写真は氾濫している。でも写真と一口にいっても、それが存在している場所はかなりちがう。
少なくとも写真を見る経験において、次の三つは区別しなくてはならないだろう。写真家の田中長徳さんの区分(『カメラは知的な遊びなのだ。』アスキー新書)によると
(1)オンラインで見られる画像
(2)印刷媒体
(3)生プリント
これらを見るとき、われわれは頭の中でははっきり区別している、と田中さんはいう。そのとおりだろう。はじめから、別の審美的な心構えをもって見ている。
印刷媒体でも、上質紙を使ったグラフィックな雑誌と新聞ではぜんぜん印刷の質がちがう。かといって、新聞写真がつまらないということもない(日本の新聞写真はほとんどが死ぬほどつまらないが、英語圏では学生新聞だって写真を単なる「情報の絵解き」として見たりはしない)。
それでも、生プリントはまったくちがう。田中さんはいう。「銀塩プリントっていうのは実は今僕らの時代の雑多にある映像の中で、最も集中力を要する、見ることに対して集中力を要する視神経の刺激の方式だと思う」と。これも同感。印刷されたものとは、色も印象もたたずまいも、すべてが異なる。凝縮された美しさがある。その場に現れる。そしてプリントの制作過程では、微妙な判断力のものすごい積み重ねが要求される(のだろうと思う)。
きょうは雑誌「風の旅人」の編集部で、編集長の佐伯さんから、新正卓さんがピンホール・カメラで撮影した桜のオリジナル・プリントを見せてもらった。さすがに、電撃的な力がある。発売されたばかりの同誌31号では冒頭に津軽の写真家・小島一郎の作品が特集されているが、「小島のトランプ」と呼ばれる写真家の名刺判のオリジナル・プリントを青森県立美術館で見たときの衝撃を思い出した。雑誌で見ても、もちろんすごい写真ばかりだ。だが、それでもやはり、あのときの「小島のトランプ」にはかなわない。
といったことを漠然と考えつつ、通りすがりに夜桜を撮影しながら帰宅。写真とはまったく不思議な技術だ。