Sunday, 27 April 2008

まず見渡す、丘に上って DC系コラム(3)

本を読むこと自体に、あまり慣れていなくて、とまどっている人がいるみたいだ。それはそれでいい。そしてそれを克服する道はただひとつ。本を手にしている時間を飛躍的にふやすことだ。

読書は線的に構成されている。つまり、本は(いちおう)最初から読んで最後までいくように構成されている場合が多い。でも、本という形式(ランダムなアクセスを許すかたち)は、みずからそんな線的な発展を裏切っている。どこから読んで、どこでやめてもいい。行きつ戻りつでもいいし、まったくの一点読みだっていい。

そもそも書き手の側を想像するなら、はじめの着想では本のどこに何がちりばめられるかわからないし、書き、また書き直していくうちに、どんどん姿を変えてゆくのはあたりまえ。つまり、本はけっして線的に書かれたためしがないし、本が語る内容は、すべて時間の混乱の上に成立したものなのだ。

旅をするとき。どこでも知らない土地に行ったら、まず高いところに上って、その土地に対する見当をつけるのがいい。おなじように、新しい本を手にしたら、自分がちょっと高い丘にいることを想像して、本のあちこちを拾い読みし、見当をつけてみることだ。そして、気を引かれたところから読み始める。あっちへ、こっちへ。しるしをつけ、ページを折り、線を引いていい。本を買うこと、私有することの意味は、そこにある。

見当をつけながら、その本の性格、気温、湿度、地形、植生などを見抜き、これから進む経路を決める。あとはそこに分け入り、獣道を作ってゆくこと。そして「書評」を書く時には、あとからくるだれかのために枝を折ったり草を結んだりして、目印を作っておくつもりでやればいい。

とにかく、たくさんの本を手にし、たくさんのページをめくってみること。それ以外の方法はない。

できれば「抜き書き集」を作るといいのだが、それはまた未来の課題にしようか。生田の図書館に行くと、各社の新書ばかりが並んだコーナーがある。そこでちょっとでも目にとまったタイトルを片っ端から、「瞬時に読む」練習をしてほしい。やっているうちに、どんどん勘ができてくる。これはようするに、野球でいえばキャッチボール、テニスでいえば壁打の段階。避けるわけにはいかない作業だ。

健闘を祈る。