Thursday 31 March 2011

昨日の言葉 12

電車の終点は入江になっている。帆をおとしたヨットのひしめくむこうには松林。海岸の散歩道を右にまがると坂の上にむかし住んでいた家が見える。カーラヴェーゲン九番地。もう知りあいもないのでそこを通りすぎるとつきあたりにひらける沼。だれもいない。鳥一羽いない。折れまがった枯れ草に吹く風もない。午後3時。
そこは世界でいちばん遠い場所だった。だれからも遠くはなれていた。だれからもはなれたとき心のなかだけでもかえっていける場所だった。
(高橋悠治)

夕日が
一軒の家を照らしていた
その照らし方で
その家は
留守だということが、直ちにわかった
(小池昌代)

そして薩摩半島西海岸の海の民たちは、それ [娘ま(=女へんに馬)神] を日本化することなく、隣国の神と認めたまま信仰していたということが、わたしには興味深い。航海の目印になり、海上から安全祈願をする野間岳は、中国人のものでも日本人のものでもなく、海の民のものだった。
(佐々木幹郎)

昨日の言葉 11

日本語を書く緊張感とは、文字の流入過程、つまり日本語の文字の歴史に否応なしに参加せざるをえなくなる、ということなのだ。
(リービ英雄『我的日本語』)

ぼくはバイリンガルじゃないんですよ。(......) 日本語で書くときには、その瞬間英語を否定しているわけですから。自分の母国語だから、否定してもしきれないところはあるんだけど、それでも否定しようとすること自体が、ぼくには有益なことなんです。日本語で書くということは、英語では書けないことを書くぞ、というチャレンジでもあると思ってる。
(リービ英雄『新宿の万葉集』)

カズオ・イシグロのように、長年の半冬眠状態がつづいていたオーソドックスな英語に新生を吹き込んだ「同化型」もいれば、サルマン・ラシュディのようにインド亜大陸の派手な形容詞と起伏の多いシンタックスを英語に持ちこんだ「逆襲型」もいる。しかし、重要なことは、かれらがイギリス文化にとって本来は外部の出自に違いないが、かれらはイギリスをただ「外」から描いているわけではない、という点である。「内」と「外」が混同した形として、かれらの文学があるのだ。
(リービ英雄『日本語の勝利』)

Wednesday 30 March 2011

Agend'Ars 18


Que no me aparten de esta hermosa desierta
De este bosque ralo de los cactus lozanos
Aquí todos los pedazos de cuarzos brillan espontáneamente
Aquí la luna de todas las edades quita el sueño
Y la noche siempre es azul y luminosa como a las tres de la tarde
Los pequeños animales se refugian en los colores protectores
Cada ave de rapiña sube por la corriente ascendiente
Pronto llegará la estación de monzón
Que traerá intenso aguacero con truenos de una vez al año
El agua lame la arena lentamente con su pequeña lengua
Y en la punta de la corriente bailará la arena en el agua
Entonces, Julia, nos dejemos caer
Remojemos nuestro cuerpo en la corriente de lodo que nace en un instante
Tú y yo, tomándonos las manos, tumbémonos boca abajo
Nuestras camisas se pegan a la piel
Nuestros cabellos negros se pegan en la frente y en la nuca a manera de cortadura

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

「現代詩手帖」2011年4月号

「現代詩手帖」4月号の特集のひとつはエドゥアール・グリッサン追悼。2月に亡くなったこの偉大な魂をめぐって、恒川邦夫、吉田文憲、今福龍太、工藤晋、中村隆之の各氏がエッセーを寄せています。他にフランス語からの追悼文の翻訳が3本と、グリッサンの詩「黒い塩」の翻訳。

ぼくは「クレオル詩片」と題して、16行詩を6片(これからはこの「片」を使おう)寄稿しました。詩の形式でのグリッサン論です。

昨日の言葉 10

日本語の人生を語ってみると、英語にはないworldが現われてくる。
(リービ英雄)

チェーホフで好きだったのは、ワーニャ伯父さんでも桜の園でもなく、ブリヌイの話である。単数系はブリーンであると書いている人の文章を読んで、ああそうかと初めて気がついた。あの挽き割り小麦の甘さともちもちした弾力のおいしい薄焼きパンケーキを、たった一枚しか食べないなんてことはありえないので、複数形しか知らなかったのだ。
(中村和恵)

ほんとうに私は、どれがほんとうの自分だかわからない。読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、一体どうするだろう。
(太宰治「女生徒」)

Tuesday 29 March 2011

電力会社

巨大技術に関わることは素人には口を出す余地がない......といえばそのとおりかと誰でも思うが、ちがう! 巨大技術の失敗の影響は、誰もが等しく受ける。われわれは、生活に関わるすべてについて、意見を述べる権利があるし、またそうすべきだ。

東京電力の国有化をめぐる議論が立ち上がり、そんな話が政府内で出たとか出ないとかの報道がなされているが、そんな議論自体まるで意味がないだろう。当然、すべての資産を整理した上での国有化以外にない。まずは事態の収拾に全力をつくすべきだ。福島県に与えたあれだけ広範なダメージを考えてくれ。そして会社の意志決定に少しでも関わった役員その他は、責任をとってみずから退職金その他を返上しなさい。あたりまえだ。

というのも、現場で危険を冒して作業を続けている若手の社員のこと、また下請け会社の作業員のみなさんのことを想像するからだ。被曝? 誰だってしたくないに決まっているだろう。それなのに「自分たちがやらなければ」という使命感によって、何の保障もないままに、身を危険にさらして、作業に立ち向かっている人たちがたくさんいる。

そんなあたりまえのことをいまさらいうのは、ぼくの授業に出ていた明治の卒業生にも、自分が強いられる恐怖感と戦いながら「ここで逃げるわけにはいかない」と現場に踏みとどまっているやつらがいるはずだからだ。現場の最前線に。かれらはどうしていることだろう。無事か? 聞く必要もない命令は、聞かなくていいんだよ。といいたいが、それでも誰かに立ち向かってもらわなくてはならない。いったいなんという状況に、われわれはまだ20代のかれらを追い込んでいるのか。まるで戦争のように。いや、すでに戦争そのものだ。さらに正社員よりはるかに悪い条件で事態にむきあっているみなさんのことを思うと......。

電力を大量に使うわれわれのライフ・スタイルは、もう終わりにしよう。暗い町に慣れよう。早寝早起きで太陽の明るさにすがろう。サマー・タイム導入、すぐにやろう。夏場はヒート・アイランドを避けるために、もう都市の舗装を剥がそう。自家用車を捨てよう。生活の体制を全面的に考え直し、落ち着いた、しずかな生き方を探ろう。

そしてそんな生活の将来像の前に、とにかく原発の状況を抑えなくてはならない。プルトニウムの検出で明らかになったとおり、すでに核燃料の溶融と漏出は明らかだ。単に冷却を続けても、根本的な解決にはつながらない。中学生並みの物理の知識しかないぼくでも、それくらいのことはわかる。どれほどの社会的費用がかかろうとも、放射性物質の制御のためには全体をコンクリートで覆うというチェルノブイリ型の解決法しかないだろう。

その上で、原発を全廃し、「明るい」消費社会とは反対の未来をめざすことにしよう。日本列島が、落ち着いた、生命の島に戻ってゆくチャンスは、まだある。

といいつつ、自分がこうした事態に対して何の役にも立っていないことは、認めます。すみません。せめて電力使用を極限まで減らすように、工夫と努力をすることにするか。

卒業生から

明治を6年前に卒業した小林ユーキからの報告がきました。


「宮城県の亘理町というところにお手伝いに行ってきました。
ともかく人手が必要です。今日は16名グループで1軒のお宅の片付けを行いましたが、この人数でも一日かかります。
写真は、一緒に仕事していた地元のおっさんが「是非東京の人に現状を見せてやってくれ」と言ってたので撮ったものです。

堤防が破壊されて、その後ろに見える更地はすべて住宅街だったそうです。
 もし、大学で授業が始まって気持ちがあるやつがいたら是非力を貸してやってくれ、と伝えてください。

亘理町までは、東北道「安達太良」で行きに給油すれば、大抵の車なら往復可能です(現地給油は時間がかかるし、何より地元の人がガソリンを欲しがっている)。
ただ、地元の人は元気に、力強くやってます。「俺らはそんなに悲壮感を持ってねーから。そんなに心配しねーでくれ」って、そのおっさんは言ってました」

てきぱきと、たんたんと、行動する。明治での初期の教え子たちに、いまは教わることばかりです。

Monday 28 March 2011

昨日の言葉 9

シュルレアリスムは建築を等閑に付し、音楽に対しては敵意を含んだ態度をとる。
(ロジェ・カイヨワ、中原好文訳)

何が世界でも例をみないほどの高地での生活を可能にしているのであろうか。
結論を先に言うと、中央アンデスの人びとは動植物を含む自然環境を人間にとって都合よく改変し、寒冷な高地に適した生活の方法を開発したおかげである、とわたしは考えている。
(山本紀夫)

文学の知識は、文学作品や文学についての書物を読むことで得られると思うのは、文学にかかわる人の幻想でもある。新聞を丹念に読むだけでも文学に通じることはできる。
(荒川洋治)

Agend'Ars 17


La frase siempre es completa en sí, por eso
Que esta noche es oscura como la semilla de tamarindo
Ni que fuera de esta ventana es la Península Ibérica del siglo doce
No necesitas saberlo
Más allá de todas las imaginaciones supuestas
La frase prueba por ti la escena
Cuando salga una frase no necesitas preguntar su sentido
Dentro de poco, sin falta
Nace otro flujo
Pronto, lo que esa frase cargaba
Irás entendiendo vagamente
Y entonces llega una más que le sigue
“No tienen que hacerse en nada, ¡vénganse!”
Tendiendo las manos juntas, invita la “reverencia”
Así algunos seres, como si brotaran del viento, se reúnen allí
El peso total de los cien diez millones espíritus ni siquiera alcanza un gramo

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

「プロムナード」第9回

しばらくお休みしていた日本経済新聞「プロムナード」、本日の夕刊から再開です。

3月28日 第9回 「島から島へ」
3月07日 第8回 「カツ・ゴトーのために」
2月28日 第7回 「マリアのマラサーダ」
2月21日 第6回 「太陽のような朝食」
2月14日 第5回 「遠くから訪れる波」
2月07日 第4回 「島々が生まれたところ」
1月31日 第3回 「ピコのためのプカ」
1月24日 第2回 「ペレの髪を拾う」
1月17日 第1回 「バニヤンの並木道を」


古川日出男の炎が

サラヴァ東京での「ことばのポトラック」、終了しました。掛け値無しに、いい集いでした。なかでも焦点となったのは古川日出男さんの朗読。東北の馬たちになりかわった、火の叫び。これを涙なくして聞けるやつがいるか、いたか。ぼくには無理でした。

古川さんは福島県出身、この2週間に伝えられるひとつひとつの地名をすべて実地に知っています。その意味では、きょうの朗読出演者の中で唯一の「当事者」でした。しかし、「当事者」の範囲を限定しないことが、文学の大きな役割。ヒデオの声が伝えるのは人と馬の境界をも越えた、土地のまるごとの生命の叫びと響き、怒りでした。それに感応した聴衆のすべてが、われわれが、その声に立ち会うことによってまさに「当事者」の圏内に巻き込まれていったのだと思います。

言葉は無力です。物理的に無力です、それは石も木々も動かさない。けれどもその無力さが発火させ誘発する行動がある。そしてその行動がどれほどまたさらに無力でも、その無力さをもってしか変わらないことが世界にはある。

企画・進行の大竹昭子さん、サラヴァ東京の潮田あつこさん、ありがとうございました。佐々木幹郎さん、本日の長老(!)としてユーモアをもってみんなをリードしていただきありがとうございました。その他の出演者のみなさん、きょうの声を、それぞれに切実に考えた末の声を、共有できたことは忘れません。そして聴衆として参加していただいたみなさん、みなさんとともに、言葉の無力がはたす逆説的な力をこれからも考えつつ、私たちの社会と生活の火急の課題に少しでも回答を探ってゆきたいと願っています。

東北のために。われわれの生存のために。


(12:30〜1:40)
1.佐々木幹郎「鎮魂歌」

2.くぼたのぞみ「日本語という島で生きのびるための三篇の詩」

3.古川日出男『聖家族』より「馬」

4.東直子・短歌

5.管啓次郎(朗読)「Omninesia」より3編
管啓次郎+Ayuo(朗読とギター)「北と南」より3編
Ayuoのソロ演奏「きみのねむるすがた」 (作詞・作曲Ayuo)
「Drawing Lines by」 ((Poetry by Ayuo)
「Ballad of the Queen Who Died For Love  by Maurice Ravel 」(Words by Roland De Mares, translated by Robert Hess)                


休憩


(2:00 〜3:10)
6. 平田俊子「ゆれるな」「ひ・と・び・と」「うらら」

7.   堀江敏幸『アイロンと朝の詩人』より「「言葉」抜いた大人たち」

8.   南映子「夜行バスは、シワタネホへ」(自作詩)
「トゥスカーニア 7」(ペドロ・セラーノ詩)

9.   間村俊一「うぐいすとなゐ」

10.  小池昌代『コルカタ』より「桜を見に」

11.  佐々木幹郎「明日」(朗読)/かのうよしこ&小沢あき(歌とギター) 
武満徹歌曲「小さな空」「三月のうた」「MI・YO・TA」

Saturday 26 March 2011

昨日の言葉 8

身じろぎせぬこと! 動かぬこと! じっとしていることなのだ。それがわたしの唯一の掟であった。
 (アンリ・ミショー、小海永二訳)

死は支配することなかるべし。
 (ディラン・トマス、松田幸雄訳)

エジプトに行ってくる! その地で私は生まれた。何度も聞かされた話によれば、ある荒れ模様の夜に。それゆえ、私のために、好天は望むべくもない、と観念している。
 (ジュゼッペ・ウンガレッティ、河島英昭訳)

Agend'Ars 16


No debes olvidar el juramento de
Subir algún día a la rígida montaña de sal negra
En cuanto al camino, sólo puedes seguir la instrucción oral
Es imposible llegar errando durante cuarenta días o gracias a la buenaventura
No depende de la voluntad ni de la resistencia física, sino únicamente
De canturrear cierta melodía en cierto lugar y en cierto momento
Cuando la altitud alcanza al nivel en el que se parten los brotes de los árboles
El camino se bifurca, a la montaña y al cielo
Si quieres saber lo que sigue, de antemano
Ve a preguntar a la glacióloga
Ella te enseñará cómo interpretar el diseño de alas de mariposa
Es muy solícita
Y si llegues a desanimarte ante la pendiente
Piensa en aquél que ha caminado allí antes
Es aquel perro perdido, que una vez subió callando por el mismo camino
Hasta la cima rígida, donde aflora la veta de sal negra

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Friday 25 March 2011

昨日の言葉 7

彼の場合、人の顔の知覚は、われわれが窓のそばに坐り、波立っている川波を見ている時に、観察することができる、常に光陰が変化しているものの知覚に近いものになっている。揺れ動いている川波を誰が「覚える」ことができようか?
(A・R・ルリヤ、天野清訳)

ところであんたに貰ったこのタバコ、これは本当はわしの物ではない。諸霊の物なんだ。カミ様方の身代わりにタバコを受け取る、ただそのためにこのわしは、この地上に召されたんだ。
(エルシー・パーソンズ、神徳昭甫訳)

彼は生涯を通じて現役の商人であった。ヒューマニストとしてつねに「甘美な哲学研究」を夢みながら、他方で生地ラグーザ(現ドゥブロヴニク)、ナポリ、フィレンツェ、バルセローナを結ぶイタリアと西地中海の貿易に従事しつづけた。こうしたヒューマニストと商人の二面性がコトルリに、ラテン語と俗語の間で迷い引き裂かれる自己を意識させたのであろう。
(大黒俊二)

Thursday 24 March 2011

買い占めはよせ

ガソリンにしても、牛乳にしても。そして何より、水。買い占めはみっともない。恥ずかしいことです。絶対にやめましょう。それをあなたよりも必要としている人がいるかぎり。

お金さえ出せば、好きなものを好きなだけ買える、買っていい、という思い込みは、現在のようなかたちの資本主義社会の最大の汚点です。お金と物の関係を全面的に考え直す機会が訪れたのかもしれません。

幻の「桜前線」

地震とその後の展開の影響でキャンセルされたイベントのひとつが、これ。

http://www.kaze-net.org/sakura

東京演劇集団・風の日仏共同プロジェクト、「ささやきの詩想レジスタンス・桜前線」です。

ぼくは「さくら」を主題とする詩2つを寄稿しました。日本語で書き、それをフランス語に翻訳し、フランス語版は友人のコリーヌ・カンタンさんに直してもらって万全を期していただけに、ちょっぴり残念。でも必ず、来年の桜の季節には実現されるはずです。

桜の開花とともに北上しつつ、道行く人々に詩を二言語でささやきかけるというその街頭イベント。突発する詩、贈り物。その精神を別のかたちで実現することも考えてゆきたい。

おなじく桜前線に参加するはずだった関口涼子さん、くぼたのぞみさん、清岡智比古さん、ぜひ他の何かもやりましょう。そして「風」のみなさん、来年もよろしくお願いいたします!

Wednesday 23 March 2011

昨日の言葉 6

文盲とか半文盲という表現を厳密に受け取って、それを文字からまったく隔絶された状態と受け取ることはできない。むしろ、彼らがこの言葉を強調するのは、文字の習得という事柄が彼らの人生にとって本質的に重要な、決定的な出来事としての位置を占めているからに他ならないと考えるべきであろう。エブラールはそこに独学者の特徴を見出している。幼い頃からの教育によって自然にそれと気づかないうちに文字になじんだ場合とは異なり、独力で自ら自覚的に文字を習得した場合には、文字の習得は一つの事件として意識される、というのである。しかしおそらくそれだけではない。それは、彼らが自らの生まれ育った社会的境遇を抜け出し、別の人間になっていく過程を画する、重要な出来事としても想起されている。
(森田伸子)

僕は失望の歌を書くつもりはない。朝のオンドリのように、止まり木の上で力強く声高々と鳴き、隣人の目を覚ますことさえできればいい。
(ヘンリー・デヴィッド・ソロー、岩政伸治訳)

自然は、ほんとうは見渡すことができない。私たちは、その内側の流れになってしか生きることができず、そこではいっさいが自分を産み出しながら変化していく。変化して、視えない後ろ側から、予測のつかない向こう側へ向けて何もかもが動き続けていく。自然は、そういう<深さ>としてしか経験されない。
(前田英樹)

Tuesday 22 March 2011

Agend'Ars 15

Los frutos que doy en calidad de árbol son de un solo tipo
Las variadas operaciones no lo son sino en apariencia
Acuérdate del fruto fantasma en el cabo lejano
Que es tan coherente como el huevo de pato silvestre o de gaviota
Bajo la nube creciente de oscura luminosidad, de la tempestad que se levantaba,
Henri, mudo, averiguaba las sombras de los huevos con gran cuidado
La población de aves en este cabo es quince mil
El número total de sus alas es veintinueve mil novecientos ochenta y seis
Los catorce que han perdido un ala
A manera de ronda, caminan por la tierra
Fingiendo que he olvidado la esperanza de ellos, lejanos
Riego, en esta ciudad, plantones tristes todos los días
En esta ciudad, con esta agua, otra vez crecen ligeramente las ramas y las raíces
Las hojas que esta agua y el potasio hacen desarrollar son alas de árbol
Con el tiempo, el árbol, como yo, dará frutos deformes
Frutos sin jugo, sin aroma, que tienen pulpa vacía

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

昨日の言葉 5

ディキンソンが詩(Poetry)と呼ぶのは、おそらく、こういう恐ろしくて心浮き立つもののことだ。どんな火も暖められないほど全身が冷えきるか、あるいは頭のてっぺんが「現実に」(physically)吹き飛ばされたような感覚を味わうか、いずれにしても彼女が詩と判断する基準は、全存在を抹消されてしまうような強烈な痛みとしての感覚だ。
(酒本雅之)

レアリスト、ベーコンは、めったに”自然”とかかわりを持たない。ベーコンの制作活動に自然が関与してくるのは、彼のアトリエにそれこそ山をなしている写真というメディアを通じてでしかない。
(オットー・シュテルツァー、福井+池田訳)

もしも、今まで書かれたアイヌ関係の本の多くが、平仮名または片仮名で書いてあってくれれば、これほど急速にアイヌ語が消えることはなかったと思います。
(萱野茂)

ことばのポトラック

日曜のイベント、ちょっと詳しく。大竹昭子さんからのご案内を掲載します。

みなさま

忘れることのできない春になりました。
まもなく桜が咲くというのに、とても楽しむ気持ちになれないほど、心のなかは深い悲しみと不安におおわれています。
想像以上の災害であるのが判明し、直視することのできないほどの悲しい光景がニュースで流れはじめたとき、ふと思いだしたことがありました。
悲しみのどん底にあった終戦直後の沖縄で、てるりんこと照屋林助さんは村々をまわって漫談をしました。
こんなときにお笑いなんかして、とまゆをひそめる人もいましたが、彼は「生きているお祝いだ」といいながら人々を笑わせてまわったのです。
これまではエピソードのひとつとみなしていたこの話が、今回の災害でリアリティーをもって迫ってきました。
悲しくて漫談なんか聞いていられない人もいたでしょう。苦々しい思いをした人もいたかもしれません。
でも想像を絶する状況下で、人はそれぞれの抱える事情を生きるしかないのです。てるりんにとって「生きているお祝い」の慰問がそれだったのでしょう。

この連休にそんなことをつらつらと考えていて、いま必要なのは情報や状況の説明ではなく、心を強めてくれる凝縮された詩の「ことば」なのだと思いいたりました。
さっそく詩や短歌を書いていらっしゃる方々に連絡したところ、たちまち10数名の方が出演を名乗りでてくださいました。
今週末、3月27日(日)に「ことばのポトラック」を開催いたします。
これは詩人、歌人、作家、歌手の方々が「ことば」をもちよる集いです。
自作詩、翻訳詩、短歌、歌唱など、さまざまなかたちの「ことば」を身に浴びて、心の灯をともしましょう。
会場は、ロベール・ドアノーのイベントをおこなった渋谷の「サラヴァ東京」です。
家でひとりで妄想にかられて不安がるより、いまを生きる力をシェアしあう場を!という願いを込めた<カタリココ>番外編へ、みなさまのご参加をお待ちしています。


「ことばのポトラック」出演者(エントリー順/敬称略)
佐々木幹郎(詩)
管啓次郎(詩)
古川日出男(散文詩)
平田俊子(詩)
東直子(短歌)
くぼたのぞみ(詩)
南映子(詩)
かのうよしこ(歌唱)
Ayuo(弾き語り)
堀江敏幸(詩)
小池昌代(詩)
間村俊一(俳句)


*声の届く範囲のカフェ形式のイベントですので、定員数が限られています。
ご参加いただける方は「サラヴァ東京」に直接ご予約ください。
*詳しい情報については、webカタリココの「これからのカタリココ」をご覧ください。

カタリココ:http://katarikoko.blog40.fc2.com/


2011年3月27日(日)
11:30 開店 12:30イベント開始
参加費: 3000 円(ブランチ・ビュッフェ付き)
*このうち一部を被災地に寄付いたします。
要予約:TEL/FAX 03-6427-8886
contact@saravah.jp
http://www.saravah.jp/tokyo/

大竹 昭子
*新たにweb連載「レンズ通り午前零時」がはじまりました。毎月15日午後零時に更新です。
http://tokinowasuremono.com/
*書評空間も月1,2回のペースでつづけています。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/

Agend'Ars 14


Vivo en la casa del norte y escribo la muerte
Mi amigo vive en la casa del sur y baila la alegría
Para mi amigo, mi trabajo es una distracción mustia, sombría
Desde la puesta del sol hasta el amanecer escribo cada día la muerte
Describo con rigor algunos sucesos que nublaron el mundo
Mi amigo rebosa de amor y por su amor le aman
Yo reúno a menudo los odios de la gente que pudieran formar un bosque de lodo
Pero en la casa del norte, disuelvo la ceniza de manglar en el agua
Y con su tinta amarga, escribo la muerte
Por combinaciones nunca probadas
Considero la línea de interrupción entre las palabras y la vida
Hasta que en el amanecer, que es la resurrección del sol
Los humanos y animales acurrucados exhalen de alivio
Debido a que no utilizo las palabras como palabras, no me comprenden
A mi casa del norte sin amor no llega la claridad
Sólo, algunas pequeñas muertes olvidadas por todos, las escribo aquí

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

27日はサラヴァ東京に!

「ことばのポトラック」。それは大竹昭子さんの呼びかけで急遽開催が決まった詩のイベント。

http://katarikoko.blog40.fc2.com/blog-category-0.html

次の日曜日の午後はぜひサラヴァ東京に集まってください。東急文化村のすぐそばです。

Monday 21 March 2011

昨日の言葉 4

技術の発展につれて、
逆に社会の運営には手がかかるようになっている。
広範な自動化の時代にあって、
自動的に機能するものは何一つなくなっているのだ。
(エリック・ホッファー、中本義彦訳)

日本の陽明学の学徒たち、佐久間象山、勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作らの写真好きなのは、どういう理由だろう。彼らが、現在でも人気があるのは、本人たちの大業ばかりでなく、魔術的な機械、写真機によって写された肖像写真が残された、ということと無関係ではないような気がする。
(椎根和)

呪術には矛盾がある。
効果、力があらわれるという前提がなければ成り立たない。少なくともそれが示現する、した、と人々に思われることがなければならぬ。しかし同時にそれが必ずあらわれるのでは、やはりいけないのである。
(岡本太郎)

とにかく、歩くこと(石川直樹)

「とにかく、歩くこと。自動車が通行止めになっている道も多いし、ガソリン不足ということもあって、地元の人は吹雪の中で自転車をこいだり、徒歩で移動したりしている。雨に打たれながら、雪に足をとられながら、砂塵に巻かれながら、荒野と化した被災地を歩いていると、あらゆる感情がこみあげてくる。歩くことによって、何をすべきかおのずとわかってくる」


南極から帰国して、翌日が地震、その翌日には被災地に入り現地のようすをつぶさに見ている石川直樹さんの「For Everest」での報告から、3月17日の記述。テレビや新聞ばかりでは頭がへんになるので、マスメディアがけっして見ないものを伝えてくれる彼の声がありがたい。必読です。


http://www.littlemore.co.jp/foreverest/

Agend'Ars 13


Todo crece, todo asciende
Lo que fue arrojado en la llamarada en este mundo pérfido también
Vuelve a crecer, vuelve a ascender
Las letras, como las hierbas, imitan su movimiento
Lo que se distribuye con la mejor equidad en este mundo
Es la “fugacidad”, qué escándalo tan grave es esto
En Teherán de sueño, en Kandahar de sueño
Los árboles de la llamarada crecen y ascienden en las cosas
“animales antiguos”, “emperador” o “labrador”, ya no podemos escribir tales palabras
Pero yo reclamo presenciar, percibir, e indicar con el dedo ese movimiento
Todo crece, todo asciende
En este plano abstracto, los pies nunca podrán bailar
En este plano limitativo del “Ser”
Pero mira, el plano se ablanda, se tuerce
Y empieza a gotear hacia el cielo, como la superficie burbujeante del lago
Ahora, todo crece, todo asciende

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

『哲学への権利』の5冊

西山雄二『哲学への権利』(勁草書房)の刊行記念ブックフェアが各地で開催されていますが、その小冊子「思考と抵抗の力を手放さないために 人文学の担い手14人が選ぶ128冊」のためにぼくが選んだ5冊は以下のとおりでした。遅ればせながら、短いコメントつきでここにも掲載しておきます。小冊子は開催書店で配布しているはずです。


『哲学への権利』関連ブックリスト

ヘンリー・デヴィッド・ソロー
『森の生活 ウォールデン』
飯田実訳、岩波文庫

生活の全般的見直しにつながらない哲学は単なるおしゃべりにすぎない。都市環境の専制を逃れて森に行くのは苛酷な道だ。しかしその実践にも偉大な先行者がいる。ヒトの種社会を、国家を、相対化する指針。

ジル・ドゥルーズ
『記号と事件 1972-1990年の対話』
宮林寛訳、河出文庫

哲学知らずのぼくに何がいえるわけでもないが、「一体あなたはなぜそんなことを考えるのか」という驚きを人に与えるのが哲学者たちの大きな役目だとすれば、彼の右に出る者はいない。翻訳がすばらしい。

イヴァン・イリイチ
『生きる希望』
臼井隆一郎訳、藤原書店

われわれが生きる「世界化された世界」のあらゆるシステムを根源的に批判しつづけたこの故郷喪失者の思想の大きさと急進性は、ヨーロッパに自足するあらゆる哲学を笑い飛ばすだろう。忘れてはいけない足跡だ。

アルフォンソ・リンギス
『信頼』
岩本正恵訳、青土社

どこへでも行く、ひとりで行く、そして考える、読む、写真を撮る。そうしながらみずからをさらしてゆく。レヴィナス、メルロ=ポンティ、バタイユらを沈黙の対話相手としながら。これが哲学者の旅なのか。

エリック・ホッファー
『エリック・ホッファー自伝』
中本義彦訳、作品社

われわれの思想的弱さは「学校に通ったから考えるようになった者」の弱さだ。仕事と放浪により考えることへと追い込まれていった者の思想には、まったく別の手触りが生じる。しかも彼は一時期盲目だった!


昨日の言葉 3

実はそのころ知った月輪観(がちりんかん)という密教の瞑想法があって、月の曼陀羅のような絵を目の前に置いて、その月を胸に入れてふくらませるという瞑想法なんですね。それが非常に新鮮なアイディアで、そういうことがあるっていうことに興奮したんです。
(細野晴臣)

しかし読書生活が、「夜」に追いこまれることによって、彼女は「本を読む幸福」を一段と身にしみて感じられるようになったともいえるだろう。それだけでなく、なにごとにつけ「嫌なことにも耐えられる」力を身につけたともいえる。
(草森紳一)

エベレストもラパリクも美しく、盲人達にこの映像は見えないのだけれど、彼らはまったく違う感触でもって、彼らだけの美しく恐ろしい山を登ったのだと教えてくれた映画でした。
(吉野朔実)

すべての本が何かを教えてくれる

大学に入ったころ読んだ堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』に、本のどのページを開いても何かひとつはいいことが書いてある、といった表現があった。それはほんとうだ。どこかに、考えさせる何かがある。まあ、何もないページもあるけれど、それはそういう本を手にとるのが悪い。

それで、できれば毎日3冊の本それぞれのどこかのページのひとことを紹介したいとも思うんだけれど、それをいざやるには時間がかかりすぎる。気が向いたときだけやりますから、お楽しみに。3冊から、ひとことずつ。忘れてもいい。「昨日の言葉」というシリーズがそれです。

「昨日」というのは、本のかたちをとっている言葉は必ず昨日以前に書かれたものだから。そしてそれが、引用という浮遊状態に置き直されることで、明日につながってゆくから。

しかも! 意地悪のつもりはないけれど、書名は伏せます。著者名は記します。どの本のどのページにあるかは、自分で探してみてください。そんなにむずかしい話ではない。

昨日の言葉 2

沈黙はすべてを可能にする。
沈黙は呪術的なものではない。
それは動物的であり、植物的であり、元素的なものだ。
それは大地に根ざしている。
沈黙は、脅迫を消し、呪いを解く。
(J・M・G・ルクレジオ、高山鉄男訳)

この読書はわたしにとって濾過紙のようなものでした。
というのは、この本は読まれたというよりは、飲まれたからです。
(ポール・ヴァレリー、『グアテマラ伝説集』に寄せた書簡、牛島信明訳)

現在”南部訛り”とか”ニグロ・スピーチ”と呼ばれるものは、かつて見知らぬ新しい言葉を喋ろうとした外国人のアクセントにほかならない。
(リロイ・ジョーンズ、飯野友幸訳)

葉珈琲

ぜんぜん知らなかったが、珈琲のふるさとエチオピアではコーヒー豆を焙煎して飲むのではなく、その青葉を飲むそうだ。

「朝取りのコーヒー青葉は、小さな臼と杵で突き潰す。広口の土器の壷に沸かした湯のなかで煮立てると、そこにショウガ、ニンニク、ミント、レモングラス、塩、そしてトウガラシ(多くは小さなミトゥミタが使われる)を加えていく。数分待ってから、乾燥したヤムの蔓を丸めて土器の口に詰め、ゆっくりと漉しながら、熱い緑の液体を小さな陶器のカップに注げば、できあがりである」
(重田眞義「エチオピアの赤いトウガラシ」in山本紀夫編著『トウガラシ讃歌』八坂書房)

これは飲んでみたい。

Sunday 20 March 2011

昨日の言葉

パステルナークは、つまり浪費である。
光の流出だ。
光の無尽蔵の流出だ。
(マリーナ・ツヴェターエワ、工藤正広訳)

だれかがかつて存在し、今はもういない。
その存在をぼくは証言する。
愛されつつ存在した、と。
だれもが同じ運命に脅かされている。
(ミシェル・ドゥギー、梅木達郎訳)

船と葬送とには浅からぬ因縁があったわけで、
かつては棺もフネまたはノリフネと呼ばれ、
葬儀の世話役を船人(フナウド)と呼ぶ地方さえあった。
(西郷信綱)

Friday 18 March 2011

残念ながら

26日(土)の卒業式、学位記授与式は中止と決まりました。

もっとも、セレモニーがなくても卒業の価値が減じるわけではない。卒業生のみんなには、心からおめでとうといいたいと思います(なぜか下のエントリーとほとんどおなじ文になってしまいました)。

社会が不安にみちている時代こそ、どんな状況でも慌てず、明るく落ち着いた行動をとりたいものですね。明治ですから!

そして月が変われば新入生を迎えます。こうして大学という川は学生たちが入れ替わって行きますが、その流れは続きます。

思いきり勉強してください。この川の河口から海に出てゆくみんなも、たまにはのんびり帰ってきてください。

Thursday 17 March 2011

おめでとう、石川くん!

きょう16日、本当は石川直樹さんの土門拳賞授賞式があるはずでした。いうまでもなく快作『CORONA』が対象ですが、それ以外にも旅と生き方と写真と文章が完全に手をたずさえて進む彼のこれまでの活躍からして、当然の受賞でしょう。

残念ながら地震後の状況により式はキャンセルされましたが、セレモニーがなくてもその価値はまったく変わりません。このあいだまで南極にいた彼、ヒューストンを経て、こんどはエベレスト。地球大の旅の気負いのない持続に感嘆しつつ、心からおめでとうといいたいと思います。

来週、佐川光晴くんの坪田譲治文学賞の授賞式もキャンセルが決まったようです。こちらも残念だけど、改めておめでとう。

それ以外にもどんどん予定がキャンセルされて、奇妙に落ち着かない日々。こんなときこそセネカを読め、というのが、学生時代からの友人である赤間啓之くんの忠告でした。

Wednesday 16 March 2011

Macy Gray と高見順

両者はまったく無関係。先日、ふとメイシー・グレイをひっぱりだして以来、毎日のように聴いてます。声。ある声は、なぜか異様な魅力をもって聴こえる。気分がざわざわしているとき、彼女の声くらい落ち着かせてくれる声はない。と思っていたら、先月来日してたんだって? まったく知らなかった。残念です。

そして高見順は『敗戦日記』をあちこち拾い読み。敗戦の年の2、3月、行き場のない暗さの中で、作家が何を鬱々と思っていたか。

なんの参考にもならないけれど、なぜかある種の勇気につながってくる。

文学も音楽も、こんなふうにして現実に人を力づけてくれます。ありがとう、歌、言葉。

本が

たとえば紙問屋さんとか印刷工場とかが宮城県には結構あって、その影響が直接に出て、しばらくのあいだ出版活動には大きな支障が生じるようです。印刷屋さんによっては従業員の9割が行方不明とか。言葉を失います。祈る対象も知らないぼくですが、みなさん、どうかご無事でありますように。

本は人が生きてそうしようと思うかぎり、必ずいつかまた出せます。手書きの写本だっていい。まずはノートのきれはしに書かれた文字の回覧だっていい。

各地の避難所で過ごすみなさんのために、この寒さをどうにかしたいけれど。今夜の月に祈ります。

Tuesday 15 March 2011

Agend'Ars 12


El seco viento de enero llega del norte y dispersa la ceniza del hombre flaco
O en la gran ciudad del país insular o en el lecho de un río altiplanicie, el humo siempre se dirige al cielo
Antes, el maestro nos leyó Maldolor en la sala de clase
Desde entonces me hice aprendiz de poesía
Pero ni siquiera me fue fácil llegar a la entrada de la poética
Él, el jefe del monasterio tampoco entendía la poesía
Para comenzar, ce qu’étant ce que n’est
¿Cómo se pudo traducirlo, maestro?
that which being what is not, ¿qué te parece? me dijo
La hija del la tienda de alimentos coreanos en Brooklyn
Que ahora enseña en el mejor Law School de Estados Unidos
Jinny, ¿un día volverás a tocar el piano?
Mujer joven, te alejaste de la literatura tras dar dos rodeos a través del Océano
Cuando toques, con una sola nota
Interpreta el réquiem para aquel erudito de Galia, por favor.

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Monday 14 March 2011

温かく暗い夜

電車が運休なので1時間弱歩いて職場へ。徒歩圏内居住の同僚たちと、みんなが一緒に使う辞書事典類を並べた「資料室」をざっと片付ける。それから臨時会議。学生に「できるだけ登校しないように」呼びかけているため、お正月のように閑散としている。われわれのフロアの階段の付け根が割れている。結構なねじれの力が加わったのだろう。

夜になると、非停電地域でもいつもより暗く、いつもより静かだ。各種の店も閉店だったり、早じまいしたところが多い。小中学校は休校だった。夜も温かい。

東北の復旧を支援しよう。

「リア」25号

名古屋の芸術批評誌「リア」Rearに昨年5月から6月にかけて中京大学アートギャラリーCスクエアで開催された港千尋展「レヴィ=ストロースの庭」の展評を書きました。

このときの港くんとの対談も、近いうちに活字になりますので乞うご期待。

Agend'Ars 11


El ente de la figura haniwa corre riendo por el campo
Contrataré con él en silencio
Para utilizar esta maleza como refugio
Como él, por lo menos durante dos mil años
Quedarme enterrado y escondido, no sería mal
Cuando salga, quiero explicar el mundo
Seguir las curvas de nivel de la luz e interpretar el diseño de alas de mariposa.
Aunque no entiendo el triángulo de Pascal,
Podría sondar, por medio de frottage de colora,
Las rayas de la ciudad y sus capas antiguas,
La ciudad antes de la ciudad, la población, la soledad.
“Pero”, interroga Giorgio, considerado,
“¿Si este campo se hunde en el mar?
Convertido en la figura de terracota, no podrías emerger nunca más.”
En este caso, como la suave concha rosada
Pulido por las olas, llevado por las olas, en el fondo de las olas, jugaré desgastándome.

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Agend'Ars 10


Es la revolución de estofado de pescado
Cambiemos totalmente nuestro vivir.
Sólo por las lecturas se inicia la escritura
Literatura hecha de tal manera, no la queremos.
Partir de una tierra para emigrar a otra
No es suficiente, falta que la vida reflexione profundamente.
Con sólo las dicciones negativas, no podemos invocar colores
No crecen perros ni pájaros, tampoco florecen los cactus, por eso
Primero sin lápiz, ponte a imaginar el contorno
Es la que emana fragancia en una tibia noche
La pulpa estrujada de feijoa.
Todas las mañanas emprenden una pequeña navegación y en las noches miran las estrellas
El sentido de vista de los pescadores de aquella isla del Océano.
Pero mi vida es la del ermitaño que cría abejas
Y la única ascesis de mutismo/ verborragia continúa día tras día.
He aprendido nada más que el no hacer nada.

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Sunday 13 March 2011

お詫び(翻訳論研究会)

日ごろは1年に通算24時間もテレビを見ないぼくですが、昨日からはつけっぱなし。東北一帯のあまりの惨状に頭が痺れたようになっています。このお正月はハワイ島ヒロにいました。ヒロは過去2回、津波により壊滅した町ですが、今回の東北一円の被害面積はその数百倍でしょう。今夜もまだ各地で点々と孤立した夜を過ごしておられる被災者の方々の無事を祈ります。

じつはきょう12日、本当は大阪大学に行くはずでした。日本記号学会研究プロジェクト翻訳論研究会「翻訳の記号論」のため。立教大学の小山亘さんとぼくがそれぞれ話し、あとはみなさんとのディスカッションに移る予定でした。

しかし昨日午後の地震後の状況を見て、けさ7時まで迷っていたのですが、結局、大阪行きはキャンセルさせてもらいました。申し訳ありません。丁寧に準備にとりくんでいただいた山森さんには、お詫びの言葉もありません。

首都圏の交通機関は本数減、減速運転とはいってもまずまず正常化しているし東海道新幹線も動いているようなので行って行けないことはなかったのですが、昨日も深夜過ぎまでバタバタしていて落ち着かず。余震がつづく中、今回だけはとりやめました。公的な場での話をキャンセルしたのは初めて。最後にしたいと思います。

研究室にむちゃくちゃに散乱する本をなんとか片付けましたが、同僚たちと共用で使っている資料室までは手が回らず。重い事典類やシリーズものがほとんど落ちて積み重なっています。月曜にやるしかない。

また猿楽町校舎の演習室・研究室は校舎自体がひどく古いし、どうなったことか。

KENでの西江先生と寒川明子さんのイベントも中止になったようだし、大学関係のすべての催しは中止、書店などでのあれこれもたぶん東京ではすべて中止でしょう。

といっても、東京の被害などまったくなんでもありません。イベントはまたいつでもやれます。ともかくいまは東北の被災地へのすみやかな救援を願うばかりです。

Friday 11 March 2011

無事を祈ります

きょうは生田の研究室にいたら、いきなり地震。いつになく長いので廊下に出ると、いよいよ揺れが激しくなる。ラウンジ用のテーブルの下に潜りこむが、椅子が流れるように動いてゆく。少し揺れが弱くなったとき、近くにいた数名に声をかけ、一気に階段を駆け下りて外へ。途中、階段の非常扉が閉まりかかっていたり、壁の一部(?)が落ちていたり。

外に出てしっかり根を張った大きな樹木のそばにゆくと一安心だが、校舎がぐらぐらと冗談みたいに揺れている。隣の梅の木では花がいちめんに揺れている。みんなが外に出て、騒然。それからも余震が続く。

ともかくある程度おさまったところで研究室に戻った。これはひどい。本が思いきり散乱。棚から飛び出したというほどではないが、いい加減に積んであったものはすべて崩壊。建築模型や書類も。床は足の踏み場がない。コンピュータが床の上に。さいわい無傷。

同僚には実験機械が倒れて壊れた人もいて、理工学部としての損害総額は相当なものだと思われる。設備の破壊だけでなく、実験途中のデータが失われたり。

電話が通じないし、電車は停まっているので、1時間ほど歩いて帰宅。こういうときにものんびり犬の散歩をしているおじいさんがいるのがおもしろい。

それから夜にかけて、事態の大きさが報道により徐々にわかってきた。私鉄が泊まっているので駅前のマックとミスタードーナツが満員。所在なく立っている人、多数。タクシー乗り場は6、70人の列。車が出払っているので、5分に1台も来ない。ということは、5時間待ちか。

津波の映像、火災の映像、ぞっとする。東北各地で被害に遭われた方、いまこの瞬間も避難しておられる方に、心からお見舞い申し上げます。

都内の友人たちも、帰宅できなかったり、室内がめちゃくちゃになったりした人は多いと思う。とにかく夜明けまで、がんばって。また書店では本が棚から落ちて大変だと思います。明日以後、後片付けをがんばりましょう。

Thursday 10 March 2011

私は原始人

先日の中原中也賞の選考委員会による選評が読めるようになっていました。以下、引用します。今後はさらに人間世界から遠ざかり、動植物や鉱物が書く詩に近づいていきたいと思います。

「最終候補の7冊のうち、最後に残ったのは、ほぼ3冊だった。それは高谷和幸『ヴェジタブル・パーティ』、管啓次郎『Agend’Arsアジャンダルス』、そして、辺見庸『生首』である。高谷の詩集は、詩でしか可能にならないことばの連想やずれ、多義性、高度なユーモアが評価されたが、同時に、わたしたちの生きている世界への通路が見えないことが、不満として出された。また、管の詩集も、太古から人や動物や植物、光や風が現れてくる世界の起源に働いているエレメントを、いま、甦らそうとする壮大な展望が評価されたが、フレッシュな感覚を求める中也賞としては、保留せざるをえなかった。最後に辺見の詩集が、選考委員の支持を集めたのは、わたしたちが生きている世界のいまとここに、全存在をかけていることばの強度が並はずれていることだった。彼の詩には現代社会の腐敗し、機能不全に陥っている内臓が、鷲掴みされている臨場感がある。これまで作家、ジャーナリスト、エッセイストとして実績のある人が、詩の世界に新人として飛び込んでこられた。その意味を、わたしたちは重く受けとめたい、ということでも、選考委員の気持ちは一致した。」


http://www.chuyakan.jp/09syou/16/09main16.html

Tuesday 8 March 2011

「プロムナード」第8回

日本経済新聞夕刊、3月7日に第8回が掲載されました。

3月07日 第8回 「カツ・ゴトーのために」
2月28日 第7回 「マリアのマラサーダ」
2月21日 第6回 「太陽のような朝食」
2月14日 第5回 「遠くから訪れる波」
2月07日 第4回 「島々が生まれたところ」
1月31日 第3回 「ピコのためのプカ」
1月24日 第2回 「ペレの髪を拾う」
1月17日 第1回 「バニヤンの並木道を」


Agend'Ars 9


Mi abuelo trabajaba en salinas
En las pajas que recubren el suelo, echar el agua del mar
Para que el agua se evapore por el sol, dejando los cristales blancos
Quemar las pajas, y hacer hervir la sopa de su ceniza
Hasta que quede el terrón de la sal, la gris, la ensuciada sal
Que ya tiene el valor del cambio
Mi abuela buceaba en el golfo verde y rosa
Para recoger langostas, era Ama, buceadora de pesca
El más bello es el sol que ves a través de la lente
Del agua del mar, del color esmeralda, decía ella,
(No con estas palabras, es mi traducción)
Después del trabajo, el cansancio era tanto que ni podía mover las piernas
Y recibía remuneración que le permitía comprar arroz y escasas ropas
Aunque heredo su sangre, soy un mero escribano
Hoy también rocío las sales de letras
Y mañana, recojo las almejas de letras

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Friday 4 March 2011

Agend'Ars 8


Para una tribu de Amazona el futuro está detrás de sí mismo.
Para ellos, el pasado está delante de sí,
Y dicen que ahí se ve con nitidez lo que él mismo ha actuado antes.
Para mí, el yo y todos los yos del pasado
Formamos una fila horizontal y avanzamos de la mano,
En este llano en llama, hacia el precipicio.
Nosotros, a los que llamo yo, qué desesperados lemmings somos.
Yo, mi ignorancia y los yos, somos una furiosa manada sin corazón
Sin que nadie nos guíe
Sin que nadie nos guíe
Sin temer el acantilado de Dover a donde se lanzó aquel invidente viejo
Avanzamos entregadamente, de espaldas.
(Lo que queda en los oídos, son aquellos sonidos de Milford Sound
El derrumbamiento en el extremo sur a donde llega el glaciar
Donde manaba en abundancia el agua fresca en grandes profundidades marinas
Para dar la vida desmedida, al mundo reinado por un profundo silencio, simplemente.

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Thursday 3 March 2011

冬の森

ところで現在使っているトップの写真は、札幌のモエレ沼公園での夜の森。雪明かりだけで撮りました。もうじきまたトロピカルな風景に。

「水牛のように」3月号

「水牛のように」、更新されました。

http://www.suigyu.com/sg1103.html

ぼくの「犬狼詩集」も26まで来ました。LIFEの徴のもと、まだまだ続きます。

Tuesday 1 March 2011

土曜日の報告

土曜日のビブリオテックでの対話の西山雄二さんによる報告が『哲学への権利』ホームページに掲載されました。

http://rightphilo.blog112.fc2.com/blog-entry-177.html

録音し、聞き直し、話をまとめ、報告する。それをすべての回について行う。できることではありません。この一連の上映活動そのものが、彼の途方もない作品です。

西山さん、ありがとうございました!

Agend'Ars 7


Aunque las cuerdas vocales son órganos articulatorios,
El silencio no se emite por la boca.
Si estar vivo es la condición para emitir la voz,
Emitir el silencio es el privilegio de la lápida sepulcral.
Pero a nosotros, se oye el silencio a manera de voces.
“Es cobarde el modo de vivir de ustedes”, se oye la voz de Leconte de Lisle.
De momento, olvidemos el murmullo interestelar y su materia oscura
Para apreciar esta corriente constante de la lava.
El potro recién nacido inhala su primer aire, y por su frescura
La estación serena que colma la casa serena,
Como el aire que baña la costa del mar, lanza un chillido ligero.
El doloroso amanecer por fin pasa,
Y ahora sólo en la copa, la nueva luz del sol se posa.
Viéndola, casi se me olvida, otra vez, cómo emitir la voz.
(Recupera el nudo entre los oídos y las cuerdas vocales.
Se sienten enemigos los oídos y las cuerdas vocales.)

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)