学期も大詰め。これから8月1日の大学院入試までは、息もつけない。とはいっても日蝕の日には、ぼんやり空を見上げたい。皆既日食ではなくても、東京でもウロコ型の影が見られるはずだ。
午後、数人の大学院生たちと、ヒロシマ映画を3本連続で見る。アラン・レネ『24時間の情事』(『ヒロシマ、わが愛』1959)は、なんといっても広島の町の移動撮影がすばらしい。語り得ない記憶、をめぐる話。語ってしまえば、結局それだけのものになってしまう。そして語り終えたとき、できごとはステータスを変え、地名が端的にそれを表すものになる。地名。すべてを伝えるもの。何も伝えないもの。
吉村公三郎『その夜は忘れない』(1962)は、非常に興味深かった。冒頭から、団伊久磨の音楽がブキミな情感をかきたてる。物語はかなり無理があるのだが、田宮二郎が川に浸かりながら号泣するラストは衝撃的。握ればもろく崩れるヒロシマの石が、展開の中心。
スティーヴン・オカザキ『ヒロシマ/ナガサキ』(2005)は必見のドキュメンタリー。まさに「語り得ない」体験を、あえて語る人々の姿が、『ヒロシマ、わが愛』に対する回答になっている。
50年、半世紀。あっというまに過ぎた。そして広島、長崎の経験をめぐるわれわれの考えは、別に深まったわけでもない。ヒロシマを主題とする映画作品を、これからも探していこう。おりしも今日の新聞に、三宅一生さんの文章が出ていた。7歳にして原爆を体験。それにふれることなくキャリアをすごしてきた彼が、いま語りはじめた。