よく知っているつもりの本でも、いい本は手に取るたび何らかの発見がある。
というか、そのつど自分が行き当たっている問題と同期しないかぎり、本当はどれだけ何を読んでも何にもわからないまま過ぎているのだろう。
このところ、旅行記の書き方についてかなり深刻に考えざるをえなかったので、ミシェル・レリスの短い文章のこんな一節に再会し、ほんとにそうだと思った。
以下、引用。
或る地方の本質的特徴をあらわすためには、詩と、行き当たりばったりのような語り口と、自然主義的な意図のない、全く自由なデッサンのほうが、旅行記の専門家たちの大方に共通する描写的な方法より明らかに有効だ。旅行記はたしかに魅力的な分野にはちがいないが、その外からの見方という性格(人々のえてして陥りやすい話の歪曲は論外として)ゆえに、多くの場合、人をあざむくものとなるのである。(岡谷公二編訳『デュシャン ミロ マッソン ラム』)
その流れで、『植草甚一日記』を読んでいると、その手書きの文字のあまりの見事さに、70年代半ばの高校生のころとおなじく感動。植草さんの行き当たりばったりなニューヨーク日記ほど、驚くべき喚起力をもった記述は少ない。
その流れで、ポール・ストランドの写真集を見ていると、これがまたじつにいい。彼の撮ったイタリア人やメキシコ人は、すべてこの世のものとは思えない存在たちだ(まあ、写っている人々は確実にすべて全員死者となっているだろうが、そういうことじゃなくて)。そして人物だけでなく、植物の魅力もまた見る目に刺さってくる。
と、こんな風に充実した時を過ごしているかぎり、たったいま書くべき原稿がまったくできあがらないのはどういうことだろう。
4月1日は、われわれのお正月。あけましておめでとう。今年度こそ、想像もつかないほどすごい年にしたいものだ。そのためには、まず、修士2年になった宇野澤くんとパコに、画期的な修士論文を仕上げてもらわなくては。そして修士1年に入ってきた、于さん、黄さん、佐藤くん、原くんには、これまでの自分とは手を切って、大変貌をはたす一年にしてもらいたい。