文盲とか半文盲という表現を厳密に受け取って、それを文字からまったく隔絶された状態と受け取ることはできない。むしろ、彼らがこの言葉を強調するのは、文字の習得という事柄が彼らの人生にとって本質的に重要な、決定的な出来事としての位置を占めているからに他ならないと考えるべきであろう。エブラールはそこに独学者の特徴を見出している。幼い頃からの教育によって自然にそれと気づかないうちに文字になじんだ場合とは異なり、独力で自ら自覚的に文字を習得した場合には、文字の習得は一つの事件として意識される、というのである。しかしおそらくそれだけではない。それは、彼らが自らの生まれ育った社会的境遇を抜け出し、別の人間になっていく過程を画する、重要な出来事としても想起されている。
(森田伸子)
僕は失望の歌を書くつもりはない。朝のオンドリのように、止まり木の上で力強く声高々と鳴き、隣人の目を覚ますことさえできればいい。
(ヘンリー・デヴィッド・ソロー、岩政伸治訳)
自然は、ほんとうは見渡すことができない。私たちは、その内側の流れになってしか生きることができず、そこではいっさいが自分を産み出しながら変化していく。変化して、視えない後ろ側から、予測のつかない向こう側へ向けて何もかもが動き続けていく。自然は、そういう<深さ>としてしか経験されない。
(前田英樹)