Saturday 25 August 2007

小笠原だより

ボニン・アイランズとアメリカから呼ばれた小笠原諸島。ボニンとは「無人」(ぶにん)に由来し、もとは捕鯨基地、アメリカの捕鯨船の乗組員たちが住み着いた島々だ。それと、日本列島からの入植者。いずれにせよ人間の居住の歴史は古くない。

むかしから興味があり行ってみたいと思いつつ、なかなか果たせない。そこに小林ユーキが行ってきた。小林は21世紀最初の明治の学生のひとり。2001年に1年生、そのまま2、3、4年と進み、おととしの春に卒業して、神奈川県の中学校の先生になった。格闘技(実戦)を趣味とする、あぶないやつだが、地球のあちこち元気に旅している。2003年にはユーキたちのグループ4名と、西表島に行った。翌年には、やつらはアラスカにオーロラを見に行き、感動の涙を凍らせて帰ってきた。

その彼から、この夏の小笠原への旅の報告が来た。了解を得て、ここに転載。いつかは行きたい、その島々!

「生還しました、小笠原から!
いや〜、マジ最高でしたよ。ホントわけわからん島々でした。
ざっと書くと…
父島:
・父島へ向かう小笠原丸は片道25時間半。しかも2等船室は難民船状態。オヤジが夜な夜なゲロを吐きまくる
・瀬堀さん(ナサニエル・セーボレーっておっさんの末裔)なる外人顔のおっさん多数
・イルカと一緒にスイミング
・ウミガメを食す
・ぼったくる気満々の宿のオヤジ
・太平洋戦争での沈船にスノーケリングついでに乗船

母島:
・島に信号がない
・テレビ(民放)は1996年に放送開始
・光るキノコ発見
・針にえさをつけて投げたら、10秒で一匹魚が釣れた
・流星群を母島で観測。信じられないほど綺麗な夜空
・島の盆踊りに参加。南洋踊りなる謎な踊りを堪能。英語?日本語?その他?よくわからん呪文のような歌を歌いながら踊る。
・ウミガメ上陸を目撃(半端無くでかい!!!)

などなど、すんげ〜ところでしたよ。
写真できるのが楽しみっす。」

Friday 24 August 2007

金沢で

ASLEという組織がある。文学・環境学会。アメリカにはじまり、世界各地にある。われわれが生きる環境をめぐる認識と、その言語表現の全体を相手にする、きわめて重要な視点でむすばれた学会だ。

この10年ほど、「文学の目的は?」という質問をうけるたびに、「生物多様性の維持に奉仕することです」と答えてきた。冗談でいっているのではない。生物の多様性の維持、それは地球環境の元来の多様性を少しでもよく守ることに立ってはじめて可能になることであり、そこでは現在のわれわれの社会、経済、生き方、集合的意志決定(政治)のすべてが問いなおされることになる。

実際、どんな分野でも、すべての生物種の生存とその条件を視野に入れない思考は、まるで無意味だと断言していい時期にきてしまったと思う。それくらい、「生命」は、この惑星で、追いつめられている。

さて、その文学・環境学会の、日韓合同大会が金沢で開かれた。韓国から20名近い参加者を得て、大変に充実した大会となった。ぼくは「ゲイリー・スナイダーとアジア」と題したパネルにディスカッサントとして参加。ぼくの生涯のヒーローともいうべき、この20世紀後半のアメリカの最大の詩人、エコソフィア(生態学的な知恵)を代表する野生の思想家と並んでパネルの席についただけで、ぼくにとってはあまりにも大きな経験だった!

スナイダー(1930年生まれ)は1950年代に日本に来て約10年をすごし、仏教や修験道の修行をつづけた。その経験にはじまる大乗仏教思想と生態学や人類学の知識を統合し、それを背景に活動し、書く。「ふたたび土地に住みこむこと」(リインハビテーション)を中心にすえたその生き方は、強烈で、示唆にとむ。彼のエッセー集『野生の実践』は、ぼくの人生にとってもっとも大きな意味をもつ本のひとつだ。そこには、共有されるべき何かが、はっきり語られている。

そして高銀(こ・うん)さんとの思いがけない出会いがあった。韓国でもっとも尊敬されている大詩人。つい先日、日本語訳詩集が出版されたばかりで興味を抱いていたものの、それはまだ本当の興味ではなかった。ところがご本人にいきなり出会って、その強烈さに圧倒された! 緩急自在、飄々として、突如、深淵がのぞく。軽み、明るさ、ユーモア、絶望、わだかまり、勇気。すべてが渾然一体となった、おそるべき巨大な精神、不屈の魂。そしてその温かみはかぎりなく、まわりのみんなを笑わせ、風のように去る。こんな人はいない。

22日夕方、曹洞宗の名刹・大乗寺で、お二人のポエトリー・リーディングがあった。すばらしいお寺で、最高のセッティングの中、ゲイリーの朗々としたゆたかで深い声と、高先生の飛ぶ鳥のさえずりのような声が、杉木立に響く。

なんという経験。これがまちがいなく今年のピーク。さあ、夏の残りをたまった仕事のために、もっぱら机の前ですごさなくてはならない。

Friday 10 August 2007

ブレーズ・サンドラールのために

きょう恵比寿の日仏文化会館に行って、秋のブレーズ・サンドラール生誕120周年記念イベントの打ち合わせをしてきた。サンドラールはスイス出身の片腕の世界放浪者、詩人、小説家、このうえない友人。その彼の1924年のブラジル滞在を中心として、モダニストの感受性がどんな風に北と南をむすびつけたかを探ろうとするもの。

いま決まっているかぎりの詳細は以下のとおり(作曲家・ピアニスト、高橋悠治さんのサイトを参照http://www.suigyu.com/yuji/ja-concert.html)。みんなぜひ10月27日はカレンダーにマルをつけておいてほしい。歴史的な夕方を約束する!



ブレーズ・サンドラール生誕120周年記念シンポジウム
スイス=ブラジル 1924 ブレーズ・サンドラール、詩と友情
10月27日(土)16.00ー18.00 恵比寿日仏会館ホール 無料

サンドラールの生涯 正田靖子(フランス語系スイス文学)
世界の創造者サンドラール 山口昌男(文化人類学)
サンドラールの詩(フランス語および日本語訳)朗読 管啓次郎(比較詩学)
サンドラールのブラジル(映像構成) 今福龍太(文化人類学)
ミヨー、サティー、ヴィラ=ロボスのピアノ曲演奏 高橋悠治

連絡先:駐日スイス大使館 03-5449-8400

Tuesday 7 August 2007

熊野大学

8月4日、和歌山県新宮市での熊野大学のシンポジウム「20世紀の芸術と文学」に参加。名古屋から「南紀1号」に乗り、三重県を延々と走るとこの県が南北にすごく長いのがわかる。南端近くの尾鷲までくると山が海に迫り荒々しい。そこからすごい水量の美しい熊野川をわたれば新宮。20世紀後半の日本のもっとも偉大な小説家・中上健次のふるさとだ。

中上さんがはじめた熊野大学は、92年に彼が46歳で亡くなってからも、友人たち、彼を慕う若者たちによりずっと続いている。希有のことだが、それだけ中上さんが与えたものの比類ない大きさが偲ばれる。スピーカーとして招いていただいたのは、本当に感謝の言葉も見つからないほどの幸運だった。

まず中上さんのお墓参りに連れていってもらい、それからただちに会場へ。パネルは非常に大きなテーマだったので、話は拡散し延々と続くことになった。一応ぼく、岡崎乾二郎さん、柄谷行人さんの順に話し、司会・進行役の高澤秀次さんが介入し整理したあとで、後半はどんどん錯綜する自然成長性の響宴。どんなテーマになろうと(ラファエル前派だろうがヒトの進化史だろうが)適切な図像が飛び出してくる岡崎さんのマッキントッシュが、魔法の箱みたいだった。

結局、ぼくに貢献できたのはカリブ海の大作家エドゥアール・グリッサンの代表作『第4世紀』の紹介のみ。だが、ぼくの訳でグリッサンの作品を中上さんに読んでもらえなかったのは、本当に残念でならない。美術家で批評家の岡崎さんはまぎれもない天才。あんなに発想力のある人には会ったことがない。

そして、なぜかこれまで一度もお目にかかる機会のなかった柄谷さんは、ぼくらの世代の者がもっとも深く影響を受けた文芸批評家にして思想家。かつて柄谷さんと中上さんの対談『小林秀雄を超えて』が出たとき、ぼくの卒論の指導教官だった阿部良雄先生が「そう簡単に超えられるもんじゃありません」とおっしゃっていたのも、なつかしく思い出す。だが批評家はいまも誰よりも鋭く誰よりも元気で、きびしく、また心遣いにあふれた発言で、場を作ってくださった。

話はつきず、4時間半におよんだシンポジウム、2時間あまりの宴会ののちも、中上さんをめぐり世界史をめぐって延々とつづき、結局午前3時まで。すさまじく濃密な一日となった!

途中、午前1時ごろ、中上の伝記作者でもある高澤さんが、ホテルから歩いてすぐの中上の生家付近へとぼくを案内してくださった。ここが切り通し、ここが尾根。ここからここまでが作品に登場する「路地」。ここが。深夜の街灯に照らされた一角はなんということもない住宅地で、しかしここをすべての創作の源泉として、彼の偉大な作品群がつむがれたのだ。

ぼくはうなだれ、翌朝、日曜日、またひとりでこの一角を歩いてみた。8月の空。すでに暑い。

帰りの電車では岡崎さんにいただいたすばらしい作品集「ZERO THUMBNAIL」に見入り、また中上紀さんにいただいた長編小説『月花の旅人』を楽しく読みながら名古屋にむかった。

熊野の山にも海にも本当にふれることのなかった短い旅だったが、強烈だった! こんどはひとりでふらりと、この土地を訪れたい。そして紀州、ミシシッピ、マルチニック、すべての小さな土地をむすびつけることを、これからの自分の仕事の上で、中上さんとの小さな約束としてはたしたいと思う。

Monday 6 August 2007

顔ぶれ

来年春に開設されるわれわれの「ディジタルコンテンツ系」だが、8月1日に第1期の入試を行い、5名が合格した。すでに先月行われた学内推薦の3名を加えて、8名の顔ぶれが確定。次回、2月の第2期入試で、定員の15名に達することを望んでいる。

CG表現の洗練を目指す人、その背後の数学(アルゴリズム)に興味を抱く人、スポーツ・ジャーナリスト志望者、関心はそれぞれだけれど、ぜひ来春からの2年間で、飛躍的な量の知識と、発想のためのばねを身につけてほしいと思う。

二十代前半の、いちばん気力の充実した時期をささげて研究に集中するわけだ。みんなが大胆に、新しい視界を切り開くことを願ってます。

まったく新しいプログラムの創成期に立ち会うことは、それだけでものすごく刺激的なことだ。これまでかたちをなしていなかったものが、一挙に凝縮し、熱を発する。興味のある人は、ぜひ2月の第2期を受験してください。

Friday 3 August 2007

音楽と交通

たまたま手にした小さな雑誌、「ぐるり」(ビレッジプレス)。300円という値段がかわいい。その6月号に、音楽家・港大尋のインタビューが載っていて、非常におもしろかった。聞き手は田川律。

港さんは1969年生まれ。ピアニストにしてサックス、ドラムスもこなし、「ソシエテ・コントル・レタ」で活動する。このバンド名はフランス語で「国家に抗する社会」。夭折したフランスの人類学者ピエール・クラストルの著書の名前だ。

ピアノをはじめた理由がおもしろい。「僕はドラムをやっていたんだけど高校生の時にジョン・コルトレーンをものすごく好きになって、サックス吹きっていいなあと思いながらも、ドラムとサックスを足して二で割るとピアノになる、という消極的な理由からピアノに進んだんです。ピアノはメロディも出るしリズムも出るし」。

この発想が、すでに常軌を逸している。それからグレン・グールドが大好きになり、「バッハの鍵盤曲は結構隅から隅まで弾き倒した」という。

現在の彼はブラームスからレゲエ、アフリカから沖縄までこなす幅の広さをもって、小中学校や聾学校でのワークショップ、日本語による自作のボサノバなど、すさまじい着想にあふれた活動をくりひろげているようだ。たとえばブラームスについて、こんな思いがけない発言が聞ける。

「ブラームスは本当にリズム的なアイデアがすごく豊かなんですよね。なんというか、バッハもモーツァルトもベートーベンもしなかったリズム・テクスチャーというのかな」。

ここで注目したいのは、ベートーベンにしてもブラームスにしても、黒人音楽的なリズム感から影響をうけているという点。ブラームス本人がそれを意識していたかどうかはともかく「バッハは間接的には受けていると思いますよ。アフリカからスペインを経由してどんどん北上していくようなリズム感の流れってあるんですよね。バッハのピアノ曲にはものすごくアフリカのパーカッション的なリズムの曲がありますからね」。

そしてもうひとつ、鍵盤楽器の特殊性について。沖縄の伝統音楽の拍節感が「譜面にならない」ことに関して、彼はこういう。「ピアノというのはある意味で本当に重力の楽器なので」「ピアノ音楽というものは解決を求めるもの、不安定なものがあって安定にむかうもの」だそうだ。ところが沖縄では「全然重力の捉え方や感じ方が違うので、だからピアノと決定的に相容れない」。

キリスト教ではなくイスラムが多かったアフリカでも鍵盤はあまり流通しなかったようなのだが、「アメリカに連れてこられた黒人だってアフリカで育ってああいう打楽器を持っていた。そして、鍵盤に出会った時に生じた『じゃあ、これをどうしたらいいんだろう』というテンションの中から多分ブルースとかジャズが生まれてきたんだと思うんですよね」。

目を開かれることの連続だ。

ブラームスのアフリカ性。それこそ、いま計画中の「世界アフリカ研究所」の、大きな課題となる種子のひとつにちがいない。

大尋さんには、彼が中学生のころ、一度だけ会ったことがある。ぼくの友人の写真家・港千尋の、九歳下の弟なのだ。あれは虎ノ門、アクシス本社での、港くんの最初の写真展のときだった。大尋さんは覚えていないと思うが、いつか彼の演奏を聴きに行きたいと思っている。