Tuesday, 19 February 2008

郊外論?

郊外、それは移民たちが住み着く場所、よそものが集まる場所、大都市からはじきだされる場所、新しい規則が開発される場所。以下、知人からのお知らせをペーストします。興味がある人は気軽に見物に行こう!


「郊外」ワークショップ準備会のご案内

 寒い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
日本学術振興会 「人文・社会科学振興のためのプロジェクト」研究領域 V-1 「伝統と越境 とどまる力と越え行く流れのインタラクション」(プロジェクトリーダー:沼野充)の第2グループ「越境と多文化」(代表者:楯岡求美)では、2008年度、「郊外」に関するワークショップを企画しております。それに先立って、以下の要領で準備会合を行ないたいと思いますので、ご関心ある方々にご連絡いただければ幸いです。今回は準備会合ということで堅苦しい意味での報告ではありませんが、それぞれ異なるフィールドを対象にする発表者からの話をもとにして、今後、「郊外」をめぐって議論する足がかりになればと考えています。自由で活発な議論が展開したいと思っておりますので、それぞれのエリアの専門以外の方のご来聴も大歓迎です。
 なお会場の変更の可能性がありますので、ご参加いただける場合は事前に下記へご連絡いただければ幸いです。

 林みどり(立教大学) green@rikkyo.ac.jp
 阿部賢一(武蔵大学) abe@cc.musashi.ac.jp
 ホームページ http://www2.kobe-u.ac.jp/~kumi3/information.html
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日程:2008年3月4日(火)14時〜18時(終了後、懇親会あり)
場所:立教大学6号館3階第3会議室


内容:
1.昼間賢:マリー・ンディアイの「郊外的な」小説について

 この発表は、フランスの代表的な現代作家マリー・ンディアイ(1967〜)の近作『ロジー・カルプ』(早川書房近刊)『みんな友だち』(インスクリプト)『心ふさがれて』(インスクリプト近刊)を、郊外性という観点から読み解こうとするものである。ンディアイは、父がセネガル人、母がフランス人であり、いわゆる移民系のフランス人ではない。その点で、近年ジャンル化しつつある「移民文学」または「郊外小説」とは(直接的には)無関係である。かといって、すでに十冊以上の単著を数えるわりには、中心的な存在とみなされることも、最近まではあまりなかった。その独自のスタンスを「郊外的」と呼んでみたい。事実、作家自身は、幼少期から高校卒業までを主にパリ郊外で過ごしたにもかかわらず、インタビューを読む限り、郊外という場所を忌み嫌っているようでさえあるが、作品には、郊外は(主要な舞台として)頻出している。特に最近ではその傾向が顕著である。したがって、明確な領域としての郊外というよりは、郊外性または郊外的なあり方ということで、最近の作品にアプローチしてみたい。その作業の果てに、フランスの郊外に関する深刻な社会問??題とは一見まったく無縁であるように見える作品群が、実は、最も切実な文学的提言である可能性が浮かび上がってくるだろう。ちなみに、ンディアイの郊外は、つねに組み合わせとして現れる、相対的な空間である。『ロジー・カルプ』では、パリ郊外は、フランスの地方都市とカリブ海との関係に置かれ、『心ふさがれて』では、地方都市の中心部とその郊外という対比が効果的である。そのような相対性が最もよく表れている短編「クロード・フランソワの死」(『みんな友だち』所収)を、翻訳があることもあり、発表の中心に据えたい。



2.阿部賢一: 〈ロマン〉/〈ロマニ〉??マルチン・シュマウスの小説における「内なる郊外」

都市プラハの歴史には「二つのゲットー」が存在すると言われる。19世紀後半まで旧市街の中に位置づけられていたユダヤ人街、そして20世紀後半に出現するロマの居住区である。いずれもある特定の集団に居住が限定され、社会的に「見えざる」場所となっている。このような中で、マルチン・シュマウスが著した小説『娘よ、火を分けておくれ』(2005)は、貴重な題材を提供してくれている。これまで周縁的な形でしかでしか表象されていなかったロマが本書では主体となり、「描かれる対象」から「描く対象」へ転化しているなど、従来のロマ表象とは一線を画しているからである。同時に、主人公の眼差しは都市の暗部に向けられ、今まで顧みられなかった都市の側面、都市の内部における「郊外」を表出している。本報告では、同小説における「内なる郊外」に着眼し、作品の読解を試みる。



3.林みどり:「21世紀のコルタサル」

アルゼンチンの小説家フリオ・コルタサル(1914-84)の短編集『愛しのグレンダ』邦訳(野谷文昭訳・岩波書店)が先月上梓された。コルタサル自身が政治へのコミットを深めたせいか、「批評の対象になる機会が少ない」(野谷・あとがき)と評される後期コルタサルの代表作のひとつで、南米に政治暴力の嵐が吹き荒れた1970年代の都市と暴力を背景においた作品が所収されている。21世紀の現在、このコルタサルのテクストを、70年代当時、南米で最も暴力化していた都市のひとつブエノスアイレスに重ねるとき、なにが見えてくるのか。テクストに描かれている暴力的な都市空間の「向こう側」の世界を、現在のブエノスアイレスにおける記憶の「深層都市」(中村雄二郎)の「地図」と重ね合わせるとき、そこになにが浮かび上がってくるのか。集合的記憶の三次元的パリンセプトとして、都市空間を読み解くことはできないか。そんな都市の詩学的探究に向けた試みの出発点として、現代アルゼンチンのいくつかの「作品」の断片(願わくば文学作品/MPV(ただし機材がないので無理かも)/アート系人権運動家たちの活動/都市の景観等)を繋ぎ??あわせてみたい。コルタサルの都市像が70年代ブエノスアイレスの陰画であるなら、その陰画の陰画として現在のブエノスアイレスを読み解く試み。