放送大学の工藤庸子さんは、ぼくがもっとも尊敬する日本のフランス語文学者。彼女のブログの最新のエントリーに、思わずジンときた。
引用する。
「書けば読めるようになる、というのは、じつは、わたし自身の実感でもあります。教員としてのわたしは40代の後半に教養課程のカリキュラム改革に携わり、つづいて大学院重点化というドラマに遭遇しました。専門は○○です、とかいって、フランスの作家の名を挙げて涼しい顔をしていられる境遇ではなかったのです。文学以外の領域について謙虚に学ぶ、ともかく読んだことのない種類の本を読む、そのために何かを書いてみる、という20年来の習慣を、この先もずっと守ってゆきたいと思います。」
そうそうそうそうなんだ、と、つい過剰なほど頷く。それが読書の道、ヒトの知の道。
たとえばぼくは「ディジタルコンテンツ系」をひきうけて、目下苦闘中。2006年にニュージーランドから帰ってきたとき、いきなりバトンを渡された。でもそれは、半ばは、みずから望んだこと。文学研究がメディア研究に直結することは、マクルーハン、ケナー、サイファーなどを1ページでも読んだことがあれば(ぼくらの学部生のころにはどれも必読だった)改めていうまでもないはずだが、それも理解されないことがよくあるのは、一部の日本の「文学研究者」の信じがたい傲慢さのせいだろう。半世紀前の「研究」像で自足している人たち。そしてメディアのすべてがディジタル技術によって動いている現在、「DC系」はまさにヒトの文化のすべてを相手どるべき位置にいる。
制度は人をしばり苦しめるが、同時に人を育て、新たな可能性への挑戦を呼びかける。しかもすべての制度は、もともと人が作ったもの。どんな風にも作り変え、手入れして、よりよい方向をめざすのは当然だ。
この春からDC系も2年目に突入する。いろいろ変わってゆく、変えてゆく。12人の新入生を迎えて、新たな試みの日々。この楽しさをすべてひっくるめての「文学」であり「思想」であり「芸術」だということを、改めていう必要があるだろうか?