昨日、22日の英文学会関西支部での発表から、冒頭のみ記します。まだまだ練り上げが必要ですが、ともあれ、端緒の段階の、報告まで。
一般的な話からはじめたいと思います。恐らく多くの人がそうではないかと思うのですが、ぼくもはたしてどう定義すればいいのかわからないままに、「コスモポリタニズム」という名称をごくおおざっぱな了解のまま使ってきました。そのとき、自分がイメージしているコスモポリタニズムの内容は何なのか。コスモポリタニズムという考え方と態度と行動を現代において成立させる原則は何なのか。その点をいくつか、改めて考えてみました。ここではまず、こうした一般的な話をした上で、20世紀後半以後に活躍した作家たちの中から、地球規模の移動を生き方と創作の基礎におく二人(ともに1940年生まれの、イギリスのブルース・チャトウィンとフランスのジャン=マリ=ギュスターヴ・ル・クレジオ)を選び、簡単なコメントを加えることにします。
まず、5つの原則をあげてみます。これでコスモポリタニズムというひとつの「主義」の根底にあるすべてを網羅しているとは思いませんが、目立った点はいちおう押さえられるのではないかと思います。お手元にあるハンドアウトに記したのがそれです。
1 ナショナルな所属を優先させない
2 ノマディズムの積極的な実践
3 多言語使用、トランスリングァリズム
4 ヨーロッパ嫌悪、あるいはヨーロッパが主導し築き上げてきたモダニティに対する批判
5 寛容という自己契約、それを支える非暴力主義
これを順次見てゆきましょう。
第1の「ナショナルな所属を優先させない」というのは、コスモポリタニズムの根源的な約束ごとです。ナショナルな所属が自分に強いる行動に、人間一般についての自分の倫理観に抵触する部分がある場合には、ためらいなくこの「人間」という一般性を優先させる。アンドレ・ブルトンの若いころの友人でブルトンによってシュルレアリスムの創始者とまで呼ばれたジャック・ヴァシェが、結局死ぬことになる戦場から送った手紙の中に、こんな有名な言葉があります。”Rien ne vous tue un homme comme d’être obligé de représenter un pays.” (ひとつの国を代表させられるほどうんざりさせられることはない。)シュルレアリスムという国際的芸術運動をコスモポリタニズムのひとつの発現とみるとき、その背後にあったのが第一次大戦の恐るべき破壊と無意味に対する激しい怒りと拒絶であり、ナショナルな強制力が個人を使い捨て押しつぶすことに対する強い反発だったことは疑えないと思います。あるいはファシズムとそのさまざまなヴァリエーションの場合。ごく一部の集団に対する所属が自分の生死を左右するのみならず、たとえば自分が他人を殺すことを強いるとき、その事態を避けるためにまずしなくてはならないのは「所属」の対象ないしは範囲を決め直すことです。たとえその所属が、いずれにせよ想像的な契約にすぎないものであったとしても、ネーションという想像の共同体よりは、全地球的なヒトの共同体、さらにはゲイリー・スナイダーのような詩人がいう「惑星的・生態学的なコスモポリタニズム」に加担することを選ぶ。そしてこれは別にどちらを選んでもいいという趣味の問題ではなく、まさに自分自身の生存が賭けられた論点として、ナショナルなものからの離脱を積極的に選ぶ。それはあらゆるかたちのコスモポリタニズムのはじまりにあるものでしょう。
第2の「ノマディズムの積極的な実践」とは、これも直接に生き方の問題です。ナショナルな管理や移動の制限がじつは国民国家の発明だということは、いまではよく意識されるようになったことだと思います。人類史の全体を見わたすなら、むしろ人は動くのがあたりまえだった。定住し、既得権や財産を維持することを第一とする姿勢に入ったのは、ごく例外的なできごとだと考えたほうがいい。ナショナルなものからの離脱を大きな目的とする人がいるとしたら、その人にとっては移動が大きな鍵を握る。もっとも現状ではどこにゆこうといずれかのナショナルな支配圏を逃れることはできず、対外的にはナショナルな身分証明を容易に捨てることができないのですから、要は「外国人」としての生活を探るしかない。「選ぶのか」「強いられているのか」、経済的理由なのか政治的理由なのかを問わず、そのような生き方をしている人の数はいまも激増しています。
第3の「多言語使用」は「ノマディズム」に深く関わっています。世界のどんな小さな区画をとっても、じつは単一言語の支配圏であるところのほうが少ないのかもしれない。仮に見かけ上、一言語が支配を確立しているように見える地域でさえ、その言語だけでは浮上してこない情報がたくさん水面下に潜んでいるのかもしれない。そして誰にとっても、外国語を介してしか関係を打ち立てられない相手のほうが、この地球上では比べものにならないほど多い。あたりまえのことですが、外国語使用者たちとの生活圏が重なってくればくるほど、どれほど不十分ではあっても外国語の中で関係を作ってゆくことは、単なる実用性を超えて倫理的要請となります。
第4の「ヨーロッパ嫌悪」とは、つまりは大航海時代以後の過去500年にわたってヨーロッパが作り上げてきた単一の世界システム、世界市場の経済、近代世界資本主義の体制、そのシステムを担うローカルな主体としての国民国家、そこで共有化されるライフスタイルやその背後にある抑圧などに対する批判の気持ちです。「コスモポリタニズム」というとき、両大戦間的なイメージで語るときには、世界システムの肯定の上に立って、自由に使える資産に守られて外国で暮らす、華麗で安逸なひとつのライフスタイルをさすことが普通だったのかもしれません。けれどもその影で、われわれが問題にしているコスモポリタニズムはそれとはちがいます。世界システムとローカルな支配という二重構造の、いずれからも外に出ていきたい、現実にはたせるかどうかはわからないけれども、その閉ざされた限界からの脱出をはたしたいという欲望を、いかに実現してゆくか。それを課題としてきた人たちについて、われわれは語ろうとしているのではないでしょうか。
そして第5に「寛容と非暴力」を上げました。「全体主義は全体の独占をその本質とする」という三島由紀夫の警句がありますが、さまざまなナショナリズムは人がナショナルなものへの忠誠を全面的に、第一義的に誓うことを求めます。そしてそれは、人々が集団として行使しうる暴力の総体をひとつに束ねておくことを要求する。これに対してコスモポリタニズムは、非対称的な関係にあるのかもしれません。コスモポリタニズムは、いわば弱い立場で自分を定義する。それはひとりの人が「全面的に、つねに」コスモポリタンであることを求めるのではない。逃れがたい所属と所属のあいだで、ときどきふと何かの外側に出てしまう、そんな状態。ひとつの主義として主張するというよりは、ある主義を拒絶するときに浮上する非参加の状態。所属によって強制される暴力の行使を拒否するときの、戦わないという立場。要するに、戦闘的・攻撃的コスモポリタニズムというものは存在しないのではないか、ということです。