「中央公論」2月号が「崖っぷち、日本の大学」という特集を組んでいて、冒頭にあった批評家・蓮實重彦さんのインタビューを読んだ。元東大総長の彼は、あらゆる「改革」に反対の立場だそうだ。以下、引用。
なぜなら、「改革」とはつまるところ「法律を作ること」だからです。法律を作るということは、そこで動きを止めるということですが、皆さん、そのことをあまり理解しておられない。今、日本社会に起きている悲劇は、「改革」の名の下に人々の動きを止めた結果がもたらしたものなのです。
これには、まったくそうだ、と頷かずにはいられなかった。改革は、例外なく、新しいルールを決めることで行なわれる。そこには、もはや臨機応変もなく、創意工夫もなく、個々の裁量にまかされる部分もなく、即興可能性もない。たとえば、どの教室もおなじテクストを使い、どの教師もおなじ教え方をするような大学に、存在意義はあるのか? 少なくとも語学に関するかぎり、答えはノーを100回。
蓮實さんは「入学初年次の教育が最もパワフルなものになるよう強化すること」とおっしゃっているが、これも全面的に賛成で、1年生に驚きを与え、大学の勉強とは「高校までの勉強とはまったくちがう楽しいもの」(黒田龍之助)だということを教え、何も知らないくせに高を括って「大学なんてこんなものか」と思い込むような学生の先入観をこなごなにすることは絶対に必要だと思う。
さらに蓮實さんの言葉を引く。「日本の大学教育では、十年一日のごとく、学期末に一度試験をして、もしくはレポートを書かせて、学生を評価しています。こんな明治時代と同じやり方で、今の学生が育つはずはない」。そのとおり。まったく耳が痛い話で、ぼくもいくつかの授業をそうしてすませてきた。何も身についていないにも関わらず、何かを学んだものとしてすませる。じつに下らない。
それをいうなら、2007年度のフランス語検定の結果だって、大きなことはいえなかった。たとえば4級に受かったからといって、得点60パーセント(合格ライン)をちょっと超えたくらいの場合、フランス語力なんて何も身に付いていないのが大部分だ。たぶん、動詞を活用させてちゃんと綴りを書くことはできないし、選択肢ではなく記述式の試験なら、ばたばたと落ちていることだろう。だが言葉とは、そういうものではない。
なんだかんだで、考えこむこと、しきり。結局は、燃えるような「学びたい」という気持ち、その火にいかに油を注ぎ、それにいかに答えるかだけが問題だ。新しい同僚を迎えて、この4月からは、また新たな道を探りたい。
授業はこれまでになくきびしくなるよ。特に2年のフランス語のみんな、覚悟。小テストも何度もやるよ。少なくとも「辞書があればたいがいのものは見当がつく」という境地をめざしたい。