2009年11月23日月曜日

知覚と想起

考えとは進まないもの。こないだのゼミでフロイトのWunderblock(魔法のメモ板)の話になり、知覚と想起のあいだに生じるのが意識という説明をしながら、既視感に捉えられる。なんだ、1983年ごろ、誰かとこんな話をしたなあ。たぶん当時、ラカンについて書いていた友人と。

驚くべきなのは、その後、自分の考えがまったく進んでいないことで、いまでも正直なところ、意識とは何なのか、さっぱりわかっていない。各瞬間ごとに、外界からの視覚的・聴覚的・触覚的刺激は絶えずやってくる。知覚は、つねに全面的に行われている。そして知覚が残すであろう痕跡はただちに過去に送りこまれ、過去は一瞬前からはるかな幼少期までの時間幅をもって、想起の対象となる。

実際に思い出されるかどうかはともかく、この時間幅のある記憶からの想起が知覚をそのつど支え、それではじめて人は外界を把握している。ここで知覚と想起にはあるバランスがあり、現在時の知覚が強いときには想起は背景に追いやられ、想起が強いときには現在はお留守になる(白昼夢的状態)。

意識とは知覚と想起の危うい統合の上に成立しているものだが、意識を意識しはじめると、とたんにそれはその場での行動を妨害しはじめる。「〜を意識した」という言い方は、つねに事後的な描写にすぎず、意識の現場ではわれわれは知覚と想起のあいだの尾根をなんとか必死に歩いているだけ。

それでは意志とは何か。意志はつねに想起の中にあり、過去に習得された「文」がそれを代表し、その想起にしたがって人は次の一歩を瞬時に踏み出している。

このあたりのこと、四半世紀たってもまったく自分の中で話が進んでいない。そしてじつは、そんなことばかり。いつも高峰を眺めながら、都会の楽な舗装された平地ばかり歩いているようなものだ。しかも、無目的にさまよっている。

人はやはりどこかこれと決めた山に登り、そこにばかり何十年も登りつづけるのがいい。たとえ小さな里山でも、その里山についてはすみずみまで知っているという境地をめざしたい。