ぼくの商売は英語教師。すると困ったことに、困った日本語が、このごろあまりに目につく。「スキル・アップ、キャッシュ・バック、タックス・イン」。これはぜんぶ日本語。日本語に対応させた英語の単語を借りてきて、勝手にくっつけたもの。こうした造語がここまで通用しているとは、驚きだ。
別に日本語だと思っているから、それで意味が通じればいいようなものだが、学生の作文の中にそうした表現が使われると、さすがに直さない訳にはいかない。いちどは、こうして言語警察を演じることになる。ああ、いやだ。でもほっとくと、かれらはそれをふたたび英語綴りにすればそのまま英語として通用すると思いこむから困る。絶対に通じないよ。
一方で、ぼくはむかしからピジン言語礼賛の立場をとってきた。単語ごとの置き換えは、ピジン言語創出のメカニズムの基本。それ自体は、むしろ、どんどんやっていいと思う。ところが「言語教育」は必ず規範を教えるし、その規範とはその言語の「ネイティヴ」に対する通用範囲をひろげるということだし、また言語自体の「美」的水準を考えないわけにもいかない。
何が美しく美しくないかなんて、よくわかりもしないし、どんどん変わっていいものだが、その都度の判断としては「こっちのほうがいい、美しい」ということをしめさなくてはならない。
さあ、困った。でもさしあたっては、自分では絶対に使わない、こういう表現は。そして学生が作文で使ったら、これからもたぶん直す、直させると思う。
そしてさらに思う、こうしたことだって結局は「詩」の問題じゃないか? ある言葉をある場面や文脈で使う使わないの判断をつきつめていったものが詩なんじゃないか? 詩が実用性と離れたところにあるなんて、誰がいった?