Monday, 23 July 2007

ユビキタス

7月14日(土)。東大で『ユビキタス・メディア、アジアからの転換』と題する大がかりな学会が開かれているが、他のことと重なって出席できない。特にドイツのフリードリヒ・キトラーの講演には行きたかったのだが、時間が合わず。それで土曜日の午前中、フランスの哲学者ベルナール・スティグレールおよびアメリカの人文学者(美術史と科学をつなぐ)バーバラ・スタフォードの講演だけのぞいてきた。

場所は安田講堂。思えば、中に入ったのははじめて。聴衆は思ったほどの人数ではなかったが、外国人の比率が高い。

スティグレールの講演は、人が過剰な外部記憶をかたつむりのように背負って移動するようになった時代、あれほど評判の悪かった「テロス」(目的)を見失えば、人は結局自分が何をやっているのかわからなくなってしまう、というような話だったのかと思う。つまり、ユビキタス化にむかう技術そのものは、毒にも薬にもなる。ヘヴィーに哲学的な話だったが、あまりピンとこなかった。

スタフォードのほうは、彼女ほどの大御所でも緊張するのか、最初は「あー、あー」という音をはさむことが多かったが、ヴィジュアルな素材を見せながら話がすすむと、さすがに調子が出てきた。ところが申し訳ないことに、前日の睡眠不足がたたってついうとうとするうちに、話の流れを完全に見失った! 疲れ果てて出る。

ひとりの講師が壇上で話をする「講演」というスタイルでは、どうしても壇上が「映像/音声」に還元され、奇妙な一人芝居を観客はだらりと見ているような感じになる。ここにはコール・アンド・リスポンス(アフリカ系の集会なら必ずある、話し手と聞き手のかけ声のやりとり)もない。しかも「講演」が、緻密になればなるほど、それはとても耳で聞いて理解できるようなものではない。

なんか、こういうのは、もういいや。

宗教学者ミルチャ・エリアーデの日記に、サルトルの有名な講演「実存主義とはユマニスムである」を聴いたときの記述があったのを思い出した。サルトルは何も見ずに、90分にわたって、水を一口飲むことすらなく、話しつづけたそうだ。それはすごい芸だけど、聴衆のどれだけがそれをうけとめられたのか。メルロ=ポンティの『哲学を讃えて』に収められているコレージュ・ド・フランスの就任講義は、さすがに哲学史全体を相手にするような壮大で濃密なテクストだが、読む方はそれを「書かれたテクスト」として遅れて体験することが、あらかじめ予定されていたようなものだろう。

1983年、ジャック・デリダの東京日仏学院での講演は、カフカの「掟の門」をめぐる有名なものだったけど、大学院生のぼくにはさっぱり追えなかった。本になって読んでもよくわからないんだから、あたりまえか。

もちろん、すごいレベルの言葉が(ただし本質的に「書き言葉」が)、その場で発せられ、うけとめられてゆくという経験だって、それはそれですばらしいものだろう。理解できないのは、自分が悪かった! とはいえ、まるで透明な膜によって壇上と聴衆が隔てられているような空間的配置や構成そのものが、何か根本的に興味をそぐ。

それで自分が関わる場合には、できるかぎり聴衆とのやりとりを気楽に活発にしたいと思うのだが、それもこっちが思っているだけでは、どうにもならない。

それでも、思想の、あるいは芸術の、単なる「観客」、単なる「消費者」にはなりたくないものだ。