないもの。

ヴィヴィアンの指摘でハッとしたのは、イギリスは世界中に植民地をもち軍隊を送っていて、それであらゆる気候風土に対応する「制服」の文化が出来上がったということ。彼女はそんな「制服」を上手に利用し、崩してゆくわけだ。

ファッションというとぼくにはまったく縁遠い世界だけれど(70年代半ばの高校生のころはロンドン・ブーツを履いて丈の短いジャケットを着ていたけれど)、二人の足跡を見ているとがぜん興味が湧いてくる。

さいわいゼミ生のフェイフェイはファッションを専門の一部としている。一緒に、いろいろ考えていきたい。

Thursday 9 July 2009

R.I.P. 平岡正明

夕刊を開いて、あっと小さく叫ぶ。平岡正明さんが亡くなった。結局、お目にかかることができなかった。

ぼくの最初の本が出たとき、最初の書評を書いてくださった方。そのときのうれしさは忘れられない。

ご冥福をお祈りいたします。

Fringe Frenzy No.2!

お待たせしました。DC系のフリ―ペーパーとして昨年から一部で注目を集めていた「Fringe Frenzy」の第2号が、ついに完成しました! 
今回も熱い暑い厚くないはらりと1枚表うらコピー印刷のすばらしいできばえ。編集は修士1年の畠中さんでした。ごくろうさま。

例によって、手渡し主義です。電車内で、あるいは路上で海上で空中で、関係者の誰かを見かけたら、声をかけてください。さしあげます。1部でも2部でも3部でも。

よろしく!

ロジェさんの講演

踊る宗教人類学者として知られるコンゴ民主共和国出身のわれらが友人、ムンシ・ロジェ・ヴァンジラさんの講演が7月10日にあります。

題して「隠れキリシタンの現在 コンゴ人研究者が見る日本の宗教シンクレティズム」!

明治大学和泉キャンパス(明大前)第3校舎21番教室で、16:30〜18:00。

参加自由です。なんという福音! コーディネーターは中村和恵先生です。みんな、ぜひ行きましょう。

Sunday 5 July 2009

ほら、山のむこうも山だ

日本は列島、大部分は山。ちょっと出かければ、いいところはいくらでもある。日帰りだってできる。

そんな山登り、山歩きの実践にあこがれつつ。

http://say21.at.webry.info/200907/article_1.htm

いいよね、こんな山道! せめて毎月、どこかに出かけていきたい。遠足気分で。遭難寸前まで。

DC系山歩き企画を、そろそろはじめようか。

Saturday 4 July 2009

賀内麻由子の36冊

外部ゼミ生、賀内さんのリストです。出版社勤務の彼女、ひとひねりもふたひねりもあるセレクション。これからもよろしく!


(1)自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

オリヴィエ・フェルミ『凍れる河』(檜垣嗣子訳、新潮社、1995年)
シオドーラ・クローバー『イシ 北米最後のインディアン』(行方昭夫訳、岩波書店、1970年)
大竹昭子『アスファルトの犬 臭覚的都市探検』(住まい学大系)(住まいの図書館出版局、1991年)
新宮晋『いちご』(文化出版局、1975年)
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波書店、1982年(文庫))
橋本治『貞女への道』(河出書房新社、1987年(文庫))
宮本常一『民俗学の旅』(講談社、1993年(文庫))
竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(筑摩書房、1988年(文庫))
太田省吾『なにもかもなくしてみる』(五柳書院、2005年)
森有正『遥かなるノートルダム』(筑摩書房、1967年)
押田成人『遠いまなざし』(地湧社、1983年)
ブーバー『我と汝・対話』(植田重雄訳、岩波書店(文庫)、1979年)

(2)自分が専門と呼びたい分野の12冊 生命・継承(dialogue in the dark)

森崎和江『まっくら』(三一書房、1977年)
鶴見俊輔『アメノウズメ伝 神話から延びてくる道』(平凡社、1991年)
姜信子『ノレ・ノスタルギーヤ 歌の記憶、荒野への旅』(岩波書店、2003年)
梨木香歩『沼地のある森を抜けて』(新潮社、2005年
L・マーグリス/ドリオン・セーガン『不思議なダンス 性行動の生物学』(松浦俊輔訳、青土社、1993年)
三木成夫『海・呼吸・古代形象 生命記憶と回想』(うぶすな書院、1992年)
藤原辰史『ナチスと有機農業 「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』(柏書房、2005年)
カール・ビンディング/アルフレート・ホッヘ、森下直貴・佐野誠訳『「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典を読む』(窓社、2001年)
岡崎京子『リバーズ・エッジ』(マガジンハウス、1994年)
井田真木子『十四歳 見失う親 消える子供たち』(講談社、1998年)
村瀬学『未形の子どもへ 人生四苦八苦から』(大和書房、1989年)
親子工芸教室編『知的障害をもつ子とともに 手織りの仲間たち』(晶文社、1998年)

(3)「現代性」を主題とする12冊

佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平 世界を批判的に受けとめるために(上)(下)』(凱風社、2001年)
E・ホッファー『大衆運動』(高根正昭訳、紀伊国屋書店、1969年)
内澤旬子『世界屠殺紀行』(解放出版社、2007年)
立岩真也『良い死』(筑摩書房、2008年)
花崎梟平『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、1988年)
波平恵美子『脳死・臓器移植・がん告知 死と医療の人類学』(福武書店、1988年)
日本語版編集部『力の論理を超えて ル・モンド・ディプロマティーク1998-2002』(NTT出版、2003年)
A・ミンデル『紛争の心理学 融合の炎のワーク』(講談社(抄訳)、2001年)
藤本壮介『原初的な未来の建築』(現代建築家コンセプトシリーズ)(INAX出版、2008年)
綾屋紗月/熊谷晋一郎『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』(シリーズ ケアをひらく)(医学書院、2008年)
T・ヤンソン、冨原眞弓訳『島暮らしの記録』(筑摩書房、1999年)
マリリン・バーンズ/マーサ・ウェストン、永田美喜訳『自立する子どもになろう』(子どものためのライフスタイル)(晶文社、1985年)

Thursday 2 July 2009

小島一郎のすばらしさ

新宿御苑のPlace Mに、小島一郎のオリジナル・プリントを見にゆく。ほとんど涙ぐむ。なんという写真家だったことか彼は。39年の生涯は、夭折という他ない。

そして同時に展示されている森山大道の北海道写真も、さすがに震えるような強さ。森山さんによって発見された視覚によって、われわれは別の国、別の風土へとさまよい出てゆく。

どちらも非常にいい展示なのだが、それでもなお、写真の展示一般に対する大きな疑問。ガラス越しのイメージは、損なわれている。ガラスは邪魔だ、反映像は邪魔だ。プリントそのものを見たい。

それを思うと、「写真展」というのが写真の体験として最良の形態なのかどうか、わからなくなってくる。

有名な「小島のトランプ」を、そのまま手にとって心ゆくまで見ることを夢想する。

ルはどこにいった?

朝日新聞の夕刊を見て、目を疑う。あれだけ学生たち(建築学科を含む)にくりかえしてきたことが、朝日新聞の記者には、まったく伝わっていないので(あたりまえ?)。

ル・コルビュジエの名から「ル」を省略することはできません。それが記事のサブタイトルである「コルビュジエ作品群 世界遺産「見送り」」に始まって、記事中で5カ所、ル・コルビュジエは無惨にも「コルビュジエ」にされている。

記者は責めずにおこう。責めを負うべきは校閲部(というのかどうか知らないけれど)。ル・コルビュジエの場合とはちょっとちがうけれど(いわば舞台名に対する本名なので)ル・クレジオの「ル」も省略することはできない。まさか、姓の一部を勝手に省略してどうする。ところがいずれも、これでもか、というほど多くの印刷媒体で、このまちがいがくりかえされている。

ついでにいうと、まったく別の話だけど、ベニシオ・デル・トロの名を「ベニチオ」と書くのはやめてほしい。スペイン語をイタリア語にするつもりですか。ましてや、他にも数多くの姓名や地名の、より正確な表記にわざわざ朱を入れてくる愚はぜひともやめてほしい、というのが翻訳者からのお願い。

Wednesday 1 July 2009

ケン・ローの36冊

内部ゼミ生、ケン・ローのリストです。中国系タヒチ人と日系ハワイ人の両親をもつ彼。日ごろ発音のまちがいを恐れてあまりに無口(ひとこともしゃべらない)なのですが、読む力はどんどんついています。今後どんな方向にむかうかが楽しみ。

(1)考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

ミシェル・レリス『日記』(千葉文夫訳、みすず書房、2001年)
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田・塚崎訳、講談社文庫、1973年)
マトゥラーナとバレーラ『知恵の樹』(管啓次郎訳、ちくま学芸文庫、1997年)
グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明訳、新思索社、2006年)
E・O・ウィルソン『バイオフィリア』(狩野秀之訳、ちくま学芸文庫、2008年)
ナタン・ワシュテル『敗者の想像力』(小池佑二訳、岩波モダンクラシックス、2007年)
レイチェル・カーソン『われらをめぐる海』(日下実男訳、ハヤカワ文庫、2000年)
片山一道『ポリネシア 海と空のはざまで』(東京大学出版会、1997年)
河合雅雄『人間の由来』(小学館、1992年)
Roland Barthes, Roland Barthes par Roland Barthes (Seuil, 1975)
Lewis Mumford, The City in History (Harcourt Brace, 1961)
D’arcy Thompson, On Growth and Form (Cambridge U.P., 1961)


(2)専門と呼びたい分野(刻み・造形・伝達)の12冊

アンリ・メショニック『詩学批判』(竹内信夫訳、未来社、1982年)
ハイナー・シュタッヘルハウス『評伝ヨーゼフ・ボイス』(山本和弘訳、美術出版社、1994年)
ウォルター・オング『声の文化と文字の文化』(林・糟谷・桜井訳、藤原書店、1991年)
フリードリヒ・キットラー『キットラー対話』(前田・原訳、三元社、1999年)
ケネス・バーク『動機の文法』(森常治訳、晶文社、1982年)
『アラン・ローマックス選集』(柿沼敏江訳、みすず書房、2007年)
ヘレン・ケラー『わたしの生涯』(岩橋武夫訳、角川文庫、1966年)
青木晴夫『滅びゆくことばを追って』(三省堂選書、1984年)
山口昌男『文化と両義性』(岩波書店、1975年)
篠田浩一郎『形象と文明』(白水社、1992年)
森田伸子『文字の経験』(勁草書房、2005年)
原広司『集落の教え100』(彰国社、1998年)

(3)「現代性」を主題とする12冊

東野芳明『ロビンソン夫人と現代美術』(美術出版社、1986年)
宮崎学『廃棄スイカに群がるイノシシ家族』(理論社、2006年)
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』(種村・矢川訳、美術出版社、1987年)
萱野茂『アイヌのイタクタクサ』(冬青社、2002年)
アメリア・アレナス『なぜ、これがアートなの』(福のり子訳、淡交社、1998年)
ゲイリー・スナイダー『野性の実践』(原・重松訳、山と渓谷社、2000年)
ジル・ドゥルーズ『記号と事件』(宮林寛訳、河出文庫、2007年)
ロバート・C・ヤング『ポストコロニアリズム』(本橋哲也、岩波書店、2005年)
塩田千春『心が形になるとき』(神戸芸術工科大学デザイン教育センター、2009年)
レスリー・M・シルコウ『儀式』(荒このみ訳、講談社文芸文庫、1998年)
ミツエ・ヤマダ『収容所ノート』(松柏社、2004年)
小田扉『団地ともお』(小学館)

志村みどりの36冊

外部ゼミ生、志村みどりさんのリストです。ハードコアな文学少女的セレクション! 「アートと女性」という主題設定に頷きました。

(1)考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1984)
ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』(高橋健二訳、新潮文庫、1971)
吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫、2002)
ジョセーフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ『神話の力』(飛田茂雄訳、早川書房、1997)
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 (日高六郎訳、東京創元社、1965)
ウンベルト マトゥラーナ , フランシスコ バレーラ 『知恵の樹』(管啓次郎訳、ちくま学芸文庫、1997)
新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書、1995)
今福龍太+沼野充義+四方田犬彦 編『愛のかたち』(岩波書店、1996)
ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』(生田耕作訳、二見書房、1994)
ガブリエル・ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』(木村榮一訳、新潮社、1996)
佐野洋子『しずこさん』(新潮社、2008)
町田康『告白』(中央公論新社、2005)

(2)専門と呼びたい分野(アートと女性)の12冊

瀬戸内晴美『かの子撩乱』(講談社文庫、2000) 
草間彌生『すみれ強迫』(作品社、1998)
ローリー・ライル『ジョージア・オキーフ』(道下匡子、PARCO出版、1984)
ベルナール・ビュフェ美術館:監修『ビュフェとアナベル』(フォイル、2007)
アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巖谷國士、岩波文庫、2003)
ホイットニー・チャドウィック『シュルセクシュアリティ』(伊藤俊治訳、 長谷川祐子訳、 PARCO出版、1989)
レオノーラ・キャリントン『耳ラッパ』 (野中雅代訳、工作舎、2003)
アニエス・ヴァルダ『歌う女歌わない女』(山崎剛太郎訳、KKベストセラーズ、1978)
バルガス・リョサ『楽園への道』(田村さと子訳、河出書房新社、2008)
リチャード・ウィッツ『NICO』(浅尾敦則訳、河出書房新社、1997)
中島美代子『らも』(集英社、2007)
島尾敏雄『死の棘』(新潮文庫、1981)


(3)「現代性」を主題とする12冊

レベッカ・ブラウン『体の贈り物』(柴田元幸訳、新潮文庫、2001)
多和田葉子『海に落とした名前』(新潮社、2006)
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房、2006) 
アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵里訳、白水社、2006)
イーユン・リー『千年の祈り』 (篠森ゆりこ訳、新潮社、2007)
ジョウ・シュン+フランチェスカ・タロッコ『カラオケ化する世界』(松田和也訳、青土社、2008)
大竹昭子『カラオケ、海を渡る』(筑摩書房、1997)
高木 徹『戦争広告代理店』(講談社、2005)
ヒュー・マイルズ『アルジャジーラ』(河野純治訳、光文社、2005)
村上春樹『アンダー・グラウンド』(講談社文庫、1999)
森達也『死刑』(朝日出版社、2008)
立川談春『赤めだか』(扶桑社、2008)

Monday 29 June 2009

真夏のおおみそか

いよいよ今年も前半終了間際。大きな仕事がぜんぜん進んでいないので、じりじりと焦り。だが焦りとは、時間との最悪の関係だ。とにかく少しずつ進めていこう。

土曜日(27日)の夕刊に掲載されていた、若田光一さん撮影の上空337キロからの千島列島の火山爆発の写真は、ほんとにすごい。どんな写真家だって撮れない、究極の1枚。こうした科学写真の研究をするヤツ、誰かいないかな。航空写真の歴史だけだって、相当におもしろいはず。

ついで日曜日、軽井沢へ。初めての軽井沢は、御代田のメルシャン美術館。このあたりに武満徹が住んで作曲をしていたんだと聞き、へえっと思う。浅間山が見えて、いいところだ。

展覧会は「もうひとつの森へ」。すばらしかった。彫刻の三沢さん、写真の津田さん、ビデオ・アニメーションのマイさん、みんなすごくいいし、会場設営の豊嶋さんのセンスにもひたすら感心。そして今回のお目当ての、佐々木愛さんのインスタレーション=壁画。

強烈だった! 大きな壁面いちめんに、白一色のメレンゲの森が描かれている。森は倒立している。まるで夕日のような、斜めからの光を浴びる森の前を左右に行ったり来たりすると、陰がどんどん変わる。同時に、メレンゲのエッジが銀色に輝き、茫然とする美しさ。倒立しているということは、この壁は、いわば水面。するとわれわれの頭上に、反映以前の実在の森がひろがっているわけか。建物にはそれはない、建物の外にも。だがこの区域の全体が、じつはまるごと森に属しているのか。

4人のアーティストのバランスが見事。キュレーションのよさを感じた。ユーモアあり、遊びあり、そしてめざしているものの凝縮度が、きわめて高い。展示期間が終わると、愛さんのこの絵は壊されてしまう。惜しいなあ。惜しいけど、それを含めての制作なんだろうか。

その日曜の夜、自宅のそばでひさびさにハクビシンに遭遇。深夜の道路をわたって、金網のフェンスを苦もなく上り、下りて、近所のマンションの庭に消えていった。尾の長さが見事。がんばって繁殖してほしい。

おなじく日曜日で、日本経済新聞の月間連載「半歩遅れの読書術」終了。はじめはまるでちがう主題で準備していたのだが、現在品切れの本を取り上げるのは避けたいとのことで、急遽、高校時代の読書の思い出話にした。西脇順三郎、林達夫、吉田健一、植草甚一という、ぼくが強い影響を受けたジーサン4人について、順次(かれらの生年は順に1894、1896、1911、1908。ぼくの祖父たちも、いずれも19世紀人)。いい機会だった。長いあいだ忘れていたことを、いろいろ思い出した。

読書はけっして本の内容だけの問題じゃないなと改めて思う。読書の時空の周辺にあった記憶が、どうやら本の思い出に重ねられるかたちで組織されているらしい。要は、そのときどきに、自分が周囲の世界をどう把握し構築していたかということ、そのまるごとの問題なんだろう。

本はいい、ハクビシンはいい、森はいい、噴火はいい、宇宙もいい。そして佐々木愛の絵と心意気は、とてもいい。

なお、メルシャン美術館そばの浅間縄文ミュージアムも、非常に興味深かった。軽井沢に行ったら、みんな、ぜひ寄りましょう。結局、われわれは縄文をレファレンスとして現代生活を考え直すのがいちばんいいと思う。2000年前、列島の人口が推定59万人(たしか展示にそうあった)だったころを思い出しながら。

Friday 26 June 2009

さようならマイクル

おととい見たばかりの『ミスター・ロンリー』の主人公がマイクル・ジャクソンのそっくりさん(あまり似てない)だったので、彼のことを考えていた。すると今日、マイクルの逝去。先週は英語の授業でキース・ヘリングの話をし、ぼくの「1958年生まれのともだち」(といってもただ歳が一緒なだけ)としてキースとマイクルをあげたばかりだった。みんなが笑った。すると今日。

ぼくは彼のファンだったことはないけれど、思えばいつも、彼はそこにいた。ジャクソン・ファイヴのころからはじまって(何年前?)。同い年の、最初のメディア・スターだった。

さようならマイクル! スーパースターダムからの転落をもう見なくてすむことになったファンたちの妙に陽気なお祭り騒ぎが、さびしい、悲しい。不滅は完成された。ぼくはそんな風には祝わない、祈らない。でもきみのCDをひっぱりだして、ひさしぶりに今夜は聴いてみよう。

Wednesday 24 June 2009

ハーモニー・コリンのすばらしさ

映画との関係が断続的なので、ときにはある作品の存在に気づかないまま、何年も過ぎてしまうことがある。ときには名前を知っても、ただそれだけで何年も経ってしまうことがある。それでハーモニー・コリンの作品を見たことがなかった自分が、とても信じられない。許しがたい愚行。

この3日、『ガンモ』(1997年)、『ロバ少年ジュリアン』(1999年)、『ミスター・ロンリー』(2007年)を続けて見て、あまりの驚きに茫然としている。信じがたい想像力、身震いするほどの感覚。3本の中では『ジュリアン』が永遠の傑作。『ミスター・ロンリー』もすごくおもしろいが、妙に大人の作品になってしまっている。

そして『ガンモ』の「アメリカ」は、ぼくがすれちがってきたアメリカ。貧しく、狂気が平等に分ちもたれた、田舎の白人たちのアメリカ。

すごい監督だが、多くが作れる人ではなさそう。『ジュリアン』と『ミスター・ロンリー』では、俳優としてのヴェルナー・ヘルツォークの怪演が光る。

Monday 22 June 2009

木曜英語の課題曲(2)

今週から、新しい歌です。

http://www.youtube.com/watch?v=3t4g_1VoGw4&feature=related

いわずと知れた、ボブ・ディラン初期の代表作。このなんともいえない暗さのあるPPMのヴァージョンで覚えてきてください。

Sunday 21 June 2009

おめでとう、夏至

今年も、はや夏至。ミッドサマー。信じられないけど、次は冬至まで、しっかりやろう。

さて。夏至を祝うため、数人で集まって勝手にドキュメンタリー映画祭を開催。見たのは、「食」をめぐる以下の3本。

フーベルト・ザウパー『ダーウィンの悪夢』(2004年)
ニコラウス・ゲイハルター『いのちの食べ方』(2008年)
マーク&ニック・フランシス『おいしいコーヒーの真実』(2006年)

見ると、いずれも、さすがにしゅんとする。なんともいえない後味。苦い、苦い。自分たちが住んでいる世界とか狂気に近い消費の体制とかいわゆる「先進国」が世界の他の地域に強いるむちゃくちゃな負荷を思い知らされて。

3本とも、基本的なドキュメンタリー作品として、日本中の高校生たちの必見リストに加えていい。

これから「これは見るべきだ!」というドキュメンタリーのリストを作成していこうと思う。これに付け加えるとしたら、ステファニー・ブラックの『ジャマイカ、楽園の真実』か。「必見のドキュメンタリー101」、まずはこれで4本。

Wednesday 17 June 2009

きみは人を食うのか?

ぼくが小学校の6年生だった1970年(大阪万博の年)、世界の人口は37億くらいだった。それが現在、68億とか。そして2050年には95億を超えると予測されている。

当然、食料不足が懸念される。それできょうも総合文化ゼミの時間に、みんなの意見を聞いてみた。

「食料不足になると、いちばん有効な解決法はヒトがヒトを食うことだろうね。2050年、きみたちが60歳をちょっと越えたころそんな事態になったら、どうする? 人間を食えるか?」

驚いたことに、何人かはためらいなく「食える」に手をあげる。別にかれらを責めるつもりはない(実際に食わないかぎりは)が、これほどヒトの道徳観は歯止め無く変わりうるのかと思うと、愕然とする。

その一方で、「ヒトを食うくらいなら自分は生きていたくない」という人が、「食える」よりもちょっと多いくらいの割合でいる。ぼくはそれにほっとするが、現在のかれらが下す判断と、いざそんな事態になったときに下す判断は、おなじではないと考えるほうが自然だろう。

ようやく20世紀をかけて多くの地域でカニバリズムの地獄に別れを告げたのもつかのま、ヒトの本質に根ざす行動を、そう簡単に根絶やしにすることはできなさそうだ。

なんという動物であることかわれわれは。何も学ばず、ただ、太陽の膨張により地球が併呑されるのを、ヒトを食いつつ待つというのか。悲しいことだ。せめて人食いはやめよう。やめましょう。ヒトを食わずとも生きていけるレベルの人口に、低位安定することをめざそう。

Sunday 14 June 2009

マオリ講座、終了

土曜日、明治大学リバティアカデミー「世界文化の旅・先住民編」で「マオリ」についての話をする。

いわずとしれた、アオテアロア=ニュージーランドの先住民。そして同時に、太平洋に広大な三角形を描き出すポリネシア言語文化圏の、要ともなる人々だ。

映画とは本当に強力な表現手段なので、マオリについて知りたいという人にはいつも勧めてきた2本の映画を、またこんども勧めた。Once Were WarriorsとWhale Rider。もっとも前者は、あまりの強烈な暴力描写に教室で見るのもはばかられたため、後者の、北島東海岸ギズボーン周辺の美しさがわかる場面をちょっとだけ。何度見てもジンとくる、信じがたい美しさ。

前にもいったけど、「アフリカ編」「島めぐり編」「先住民編」と3年かけて続いてきたこの講座も、今年かぎりでおしまいだ。コーディネーターの中村和恵さんが来年度は在外研究に出るためだが、本当に学ぶことの多いシリーズだった。講師の側が他の講師の話をぜんぶ聞くというかたちは、なかなかできない。その成果の一端を、岩波の新刊『世界中のアフリカへ行こう』でごらんあれ。

またいつか、さらに新たな課題を見出して、別の主題で続行したいもの。

終わって、今日は大阪。着いてみると、まるで中国のような熱気。ふらふら歩いているうちに、偶然、天満に出た。天満? 松本健二さんの本拠地か、ここが! ラテンアメリカ文学者(詩人セサル・バジェホの研究者)の松本さんは、まちがいなく、スペイン語の短編小説を誰よりもたくさん読んでいる人(何があっても1日1編を自分にノルマとして課しているのだ)。そうか、ここが天満か。こんなことなら、あらかじめ松本さんに連絡しておけばよかった。

http://bar-trilce.no-blog.jp/

ところで日本経済新聞・日曜日の「半歩遅れの読書術」は、先週の西脇順三郎に続いて今日は林達夫。残る2回も、どうぞお楽しみに。

Monday 8 June 2009

写真日和

曇っていて、だからというわけでもないが、新宿で写真展をいくつか。

東京写真月間の関連企画。まずコニカミノルタプラザで「風の旅人」写真展。対面する壁面にかけられた、二頭の牛に胸を打たれる。

写真がそこに映っているものの興味にしたがって見られるのは仕方のないことで、人間のあふれる新宿では、牛に興味が集中しても許してください。いい牛だった。とてもかわいい、立派だ。ヒトを寄せ付けない(一頭は人を舐めているけれど)。

それから西口に出てペンタックスフォーラムでの片岡義男さん「撮る人の東京」。小説家のスケッチ帖みたいな写真展で、近い過去にどんどん失われて来た東京の風物・景色が並ぶ。

ぼくにはまったくノスタルジアがもてない世界だが、錆びたり、どことなくみすぼらしかったりする街の風景には、これでじゅうぶんだったのに、という気にさせられる。

小説家の写真展といえば、堀江敏幸さんの写真展が来月から日本橋の森岡書店ではじまる。これは楽しみ。ディテールに強い堀江さんならではの、奇妙な味のあるオブジェの写真が、たくさん見られるにちがいない。

倉石さん企画の箱山直子写真展「New Gardens」は先週土曜日まで、見逃してしまい残念。もう少し、自由に動ける時間を作りたい。

Sunday 7 June 2009

たぶん100マイルごとに

500 Milesの歌詞で、わかりにくいかなと思える点をふたつ。

You can hear the whistle blow a hundred miles.

これはね、「100マイルむこうから汽笛が聞こえてくる」という意味じゃないよ。確認できずにいるんだけど、おそらく鉄道が起点(たとえばシアトル)から100マイル、200マイルといった節目ごとに、汽笛を鳴らして通過を知らせていた、ということだと思う。それで「ほら、100マイルが鳴った、ああ、こんなに遠くに来ちゃったんだなあ」と思いにふけるわけ。

Lord, I can't go a-home this a-way.

これはいずれもa-が「その状態にある」ということを表している。現在の文章語ではあまり使わないけれど、たとえば形容詞のadriftとかalightなんかに残っているa-とおなじこと。だから「こんな状態では家に帰れない」、つまりI can't go home this wayとまったくおなじで、this a-wayといっても「こんなに遠くからでは」とはちがいます。

以上、補足として。

Friday 5 June 2009

半歩遅れの読書術(日本経済新聞)

日本経済新聞の日曜・読書欄に掲載されるエッセー「半歩遅れの読書術」。5月の松浦寿輝さんに続いて、6月はぼくが担当します。7日から4回連続。

本の世界はあまりに広大なので、どんな入口から入るのも、どう進むのも自由。いくつかのやり方を考えていたのですが、結局、気まぐれで、30年以上前の高校生のころの読書をふりかえりつつ書いてみることにしました。

未成年のぼくが大きな影響をうけた4人の著作家をひとりずつとりあげます。第1回は西脇順三郎。第2回は? これから書きます。いずれにせよぼくは、いつになってもかれらの拙劣な模倣者にすぎない、かも。

この小連載では以前に保坂和志さんがミシェル・レリスの日記について書いていたのが強烈でした。そうか、たとえばレリス、バタイユ、カイヨワ、ブルトンだってよかったわけだ。でも今回は日本語の詩人・作家ばかりです。

500マイル

木曜英語の課題曲の訳詩。対応がわかるように、直訳にしています。

「500マイル」

ぼくが乗っている列車をきみが逃したなら、ぼくが行ってしまったのだときみにはわかるだろう、
100マイルを汽笛が告げるのが、きみには聞こえる。
100マイル、100マイル、100マイル、100マイル、
100マイルを汽笛が告げるのが、きみには聞こえる。

神さま、ぼくは1、ぼくは2、ぼくは3、ぼくは4、
神さま、ぼくは500マイル、家から離れています。
500マイル、500マイル、500マイル、500マイル、
神さま、ぼくは500マイル、家から離れています。

着替えを背負っているわけではなく、自分のものといえるお金は1ペニーもない。
神さま、こんな風では家に帰れません。
こんな風では、こんな風では、こんな風では、こんな風では、
神さま、こんな風では家に帰れません。

ぼくが乗っている列車をきみが逃したなら、ぼくが行ってしまったのだときみにはわかるだろう、
100マイルを汽笛が告げるのが、きみには聞こえる。

ゲストたち

アキバの木曜日、ときどき外部からのゲストのみなさんが訪ねてきてくれて、ほんとにうれしい。学生のみんなにも、つねに刺激になる。

きょうも大洞くん(2回め)に加えて、安西洋之さんが参加してくれた。

『ヨーロッパの目 日本の目』(日本評論社)の著者。ミラノ在住のビジネスプランナーだが、17年間のイタリア経験に基づき、いかにも自前で考えてきたという感じが、迫力を生んでいる。

文化とは大きく茫洋として、考えれば考えるほどその実態が曖昧になってゆくもの。それを相手取るには、いちばん役立つのはいろいろな専門家たちのコトバの寄せ集めよりも、むしろ「Aさんのイタリア」「Bさんのスウェーデン」といった、等身大の、「擬人化されている」といってもいい有機的な知識だ。

安西さんのお話は、たとえばうちの大学院の安全学系の学生・教員にも、示唆するところが大きいだろう。いつか、本格的なセミナーをお願いしたいもの。

安西さん、ありがとうございました! 

Wednesday 3 June 2009

そろそろ大学院入試

ディジタルコンテンツ系の入試、募集要項の頒布が6月1日からはじまっています。

一般入試の試験日は8月1日。出願期間は7月2日から8日まで。出願の前に、予定する指導教員(倉石さんか、宮下さんか、ぼく)に一度相談に来てください。研究室の取り組みの内容を説明します。連絡は明治大学理工学部事務室大学院係まで。

3年目の顔ぶれで、いよいよ方向性が決定するのも確実。五感の体験をめぐる読み書きの冒険に、真剣にとりくむ仲間を求めたいと思います。

最近、いちばんかわいいと思うのはツバメ。駅のそばの軒先に巣があり、子ツバメが並んでいるのがわかり、とてもかわいい。

台湾かフィリピンかオーストラリアからやってきたのか。ツバメが町中に営巣するのは、蛇やカラスといった天敵を避けるため、ヒトをガード役に利用しているのだそうだ。

路上を低く飛ぶ姿に、いいしれぬスリルを感じる。

Tuesday 2 June 2009

リボニア語最後の話者、ユルギ

「朝日新聞」の6月1日の夕刊に、「30歳、一人で伝える言語」という記事。あまりに、あまりに感動的。

ラトビアのバルト海沿岸の漁村のことば、リボニア語。フォーク歌手のユルギ・スタルテさんが、その最後のスピーカーだそうだ。リボニア語は「ウラル語族に属し、印欧語族のラトビア語とは構造は全く異なる」。

ラトビア語に包囲されながら、彼女は幼稚園にも行かず、ひたすらおじいちゃんの話を聴いて育った。いまは10歳の長男と3歳の長女に、彼女が毎日リボニア語で話しかける日々。

1から3へ。ぜひ復活をかけて、その習慣をつづけてほしい。そうすればいつかは白水社のエクスプレス・シリーズで、リボニア語入門が発売される日が来るかも。そして日本の中学校では、英語に代わってリボニア語を履修することが認められるようになるかも。

Monday 1 June 2009

篠塚起己央の36冊

現在、群衆論と群衆表現をテーマに修士論文を準備している篠塚くんの36冊です。

今年になってから「文転」しぼくの研究室所属に変わった篠塚くんですが、就職活動のかたわら、隙のない粘り強さで論文にとりくんでいます。きっといいものが書けるはず。また昨年度やっていたアニメ制作もぜひ続行して、論文と両立させてほしい。他のみんなにもいい刺激になるでしょう。



自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

1.森三樹三郎『老子・荘子』(講談社学術文庫、1994年)
2.『孫子』(金谷治訳注、岩波文庫、2000年) 
3.『十八史略』(市川任三訳注、明徳出版社、1968年)
4.『マタイによる福音書』(新約聖書翻訳委員会・佐藤研訳、「新約聖書」<1>岩波書店、1995年)
5.中村元『ブッダのことば—スッタニパータ』(岩波文庫、1958年) 
6.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(野矢茂樹訳、2003年)
7.木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫、200年) 
8.マルクス『資本論』(向坂逸郎訳、岩波文庫、1969年)
9.アポロドーロス『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波文庫、1953年)
10.トマス・ブルフィンチ『新訳アーサー王物語』(大久保博訳、岩波文庫、1993年)
11.『Nam—狂気の戦争の真実』(同朋舎出版、1990年)
12.佐藤卓己『現代メディア史』( 岩波書店、1998年)


自分が専門と呼びたい分野の12冊(群衆について)

1.港千尋『群衆論—20世紀ピクチャー・セオリー』(リブロポート、1991年)
2.エドガー・アラン・ポー「群集の人」(巽孝之訳、『ポー短編集』(2)、新潮文庫、2009年) 
3.ヘルマン・ブロッホ『群衆の心理—その根源と新しい民主主義創出への模索』 
4.オルテガ『大衆の反逆』(神吉敬三訳、ちくま学芸文庫、1995年) 
5.ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』(桜井成夫訳、講談社、1993年) 
6.デイヴィット・リースマン『孤独な群衆』(加藤秀俊訳、みすず書房、1964年) 
7.ヴォルター・ベンヤミン『ボードレール』(野村修訳、岩波文庫、1994年)
8.阿部良雄『群衆の中の芸術家—ボードレールと十九世紀フランス絵画』(中公文庫、1991年) 
9.セルジュ・モスコヴィッチ『群衆の時代—大衆心理学の史的考察』(古田幸男訳、法政大学出版社、1984年)
10.ジョルジュ・ルフェーブル『革命的群衆』(二宮宏之訳、岩波文庫、2007年)
11.今村仁司『群衆—モンスターの誕生』(筑摩書房、1996年) 
12.エリアス・カネッティ『群衆と権力』(岩田行一訳、法政大学出版局、1971年)


<現代性>を主題とする12冊

1.ジョン・J フルーイン『歩行者の空間—理論とデザイン』(長島正充訳、鹿島出版会、1974年)
2.ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(橋本一径訳、平凡社、2006年) 
3.小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫、1953年) 
4.ナタリー・ゼーモン デーヴィス『歴史叙述としての映画—描かれた奴隷たち』(中條献訳、岩波書店、2007年)
5.グレゴリー・ベイトソン『大衆プロパガンダ映画の誕生—ドイツ映画『ヒトラー青年クヴェックス』の分析』(宇波彰・平井正訳、お茶の水書房、1986年)
6.アンソニー・プラトカニス エリオット・アロンソン『プロパガンダ—広告・政治宣伝のからくりを見抜く』(社会行動研究会訳、誠信書房、1998年)
7.山田奨治『文化としてのテレビコマーシャル』(世界思想社、2007年)
8.ハワード・ラインゴールド『スマートモブズ—“群がる”モバイル族の挑戦』(NTT出版、2003年)
9.荻上チキ『ウェブ炎上——ネット群集の暴走と可能性』(ちくま新書、2007年) 
10.遠藤薫『インターネットと〈世論〉形成』(東京電機大学出版局、2004年)
11.スコット・マクラウド『マンガ学—マンガによるマンガのためのマンガ理論』(岡田斗司夫訳、美術出版社、1998年)
12.馬場保仁、山本貴光『ゲームの教科書』(ちくまプリマー新書、2008年)

星埜恵の36冊

外部ゼミ生・星埜さんの36冊です。黒人音楽が大好きな彼女、最近は沖縄に通っているとか。今後どんな活動をくりひろげることか。つねに地球大の視野でがんばってほしいと思ってます。

そうか、『マルコムX自伝』はアップリンクが出してたのか。おまけにうちのセンパイ教員だった浜本先生の訳だったのか。ぜんぜん知らなかった!


1.自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

吉田ルイ子『ハーレムの熱い日々』(講談社、1979年)
大槻ケンヂ『リンダリンダラバーソウル』(メディアファクトリーダヴィンチ編集部、2002年)
森達也著 デーブ・スペクター監修『放送禁止歌』(解放出版社、2000年)
淀川長治『私のチャップリン』(PHP研究所、1977年)
白石嘉治/大野英士『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論、2005年)
マルコムX、アレックス・ヘイリー『マルコムX自伝』(浜本武雄訳、アップリンク、1993年)
ミリアム・マケバ『わたしは歌う』(さくまゆみこ訳、福音館書店、1994年)
ドクター・ジョン/ジャック・レメル共著『フードゥー・ムーンの下で』(森田義信訳、ブルース・インターアクションズ、1994年)
チェ・ゲバラ『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行記』(棚橋加奈江訳、現代企画室、1997年)
ヌーラ・オコナー『アイリッシュソウルを求めて』(茂木健・大島豊訳、大栄出版、1993年)
デカルト『方法叙説』(落合太郎訳、岩波書店、1967年)
ピーター・バラカン『魂のゆくえ』(アルテスパブリッシング、2008年)


2.自分が専門と呼びたい分野の12冊(音楽−言葉−ディアスポラ)

野田努『ブラック・マシン・ミュージック―ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』(河出書房新社、2001年)
『アジア・アフリカ詩集』(高良留美子訳、土曜美術社、1982年)
山之口獏『山之口獏詩文集』(講談社、1999年)
平井玄『暴力と音-その政治的思考へ』(人文書院、2001年)
東琢磨『全-世界音楽論』(青土社、1993年)
鈴木慎一郎『レゲエ・トレイン ディアスポラの響き』(青土社、2000年)
目取真俊『魂込め』(朝日新聞社、1999年)
栩木伸明『アイルランド現代詩は語る-オルタナティブとしての声』(思潮社、2001年)
コーネル・ウエスト『人種の問題-アメリカ民主主義の危機と再生』(山下慶親訳、新教出版社、2008年)
ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』(上野俊也ほか訳、月曜社、2006年)
ネルソン・ジョージ『リズム&ブルースの死』(林田ひめじ訳、早川書房、1990年)
シドニー・W・ミンツ『アフリカン・アメリカン文化の誕生』(藤本和子訳、岩波書店、2000年)


3.「現代性」を主題とする12冊

高祖岩三郎『新しいアナキズムの系譜学』(河出書房新社、2009年)
石牟礼道子『苦海浄土』(講談社、1972年)
辺見庸『愛と痛み 死刑をめぐって』(毎日新聞社、2008年)
矢部史郎/山の手緑『愛と暴力の現代思想』(青土社、2008年)
酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社、2004年)
岡真理『アラブ 祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)
本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)
渋谷望『魂の労働』(青土社、2003年)
デヴィット・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』(高祖岩三郎訳、以文社、2006年)
アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『帝国』(水嶋一憲ほか訳、以文社、2003年)
ジャック・デリダ『条件なき大学』(西山雄二訳、月曜社、2008年)
ジョージ・オーウェル『1984年』(新庄哲夫訳、早川書房、1972年)

木曜英語の課題曲(1)

すでに2回を数えたDC系木曜英語。最初の課題曲を、いろいろ迷った末、こう決めました。

http://www.youtube.com/watch?v=GXOmSlcG3I0

ゆっくりで歌いやすく歌詞も簡単でしかも情感にあふれて。これ以上にふさわしい歌があるとも思えないので!

早速、今週から合唱します。歌は月替わりで考えようか。まずは60年代フォークの世界に、まっしぐら。

Sunday 31 May 2009

Needle in the Hay

メリッサを聴いたことがない人に、まず手頃なお勧めはYouTubeで見られる/聴ける、以下の曲。

http://www.youtube.com/watch?v=-bgtlP_16b0

エリオット・スミスのカヴァーですが、はっきり、オリジナルを超えてると思います。(スミス自身のもYouTubeで見られます。)

相棒のベーシストがなぜか写真家のトヨダヒトシくんに似ているのもおもしろい。

敷田奈々江の36冊

外部ゼミ生・敷田さんからのリストです。彼女は外部ゼミ生の中では、星埜さんと並んで最年少、20歳。落ち着いた読書家で、今後の展開がとても楽しみです。内部ゼミ生のみんなも、そろそろまとめを視野に入れて作業を進めてください。

いよいよ5月も終わりですね。みんな、のんびりがんばりましょう!


1.自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(安藤哲行訳、国書刊行会、1997)
ジョージ・マクドナルド『金の鍵』(脇明子訳、岩波書店、1996)
イタロ・カルヴィーノ『むずかしい愛』(和田忠彦訳、岩波書店、1995)
管啓次郎『コロンブスの犬』(弘文堂、1989)
中村うさぎ『私という病』(新潮社、2008)
田房永子『むだにびっくり』(自主製本、2008)
チャールズ・ブコウスキー『ブコウスキーの酔いどれ紀行』(中川五郎訳、河出書房新社、2003)
遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房、2000)
なだいなだ『TN君の伝記』(福音館書店、1976)
クリストファー・ライス『ぼくたちの終わらない夏』(鈴木玲子訳、角川書店、2001)
エイダン・チェンバーズ『おれの墓で踊れ』(浅羽蓉子訳、徳間書店、1997)
Philip B. Kunhardt Jr, The Joy of LIFE, The Time inc. Magazine Company, 1989


2.自分が専門とよびたい分野の12冊(物語と、物語るということ)

レオポルド・ショヴォー『年をとったワニの話』(出口裕弘訳、福音館書店、1986)
W.B.イエイツ『ケルトの薄明』(井村君江訳、筑摩書房、1993)
ジョージ・マクドナルド『ファンタステス』(蜂谷昭雄訳、筑摩書房、1999)
中勘助『銀の匙』(岩波書店、1935)
スタッズ・ターケル『死について!』(金原瑞人・野沢佳織・築地誠子訳、原書房、2003
柳田国男『遠野物語』角川学芸出版、1955)
ロード・ダンセイニ『世界の涯の物語』(中野善夫・中村融・安野玲・吉村満美子訳、河出書房新社、2004)
ローラ・インガルス・ワイルダー『大きな森の小さな家』(渡辺南都子、講談社、1982)
デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(金子宣子訳、新潮社、2002)
A.レノーシス『マヤ神話 ポポル・ヴフ』(林家永吉訳、中央公論社、2001)
ボウマン、ビアンコ『かぎのない箱』(瀬田貞二訳、岩波書店、1963)
ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』(窪田富男訳、筑摩書房、1990)


3.現代性を主題とする12冊

イアン・コンドリー『日本のヒップ・ホップ』(上野俊哉監修、田中東子・山本敦久訳、NTT出版、2009)
松井昭彦『市場の中の女の子』(PHP研究所、2004)
近田春夫『考えるヒット(5)大きくふたつに分けるとすれば』(文藝春秋社、2002)
坂口尚『version』(講談社、2001)
本橋信宏『依存したがる人々』(筑摩書房、2001)
鷲田清一『てつがくを着て、まちを歩こう』(筑摩書房、2006)
金原ひとみ『AMEBIC』(集英社、2005)
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008)
オルテガ『大衆の反逆』(桑名一博訳、白水社、2009)
アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『マルチチュード』(幾島幸子訳、NHK出版、2005)
廣瀬純『闘争のアサンブレア』(月曜社、2009)
30 Years in pictures 1960-1990, The Time Inc. Magazine Company, 1990