Wednesday 27 February 2008

「ユリイカ」2008年3月号

雑誌「ユリイカ」3月号、本日発売。英文学者の若島正さん、直木賞をとったばかりの作家の桜庭一樹さんとぼくの鼎談「<世界文学>から<文学世界>へ」が掲載されている(pp.34-52)。

若島さんは元数学者、チェス・マスターにして、ぼくがもっとも尊敬する英米文学の翻訳者、特にナボコフ『ロリータ』の名訳で知られる。飄々とした話しっぷりでいて、頭の中は宇宙のように広い。桜庭さんは小柄でおしゃれでこの上なくチャーミングな感じだが、翻訳文学の驚くべき読書家であり、その野蛮な想像力はちょっと類を見ない。

場所は神保町の青土社の屋上部分にある「船室」みたいな会議室。70年代以来のなつかしい「ユリイカ」がずらりと並ぶのも壮観!(ぼくの学生時代の翻訳が掲載されている号もいくつか。)寒い晩で、コートやジャケットを着たまま、みんな手をポケットにつっこんでぼそぼそと話をしていた。

桜庭さんを追っているテレビ番組「情熱大陸」のスタッフが鼎談を収録したのだが、番組の本番(このあいだの日曜に放送)では残念ながらこの部分は放映されず。でも、文学の現場感がただようおもしろい場所で、冬の日に、いろいろ充実した話を楽しむことができた。

ジャンルを超え壊して進んでゆく彼女の作家としての変貌に、これからも注目したい。

不可能コンテンツって?(3月5日)

3月5日水曜日。アキバテクノクラブのイベントに合わせて、秋葉原ダイビル6階の明治大学サテライトキャンパスで、理工学研究科新領域創造専攻のシンポジウムを行ないます。

http://www.dc-meiji.jp/akiba/

安全学系が10時から、数理ビジネス系が12時半から、そしてディジタルコンテンツ系が15時から、それぞれ2時間。

ディジタルコンテンツ系のテーマは「不可能コンテンツの挑戦」! さあ、どんな話が飛び出すことか。ぜひ気軽に見物に来てください。興が乗れば、どんどん延長してエンドレスでやります。

Monday 25 February 2008

もうひとつ、それとおなじ輝きが

22日金曜の「朝日新聞」科学面で、おもしろい記事を読んだ。

理工学部に勤務していると、こっちまで何か「理系なんですか?」と勘違いされることがよくある。いいえ、残念ながら、ブンブンの文系です。ただの語学屋です。高校時代の数学の点は、ゼロを極限値として限りなくそれに接近している、といって過言ではありませんでした。

それでもさすがに同僚たちは、その道の専門家ばかり。この日、とりあげられていた記事の主人公は数学科の砂田利一さん。日本の代表的幾何学者のひとり。ダイヤモンドの結晶とおなじ対称性をもつ構造が存在することを、数学的に証明したのだという。

記事を引用する。「ダイヤモンドの結晶は、一つの炭素原子を取り巻くように四つの炭素原子が等距離に並んだ正四面体構造が繰り返し現れる。どの炭素原子も均等に結ばれてダイヤの硬さを生み出すほか、特有の高い光の屈折率が美しい輝きのもとになる。」

そこで砂田先生は、「結晶内の基本構造がもつ対称性と、原子と原子をむすぶ結合のもつ対称性に注目」し、この二つの対称性が最大となるような構造がダイヤのほかにもう一つあることを示した、のだという。それは「10個の原子が環状に連なった基本構造が繰り返し現れる複雑な形状」で、これを「K4結晶」と名付けたそうだ。

どうやらそれは見つかっているわけでもなく、現実に存在するかどうかはわからないようだ。ただ、可能性として、そうした原子構造がかたちをとるとき、その輝きはダイヤモンドのそれに匹敵するということか。霧の森に迷い込むような話だが、どこか感動させられるものがある。

そんな「並行世界ダイヤモンド」が、いつか現実に見つかったら? 

Sunday 24 February 2008

『わがままなやつら』

エイミー・ベンダーの第2短編集 Willful Creatures の翻訳本が完成した。日本語タイトルは『わがままなやつら』、角川書店。子供の鉛筆画みたいな悪魔の絵の表紙が、内容にすごくよく合ってる。

江國香織さんに、すばらしいオビの言葉をいただいた。「エイミー・ベンダーの小説世界は、野の花のように荒々しい。このような物語りは、ほかでは味わうことができない。それはつまりこういうことだ。味わいたければ、野にでなければ」。

そう。ワイルドで繊細。崩れているようで、完璧に統御された美しさ。こういう作家は、なかなかいない。

2月29日に発売される。エイミーの最初の短編集『燃えるスカートの少女』、長編『私自身の見えない徴』、そしてこの『わがままなやつら』と3冊を訳してきて、彼女の作家としての成長にずっとつきあってくることができたのは、ぼくにとっては本当に大きな経験だ。そして改めていうまでもなく、彼女もユダヤ系。ユダヤ系アメリカ文学論を1冊、アフリカ系アメリカ文学論を1冊、これからの20年のうちには書き上げたいと思っている。

Saturday 23 February 2008

「風の旅人」

キャンパス内の書店にゆくと、雑誌「風の旅人」の宣伝用絵葉書がカウンターのところに置かれていた。手作り感覚のみなぎる、日本では他に例がない「地球=文化の総体をまるごと捉え考える」という姿勢をはっきりもった隔月刊の雑誌。どうやら新しい展開がはじまったようで、ホームページもすっかり模様替えして、新たな出発だ。

http://www.kazetabi.com/

2005年10月の16号からはじまったぼくの連載「斜線の旅」も、右往左往しつつ、手探りの進行を続けている。最新号(30号)で15回。24回まで行き、合計360枚分くらいになったら、1冊の本にできるかなという感じ。でもそれまでに、まだいくつかの旅を果たさなくてはならない。

書店で見かけたら、ぜひ手にとってみてほしい。

長生きする作家たち

2月18日にフランスの小説家で映画も作っていたアラン・ロブ=グリエが亡くなった。1922年生まれ、享年85歳。ヌーヴォー・ロマンの代表的作家で、若いころは熱帯農業の専門家としてカリブ海のマルチニックに滞在。特にバナナ栽培の専門家だったというのがおもしろい。ぼくは彼の小説のいい読者ではないが、彼がシナリオを書いた映画『去年マリエンバードで』(アラン・レネ監督)などは非常におもしろいと思った。

ヌーヴォー・ロマンの作家たちの中では1924年生まれのミシェル・ビュトールがいまも元気。今年、来日が噂されている。

高齢な作家たちのことを考えるとき、お正月になるたびに思い出す人がいる。アメリカのJ・D・サリンジャーだ。1919年生まれの彼は、今年の元旦で満89歳を迎えたわけだ。ご存知『ライ麦畑でつかまえて』の作者だが、1965年にHapworth 16, 1924を発表したあと、完全に沈黙し、隠遁している。膨大な草稿を書き溜めているのではないかという推測もあるが、それはわからない。ただ生きていることは確実。はたして彼の未発表作品を読める日はくるのだろうか。

ぼくはサリンジャーの大ファンではないし、そのクレイジーな世界に深く迷いこんでゆくつもりもないが、彼の文体にはくりかえしふれて、英語の勉強の上ではいちばん大きな存在だったかもしれないと思う。ちなみにぼくがいちばん好きなのはRaise High the Roof Beam, Carpentersという作品。かれらのように長生きするなら、ぼくにもまだまだこれからいくらでもやれそうなことはある。

せめて2050年ごろには、何かまとまった仕事をなしとげていたいものだ。ぼくはその年、92歳。いったいどんな世界を迎えていることだろう!

Thursday 21 February 2008

アニー・リーボヴィッツ

ドキュメンタリー『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』を見てきた。あまりのすばらしさに、まるで瞳孔が開くような気がした。

彼女の写真は、70年代の雑誌「ローリングストーン」の表紙以来よく知っている。晩年のスーザン・ソンタグの恋人だということも、もちろん知っていた。でも「ヴァニティ・フェア」での仕事は、日頃ぜんぜん見ない雑誌でもあり、特に注目してもこなかった。写真集Women(2000)はずっと手元にもっていたけれど。

彼女の妹が監督したこのドキュメンタリーは圧巻だった。一種のホーム・ムーヴィーなので、時間の幅とか、そこにみなぎるintimacy がすごい。その燃えるような仕事ぶり、あくまでもストレートな人柄、妥協のない意志、すべてがはっきり伝わってくる。

空軍勤務の父親に連れられて引っ越しをくりかえした一家の、車の窓というフレームからの風景が彼女の原点なのだという。実際、彼女の仕事には(1)家族写真(2)ロバート・フランク的なアメリカのスナップ(3)アヴェドン流の肖像写真(4)その発展としてのほとんど映画の撮影現場を思わせる演出によるポートレート、といったスレッドがはっきりわかる。これに、このドキュメンタリーには出てこないが、自然そのものを主題とした作品が加わる。すさまじい力量だ。

言葉の人ソンタグとイメージの人リーボヴィッツの相補的な関係は、いかに強烈なものだったか。異性愛では生じないような完璧な一致の感覚が、そこにはあったような感じがする。世紀のカップルといっていいだろう。

そして改めて思うのが、「ユダヤ系」という存在のあり方。フランク、アヴェドン、ソンタグ、リーボヴィッツ。その構想力の大きさ、精神の強さが、たとえユダヤ教から完全に離れている場合でも、ある種の共有される心の姿勢として残っていないとは思えない。

とにかくすばらしい作品。ぜひ見てほしい、打ちのめされてほしい!

ちょうどきょう、注文していた彼女の写真集Annie Leibovitz: A Photographer's Life 1990-2005が届いた。今夜はこれから、これをじっくり見ることにする。

Wednesday 20 February 2008

でもラジオ・スターたちは

と下のように書いてから、あまりに強い既視感に襲われた。考えてみればこんな話はThe Buggles の名曲 Video Killed the Radio Star がとっくに歌っていたことじゃないか。「ぼくの心でもぼくの車でも/もう巻き戻しはできない、遠くまで来すぎたよ/画像がやってきてきみをがっかりさせた/それもみんなVTRのせいさ」

で、ちょっと調べてみると、この歌は1979年の全英チャート1位。ぼくが大学2年のときだ。ははあ、といろいろ思い出す。1981年にMTVが開局したとき、ぼくはアラバマ州の田舎の大学に通っていたが、MTVの放送開始作品がこれだったとも、ウィキペディアにあった。そうか! たぶんこれもその当時知っていたにもかかわらず、その後まるで気にもしなくなって忘れてしまった膨大な事実のひとつにちがいない(そういえばこのあいだ入試の世界史の問題を見ていてほとんどひとつも答えられないのに愕然とした。高3の3学期、つまり31年前に聞いてくれよといいたかった!)

と思った上で、見ようと思えばその曲もまたたちまちYouTubeで見られるのだから(このクリップは名作)、やっぱりいまのほうが便利ではあるか。同時に心のジャンクヤード化はとめどなく進んでいくけれど。

ビデオ/ラジオ

ところでOld Man River のLa だけでなく、ちょっとまえには Fergie のPick it Up も、ドーナツ屋の店内放送で知った。なかなかいい歌だと思った(特にまんなかの「ピキラ、パ、ピキラ、ピキラ、パ、ピキラ」と聞こえる部分)。ところがいずれもYouTubeでそれぞれの曲のビデオを簡単に見ることができて、見るとがっかり。見なければよかった。ポップスの黄金時代は、やっぱりラジオ時代だったんだなあと思う。

音楽ビデオにはもちろん数々の傑作があるが、曲そのものは、歌は、映像による拘束を受けずに野放しのほうがいい。それをいいだすと、映像のみならず写真だってじゃまに思えてきて、するとポップスの歴史自体を否定しなくてはならない? まあ、そこまでいわなくても、ビデオはむしろ見ないほうがいいものもしばしばある、という程度のことか。

文学作品とその作者の顔や声も、やっぱりそう。詩でも小説でも、文字を沈黙のうちに追えるところに最大の楽しみがある。作者による朗読なんかも、できれば避けたい。朗読むきというか、いい朗読だったなあと思った場合も何度かあるけれど。でもそんな場合だって、できれば作者の顔も、声も、知らずにすませたかったという気持ちが完全になくなるわけではない。

いろんなことが露出してくると、むしろ遮断が重要になってくる。

Tuesday 19 February 2008

しまった!

けさOld Man Riverのことを書いたら、なんと今夜、彼は原宿アストロホールに出演している。

http://www.astro-hall.com/schedule/20080219oldmanriver.html

いま、まさにコンサートの終盤かな。おそすぎた、おそすぎた。

郊外論?

郊外、それは移民たちが住み着く場所、よそものが集まる場所、大都市からはじきだされる場所、新しい規則が開発される場所。以下、知人からのお知らせをペーストします。興味がある人は気軽に見物に行こう!


「郊外」ワークショップ準備会のご案内

 寒い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
日本学術振興会 「人文・社会科学振興のためのプロジェクト」研究領域 V-1 「伝統と越境 とどまる力と越え行く流れのインタラクション」(プロジェクトリーダー:沼野充)の第2グループ「越境と多文化」(代表者:楯岡求美)では、2008年度、「郊外」に関するワークショップを企画しております。それに先立って、以下の要領で準備会合を行ないたいと思いますので、ご関心ある方々にご連絡いただければ幸いです。今回は準備会合ということで堅苦しい意味での報告ではありませんが、それぞれ異なるフィールドを対象にする発表者からの話をもとにして、今後、「郊外」をめぐって議論する足がかりになればと考えています。自由で活発な議論が展開したいと思っておりますので、それぞれのエリアの専門以外の方のご来聴も大歓迎です。
 なお会場の変更の可能性がありますので、ご参加いただける場合は事前に下記へご連絡いただければ幸いです。

 林みどり(立教大学) green@rikkyo.ac.jp
 阿部賢一(武蔵大学) abe@cc.musashi.ac.jp
 ホームページ http://www2.kobe-u.ac.jp/~kumi3/information.html
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日程:2008年3月4日(火)14時〜18時(終了後、懇親会あり)
場所:立教大学6号館3階第3会議室


内容:
1.昼間賢:マリー・ンディアイの「郊外的な」小説について

 この発表は、フランスの代表的な現代作家マリー・ンディアイ(1967〜)の近作『ロジー・カルプ』(早川書房近刊)『みんな友だち』(インスクリプト)『心ふさがれて』(インスクリプト近刊)を、郊外性という観点から読み解こうとするものである。ンディアイは、父がセネガル人、母がフランス人であり、いわゆる移民系のフランス人ではない。その点で、近年ジャンル化しつつある「移民文学」または「郊外小説」とは(直接的には)無関係である。かといって、すでに十冊以上の単著を数えるわりには、中心的な存在とみなされることも、最近まではあまりなかった。その独自のスタンスを「郊外的」と呼んでみたい。事実、作家自身は、幼少期から高校卒業までを主にパリ郊外で過ごしたにもかかわらず、インタビューを読む限り、郊外という場所を忌み嫌っているようでさえあるが、作品には、郊外は(主要な舞台として)頻出している。特に最近ではその傾向が顕著である。したがって、明確な領域としての郊外というよりは、郊外性または郊外的なあり方ということで、最近の作品にアプローチしてみたい。その作業の果てに、フランスの郊外に関する深刻な社会問??題とは一見まったく無縁であるように見える作品群が、実は、最も切実な文学的提言である可能性が浮かび上がってくるだろう。ちなみに、ンディアイの郊外は、つねに組み合わせとして現れる、相対的な空間である。『ロジー・カルプ』では、パリ郊外は、フランスの地方都市とカリブ海との関係に置かれ、『心ふさがれて』では、地方都市の中心部とその郊外という対比が効果的である。そのような相対性が最もよく表れている短編「クロード・フランソワの死」(『みんな友だち』所収)を、翻訳があることもあり、発表の中心に据えたい。



2.阿部賢一: 〈ロマン〉/〈ロマニ〉??マルチン・シュマウスの小説における「内なる郊外」

都市プラハの歴史には「二つのゲットー」が存在すると言われる。19世紀後半まで旧市街の中に位置づけられていたユダヤ人街、そして20世紀後半に出現するロマの居住区である。いずれもある特定の集団に居住が限定され、社会的に「見えざる」場所となっている。このような中で、マルチン・シュマウスが著した小説『娘よ、火を分けておくれ』(2005)は、貴重な題材を提供してくれている。これまで周縁的な形でしかでしか表象されていなかったロマが本書では主体となり、「描かれる対象」から「描く対象」へ転化しているなど、従来のロマ表象とは一線を画しているからである。同時に、主人公の眼差しは都市の暗部に向けられ、今まで顧みられなかった都市の側面、都市の内部における「郊外」を表出している。本報告では、同小説における「内なる郊外」に着眼し、作品の読解を試みる。



3.林みどり:「21世紀のコルタサル」

アルゼンチンの小説家フリオ・コルタサル(1914-84)の短編集『愛しのグレンダ』邦訳(野谷文昭訳・岩波書店)が先月上梓された。コルタサル自身が政治へのコミットを深めたせいか、「批評の対象になる機会が少ない」(野谷・あとがき)と評される後期コルタサルの代表作のひとつで、南米に政治暴力の嵐が吹き荒れた1970年代の都市と暴力を背景においた作品が所収されている。21世紀の現在、このコルタサルのテクストを、70年代当時、南米で最も暴力化していた都市のひとつブエノスアイレスに重ねるとき、なにが見えてくるのか。テクストに描かれている暴力的な都市空間の「向こう側」の世界を、現在のブエノスアイレスにおける記憶の「深層都市」(中村雄二郎)の「地図」と重ね合わせるとき、そこになにが浮かび上がってくるのか。集合的記憶の三次元的パリンセプトとして、都市空間を読み解くことはできないか。そんな都市の詩学的探究に向けた試みの出発点として、現代アルゼンチンのいくつかの「作品」の断片(願わくば文学作品/MPV(ただし機材がないので無理かも)/アート系人権運動家たちの活動/都市の景観等)を繋ぎ??あわせてみたい。コルタサルの都市像が70年代ブエノスアイレスの陰画であるなら、その陰画の陰画として現在のブエノスアイレスを読み解く試み。

La

最近、頭にしのびこんで離れないメロディーがある。朝、よくミスター・ドーナツでコーヒーを飲んでから出かけるのだが、その7時40何分かにかかる曲。ちょっと調べてみると、シドニー出身のユダヤ系の若い男性歌手Old Man River だった。曲名は"La"。As simple as that!

http://www.oldmanrivermusic.com/

感心するのはそのタイトル。誰でもポール・マッカートニーを思い浮かべる親しみやすいメロディーで、「ララララ、ララララ〜」というリフレインが入る。でもポップ音楽の歴史の中で、この"La"をそのままタイトルにすることを思いついた人が、これまでにいただろうか! 

歌こそ、ヒトという動物の創造性のもっとも端的な現れだと思う。ごくごく簡単な要素だけを使って、なぜここまでの多様性が? メロディーが、歌詞が?

歌詞といえば、最近いちばん真剣に聞いているのはSufjan Stevensだ。すごくいい感覚。いつのまにか自分よりもずっと年下のかれらの作品に、感心し学ぶことが多い年齢と心の姿勢になったみたいだ。

Monday 18 February 2008

新聞

土曜日(16日)の夕刊(朝日新聞)を、日曜の深夜をすぎてやっと読んでいた。いくつかの記事が記憶に残る。

(1)熱気球で太平洋横断に挑んでいた神田道夫さん(58)の捜索打ち切り。1月31日午前5時すぎに出発し、2月1日午前3時26分ごろ連絡が途絶える。すでに日付変更線を越えていた。2週間後、空から漂流物が確認された。前回の失敗時は、石川直樹さんと一緒だった。そのときの救助も、まさに僥倖としかいいようがないものだったらしい。痛恨。

(2)一方、「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さんはすでに69歳。波の力だけで進む波浪推進船によるハワイから日本への旅に挑むそうだ。3月16日にホノルルを出て、順調にゆけば5月下旬に紀伊水道に達する。時速平均3ノット。「水中翼の上下を通過する水流の速度の違い」を推進力に換えるという発想がおもしろい。成功を祈りたい。

(3)伊豆諸島からアホウドリのヒナ10羽が小笠原諸島の聟島へと、ヘリコプターで移送される。新たな繁殖コロニーを作る試み。現在の主要な繁殖地である鳥島の火山活動を危惧してのことだそうだ。これも、ヒナたちの新しい島での成長を祈りたい。

それにつけても新聞とは、ほんとに変なメディアだ。それぞれなんの関係もない事柄が、平面上に並べられ、解説される。だがこの構造は、ニュース・メディアがテレビになろうと、インターネットになろうと、変わらない。使われる空間(と時間)によりあらかじめその重要性までもが評価されたニュース群の、根拠なき並列。

結局、こんな風にしてしか、われわれは「世界」を知らないわけだ。つまり、誰もがそれぞれのキマイラのような世界像をもち、それでなんとなく話を合わせている。

信頼できる解説者が必要なわけだ。

Saturday 16 February 2008

入試の日々

入試シーズンたけなわ。明治はまたもや志願者数が10万人を超え、早稲田についで第2位らしい。受験のために集まってくるみんなの緊張した表情や一部のリラックスしきった表情を見ていると、この中のいくつかの顔が4月に新入生としてキャンパスをみたし、それから1年生の1年間で激変していくのを見ることになるんだなあと思う。4月になって、クラス初日の、あのはりつめたしずけさとやる気。なんとかそれを持続したいものだ。

大学のあり方をどう議論しようとも、結局、学ぶことを中心に考えていかなければ本末転倒。高校までの勉強とはまったくちがうということを、1年生のあいだにはっきりしめさなければならない。1年生は、特別な1年だ。この春からは、さらに大学院の新プログラムをどう育てていくかという試行錯誤が始まる。

Sunday 10 February 2008

「だって、カッコいいから」

「フリーランス語学教師」であるわが友人、黒田龍之助さんの新著が出た。『語学はやり直せる!』(角川ONEテーマ21)。勇気とやる気を与えてくれる、クールな本だ。

クールというのは、著者の立場。どうして語学なんかやってるの? と聞かれたら、迷わずこう答えればいい。「だって、カッコいいから」! それ以外の目的なんて、ぜんぶ後からの付けたし。妙な実利主義とか、もっと妙な精神主義とか、もっともっと奇怪な教養主義とかには、著者はぜんぜん無縁だ。クールだと思ったから始めて、ずっとやってる。それでいい、たしかに。一時の情熱ではなく、冷静な持続。それを著者はこう表現する。「情熱的な北風ではなく、冷たい太陽が目標」。さすがは江戸っ子ロシア語学者!

語学の勉強のためのヒントとクールな態度への誘いはふんだんにもりこまれているが、いちおうこっちも語学者であるぼくが共感しお勧めしたいのは「子供用の外国語辞書を書き写すこと」。これは確実に力がつく。そして、辞書を読むこと。とにかく発見につぐ発見の大航海時代になることはまちがいない。

そしてぼくにとっていちばん耳が痛かったのは、「語学のプロは整理整頓をする」。これがぼくにはできない。それが何より証拠には、かつての黒田研究室の整然と、わずか2部屋隔てただけのぼくの研究室の混沌を較べてみれば、明らかだった。すべての資料がどんどん行方不明になってゆくぼくの部屋。あらゆる必要品が指で合図するだけで自然に飛び出してくる黒田さんの部屋。

見習いたい。

Saturday 9 February 2008

行動の支配

けさの朝日新聞に、おもしろい記事があった。パナマやペルーの熱帯林に住む線虫。アリに寄生し、その腹の中に産卵すると、アリのおなかがぱんぱんに晴れ上がった赤い実のようになる。なんとかベリーというか。それを木の実と信じて鳥が食べる(ふだんアリを食べない「マミジロミツドリ」などが)。すると線虫は食べられることで、鳥を利用して拡散し、鳥の糞により地表に舞い降りて、またそこで生存を図るのだ。

これですぐ思い出したのが、YouTubeで昨年話題になっていたゾンビー・スネイルのこと。

http://www.youtube.com/watch?v=EWB_COSUXMw

かたつむりの寄生虫がかたつむりの体内を触覚にまで上がってゆくと、触覚は緑色のギンギンギラギラ的オブジェに変わる。かたつむりは頭がおかしくなって、葉陰からよく陽が当たる植物の先端まで上ってゆく。すると鳥が触覚を何かの幼虫と勘違いして食べる。食べられた寄生虫は、ふたたび鳥を乗り物として拡散し、排泄により地上に降り、またかたつむりを探す。

いったい何だ、これは、誰が考えた、誰が仕組んだ? 線虫や寄生虫に、そのプロセスの全体が見通せているのか? 鳥たちはあざむかれっぱなしなのか(そうだろうね、たぶん)。どういうきっかけで、こんな行動パターンが確立されたのか?

擬態と並んで、考え始めると背筋が凍る、自然界の策略だ。

ところでもうひとつ、おまけのクイズ。鳥には便と尿の区別がないよね、たぶん。ほ乳動物では、それがはっきりしている。この区別は、何のために、いつ生じたのか? クイズとはいったけど、ぼくは答えを知りません。ずっとむかしから気になっているものの、調べることもせず。いずれ解明したい。

Thursday 7 February 2008

文学って?

「文学って、どういうところがおもしろいんですか」と理系の学生から聞かれることがときどきある。人によっては、ストーリーがおもしろい、それが文学のおもしろさだというだろう。ぼくはちがって、言葉の電荷や磁力が急に高まる瞬間を、たぶんそれだけをおもしろがっている。

フランスの作家ジャン・ポーランのごく短いフィクション作品を、フランス文学者の笠間直穂子さんから教わった。男がベンチにすわり夕方をただ体験しているのだが、こんな感慨を抱く。「この燃えあがる空間は私に酔いをもたらす、それはワインの酔いよりも重い。むしろ肉やソースの酔いだ」(笠間さんの私訳)。そのときその場にいることの酔いを「ワインの酔い」にたとえるところまでは、別にありきたりなたとえ。しかしそれが「肉やソースの酔い」となると、そこで言葉は別の段階に足を踏み入れている。ポーランにみちびかれて、はじめて知る境地だ。

作家・桐野夏生のエッセー「ゆらゆらと生きてきた」を読むと、こんな一節があった。昭和30年代の日本の地方都市では闇が濃かったにちがいないと述べたあとで、記す言葉。「その闇は夜訪れるのではなく、家の軒下や庭石の陰、日向の雑種犬の匂いなどの中にあった。」この場合も、夜の闇なら、別に驚くにもあたらない。驚くのは、「日向の雑種犬の匂い」に闇を感じるところで、これはポーランの「肉やソースの酔い」に匹敵する。いずれも発見を強烈に感じさせる。かたちをとった観念の、強さがちがう。そしてぼくは、こうした発見に興味がある。

逆にいえば、こうした強いセンテンスをもたない作品は、ストーリーとしてどんなにおもしろくても、ぼくにとっては「ただのお話」でしかない。

南フランスの大作家ジャン・ジオノの短篇「フィレモン」の出だしを見ようか。「ノエル(クリスマス)のころ日々は麦わらの中に並ぶ果物のように平穏だ。夜は凍ってかちかちになった大きなすもも。正午は酸っぱくて赤い、野生のあんずだ。」

異常なたとえ。だが、そのようにたとえられなければありえなかったかたちの夜と昼が、日々が、ここからはじまり、この物語が前提とする土地の夜と昼はそのようなものなのだという了解の上に、電荷の高まった状態で物語がかたられてゆくことになる。

こうした文章が、ぼくにはおもしろい。

Wednesday 6 February 2008

「みすず」2008年1・2月号

みすず書房のPR誌「みすず」は恒例の「読書アンケート」特集。2007年のあいだに読んで印象に残った本をいろいろな人があげていて、ぼくも参加してます。もうずいぶん、毎年書いてる。2001年ごろからか?

ぼくがあげたのは以下のとおり。いずれも「翻訳文学」の枠から。

(1)ギヨーム・ド・ロリス/ジャン・ド・マン『薔薇物語』(篠田勝英訳、ちくま文庫)、(2)ソル・フアナ『知への賛歌』(旦敬介訳、光文社古典新訳文庫)、(3)シルヴィー・ジェルマン『マグヌス』(辻由美訳、みすず書房)、(4)チママンダ・アディーチェ『アメリカにいる、きみ』(くぼたのぞみ訳、河出書房新社)、(5)高銀『いま、君に詩が来たのか』(青柳優子ほか訳、藤原書店)

選んだ理由は、ぜひこのすばらしい小冊子を入手して、読んでみてください。

いろいろな人があげている本を見ると、知らないものも多く、猛然と読書欲に火がつく。でも時間がなくて、ほとんどはそれっきりなんだけどね。たとえば栩木伸明さんがあげている松岡利次『アイルランドの文学精神』とか、松野孝一郎先生があげているダグラス・ホフシュタッターの新作 I am a Strange Loopとか、ぼくが哲学者・多言語使用研究者のひとつの理想型だと考えている冨原真弓さん(シモーヌ・ヴェイユの研究者にして「ムーミン」の翻訳者)があげる今村・塚原訳によるソレル『暴力論』とか、文章道の先達・大竹昭子さんがあげる十文字美信『感性のバケモノになりたい』などは、すぐに入手しなければ救われない。

日本語世界は、すごいよ。すごい本はたくさん出てるんだ。ただ、それが根付いてゆかない。また、他所の言語に反響を作り出せない。そのへんを少しずつでも克服する方向に、作業を進めよう。ひとりひとりの力は限られている、あまりにも。動きは、すべて、連結が作り出す。

改革ではなく変化を

「中央公論」2月号が「崖っぷち、日本の大学」という特集を組んでいて、冒頭にあった批評家・蓮實重彦さんのインタビューを読んだ。元東大総長の彼は、あらゆる「改革」に反対の立場だそうだ。以下、引用。

 なぜなら、「改革」とはつまるところ「法律を作ること」だからです。法律を作るということは、そこで動きを止めるということですが、皆さん、そのことをあまり理解しておられない。今、日本社会に起きている悲劇は、「改革」の名の下に人々の動きを止めた結果がもたらしたものなのです。

これには、まったくそうだ、と頷かずにはいられなかった。改革は、例外なく、新しいルールを決めることで行なわれる。そこには、もはや臨機応変もなく、創意工夫もなく、個々の裁量にまかされる部分もなく、即興可能性もない。たとえば、どの教室もおなじテクストを使い、どの教師もおなじ教え方をするような大学に、存在意義はあるのか? 少なくとも語学に関するかぎり、答えはノーを100回。

蓮實さんは「入学初年次の教育が最もパワフルなものになるよう強化すること」とおっしゃっているが、これも全面的に賛成で、1年生に驚きを与え、大学の勉強とは「高校までの勉強とはまったくちがう楽しいもの」(黒田龍之助)だということを教え、何も知らないくせに高を括って「大学なんてこんなものか」と思い込むような学生の先入観をこなごなにすることは絶対に必要だと思う。

さらに蓮實さんの言葉を引く。「日本の大学教育では、十年一日のごとく、学期末に一度試験をして、もしくはレポートを書かせて、学生を評価しています。こんな明治時代と同じやり方で、今の学生が育つはずはない」。そのとおり。まったく耳が痛い話で、ぼくもいくつかの授業をそうしてすませてきた。何も身についていないにも関わらず、何かを学んだものとしてすませる。じつに下らない。

それをいうなら、2007年度のフランス語検定の結果だって、大きなことはいえなかった。たとえば4級に受かったからといって、得点60パーセント(合格ライン)をちょっと超えたくらいの場合、フランス語力なんて何も身に付いていないのが大部分だ。たぶん、動詞を活用させてちゃんと綴りを書くことはできないし、選択肢ではなく記述式の試験なら、ばたばたと落ちていることだろう。だが言葉とは、そういうものではない。

なんだかんだで、考えこむこと、しきり。結局は、燃えるような「学びたい」という気持ち、その火にいかに油を注ぎ、それにいかに答えるかだけが問題だ。新しい同僚を迎えて、この4月からは、また新たな道を探りたい。

授業はこれまでになくきびしくなるよ。特に2年のフランス語のみんな、覚悟。小テストも何度もやるよ。少なくとも「辞書があればたいがいのものは見当がつく」という境地をめざしたい。

春からの新しい世界

もうちゃんと学生のみんなに紹介していいころだと思うが、われわれ理工学部総合文化教室では、この春から新しい専任の先生おふたりをお迎えする。

まずフランス語の清岡智比古さん。白水社の『フラ語』シリーズで知られるカリスマ教師。この春からはNHKラジオのフランス語講座の講師も担当される。専門分野はシュルレアリスムの詩、そしてフランス映画史。小説家でもあり、その楽しい授業はすでに生田でも(現在は非常勤講師)、経験した人も多いはずだ。

そして中国語の林ひふみさん。新井一二三の筆名で講談社現代新書の『中国語はおもしろい』を出している彼女は、まったくの日本人だが、じつは中国語のエッセー集を十冊以上出している、人気コラムニスト。台湾や香港の新聞では、彼女のコラムを楽しみにしている読者がたくさんいる。こんな人は、まちがいなく、これまで誰もいなかった!

台湾の出版社がやっている、ひふみ先生のサイト。

http://www.titan3.com.tw/hifumi/

漢字を拾っていくと、わかる部分もちらほら。

1、2年生対象の「総合文化ゼミ」で、おふたりはそれぞれフランス映画と中国映画をとりあげてくださるそうだ。これは絶対に楽しいから、ぜひお勧めしたいと思います。

2007年春の新任だった倉石信乃さんと波戸岡景太さん。そしてこんどの清岡さんと林さん。総合文化教室も、激動の時期。こんなときこそ、大学を楽しく、変化に富んだ、ほんとうに新しい何かが生まれる場所に育ててゆくチャンスだ! 「大学はおもしろい場所でなくちゃ」という言葉を残して生田を去った元同僚・黒田龍之助さんの言葉を、ひとりかみしめる冬の夜だった。

Monday 4 February 2008

kinMgi

電車の中でサントリーの発泡酒「金麦」の吊り広告を見て、感心した。誰か知らない女優の顔にKIN GIの文字があしらわれて、「む」の音にあたる部分が唇になっている。省略されている文字は「M」、つむった唇が子音を表す。日本語で、この並びだと、「きんむぎ」とたとえひらがなで書いても、「む」の母音をちゃんと発音する人は割合少ないはずだ。つまり、Mだけで用は足りている。この議論は、広告企画の会議でちゃんと出たにちがいない。さすがサントリー宣伝部。

世の中で感心することは、ほんと、枚挙にいとまがない。昨晩はテレビの「情熱大陸」で、ブックデザイナーの祖父江慎さんがとりあげられていた。まちがいなく、世界のブックデザインの最前衛。めちゃくちゃなことを次々にやっている! どういうことをやっているかはそれぞれ調べてもらうことにして、昨日の番組でエピソード的に感動したことを3つくらいにまとめておこう。

(1)蜘蛛を見かけるとそれを手にとって遊び始めるようす。
(2)近所のタバコ屋までスキップでタバコを買いに行くところ(祖父江さんは1959年生まれのおじさん)。
(3)漱石の『坊ちゃん』のあらゆる版を集めていること。これでデザインによりおなじ作品がいかに表情を変えるかがわかる。

まさに天才の日常。驚き、あきれ、感動しました。

DC系の学生からも、いつか広告やグラフィックデザイン、ブックデザインといった分野で活躍する人が出てほしい。料理でもいいけど。いよいよ第2期入試の月になった。

Sunday 3 February 2008

『燃えるスカートの少女』

暮れに角川文庫に入ったエイミー・ベンダー『燃えるスカートの少女』。文庫になって新しい読者をたくさん得ることができたようで、いろいろな人のブログでふれられています。キャンパス内の丸善ブックセンターでも、何人かの人が問い合わせてくれたとか。そろそろ入荷しているのでは。うれしいことです。

いま出ている「週刊現代」の「リレー読書日記」では、直木賞をとったばかりの桜庭一樹さんが3冊のうちの1冊として取り上げて論じてくださいました。桜庭さんは、とにかく、すごい読書家。書評家の豊崎由美さんと並ぶ、翻訳文学の旺盛な読者である彼女が読んで、作家としての共感をエイミーに感じたのであれば、訳者としてはちょっと/かなり/相当むくわれたということになるでしょう。

文庫版の好評は、解説の堀江敏幸さんと帯の言葉をいただいたよしもとばななさんのおかげが大きいと思います。ありがとうございました。エイミーの第2短編集『わがままなやつら』も、まもなく発売されます。前作以上に強烈、そして洗練の度合いを加えています。ちょうど昨日、「訳者あとがき」を書いたところ。ご期待ください!

Friday 1 February 2008

REPRE 05

表象文化論学会ニューズレター「REPRE」第5号に、昨秋のブレーズ・サンドラールをめぐるイベントの報告を書きました。一緒に執筆してくれたのは、友人の工藤晋。都立芸術高校の英語の先生です。

http://repre.org/repre/vol5/topics/index.html

ついこのあいだのことなのに、こうして見ると早くもなつかしい! サンドラールの全集、今年中にぜんぶ読みたいもの。ちょっと無理かな。ま、そのへんはのんびり。

二月

はやくも二月! 空が明るい。例年この季節がいちばん慌ただしい。やっと学年末試験の成績をつけ終えたところ。語学の授業、くりかえし警告を発してきたにもかかわらず、なんの準備もせずに試験を受けた数人には、ざくざくと落ちてもらった。ほんの50語くらいの単語や熟語も覚えずに受けたって、それはダメだよ。大学なんだから。別にきみたちの世界観・人生観まで問うつもりはないが、最低限の知識まで「こんなこと知らなくていいよ」といえるわけはない! 答案用紙のすみっこに「単位くださ〜い」と書くやつらが、21世紀になってなお残っているとはあきれる(むかしはたくさんいた)。そこまで書くなら、堂々と「大学なんていらない」宣言をするか、あるいは「語学は廃止しよう」という運動でも起こしたらどうだ。

これから入試関連の業務がすべて終わるまでは、気が抜けない。並行して、春からの新設大学院準備が、まだいろいろ。原稿が遅れてご迷惑をおかけしているみなさまには、ひたすらお詫びします。

ところでドトール・コーヒーで持ち帰り用コーヒーを買って、カップにちょっと感心した。他の店だったらボール紙のスリーヴを巻いてよこすところを、表面に突起が並んだ紙カップにしている。なるほど、これなら最高の断熱材としての空気をうまく使えて、熱くない。内側はツルツル。よく考えてあるなあ。材質は一年草の「ケナフ」で、これは「ハイビスカスに似た一年草」「二酸化炭素を杉の約15倍も吸収する」のだそうだ。

ケナフ。けなり。イナフ。ナフナフ。ナイフ。イフ。意味なく音が続くうちに、空はもう夕方。