Thursday 7 February 2008

文学って?

「文学って、どういうところがおもしろいんですか」と理系の学生から聞かれることがときどきある。人によっては、ストーリーがおもしろい、それが文学のおもしろさだというだろう。ぼくはちがって、言葉の電荷や磁力が急に高まる瞬間を、たぶんそれだけをおもしろがっている。

フランスの作家ジャン・ポーランのごく短いフィクション作品を、フランス文学者の笠間直穂子さんから教わった。男がベンチにすわり夕方をただ体験しているのだが、こんな感慨を抱く。「この燃えあがる空間は私に酔いをもたらす、それはワインの酔いよりも重い。むしろ肉やソースの酔いだ」(笠間さんの私訳)。そのときその場にいることの酔いを「ワインの酔い」にたとえるところまでは、別にありきたりなたとえ。しかしそれが「肉やソースの酔い」となると、そこで言葉は別の段階に足を踏み入れている。ポーランにみちびかれて、はじめて知る境地だ。

作家・桐野夏生のエッセー「ゆらゆらと生きてきた」を読むと、こんな一節があった。昭和30年代の日本の地方都市では闇が濃かったにちがいないと述べたあとで、記す言葉。「その闇は夜訪れるのではなく、家の軒下や庭石の陰、日向の雑種犬の匂いなどの中にあった。」この場合も、夜の闇なら、別に驚くにもあたらない。驚くのは、「日向の雑種犬の匂い」に闇を感じるところで、これはポーランの「肉やソースの酔い」に匹敵する。いずれも発見を強烈に感じさせる。かたちをとった観念の、強さがちがう。そしてぼくは、こうした発見に興味がある。

逆にいえば、こうした強いセンテンスをもたない作品は、ストーリーとしてどんなにおもしろくても、ぼくにとっては「ただのお話」でしかない。

南フランスの大作家ジャン・ジオノの短篇「フィレモン」の出だしを見ようか。「ノエル(クリスマス)のころ日々は麦わらの中に並ぶ果物のように平穏だ。夜は凍ってかちかちになった大きなすもも。正午は酸っぱくて赤い、野生のあんずだ。」

異常なたとえ。だが、そのようにたとえられなければありえなかったかたちの夜と昼が、日々が、ここからはじまり、この物語が前提とする土地の夜と昼はそのようなものなのだという了解の上に、電荷の高まった状態で物語がかたられてゆくことになる。

こうした文章が、ぼくにはおもしろい。