Saturday, 11 July 2009

隠れる必要がなくなっても隠れていることについて

ロジェさんの隠れキリシタン講義。10年前、日本に来たころはぜんぜん日本語を知らなかった彼が、すでに日本語で論文を執筆し博士号を取得し、日本語で調査しこうして講義するのだから、多言語空間をあたりまえのものとして生きているアフリカ人の、言語能力の高さを痛感。そして五島列島の隠れキリシタンに彼が寄せる情熱にも、感動的なものがある。

現在、3、400家族のおよそ1500人が、かれらの信仰を維持している。「オラシオ」を守り、「バスチャン暦」にしたがって年間行事を組織する。五島には行ったことがあるが、あのしずかな海のしずかな山々に、どんな記憶が蓄えられてきたことか。

でうすぱあてろ(deus padre)、ひーりょー(filho)、すべりとさんた(espirito santo)のみちのぺれす(persona)の、ひとつのすすたんしょう(substantia)のおんちから、ごきどくをもって始め奉る。

三位一体の力か。この朗唱をその場で聞いたら、異教徒のぼくも、陶然とするにちがいない。

帰り道、ブックカフェ「槐多」(そう、村山槐多)で、友人であり外部ゼミ生の工藤さん、佐々木さんと宗教談義。ちょっとだけ、しんみり。たったひとりの信仰を(対象がどんなカミであれ)もち、それについて沈黙を守れば、それは誰も知らないままの「隠れ」でありそんな「隠れ」の誰かが電車ですぐかたわらにいても誰も気づかない。

でうさまあてら(deusa madre)、ひーりゃー(filha)、すべりとさんた...

いずれは東北の「隠れ」の伝統も、訪ねてみたい。