Sunday, 31 August 2008

サローヤン、100歳

きょう8月31日はカリフォルニアのアルメニア系作家ウィリアム・サローヤンの誕生日。彼は1908年8月31日にフレズノで生まれた。

20世紀アメリカにおいて、「エスニックな」作家であることをもっともよく主張しつつ、同時に、同時代でもっとも人気のある小説家でもあった。

その文体がすごい。きらきら。わくわく。しみじみ。そのすべて。ここまで平易な文章で、ここまでノックアウトできるのか。ぼくにとっては、最高のお手本のひとり。

というわけで、きょうはこれからサンフランシスコにむかい、新聞を買うことにします。

Saturday, 30 August 2008

夜の稲妻

天気が荒れてる。昨夜は恐ろしいほどだった。事実、多摩川でも水位があがってサイレンが鳴ったようだ。未明まで稲妻のパーティー。

そして、今夜も。

雨も風もほんとうに強力で、人間世界をあっというまに破壊してしまうが、その恐ろしさとは別に稲妻にはなんともいえない魅力がある。どれだけ眺めていても飽きない。

90年代に3年間住んでいたアリゾナ州トゥーソンは世界的な稲妻名所。夏の終わり、空のあちこちで、同時多発的に稲妻が乱舞する。龍だ。龍が実在する、と思う。

画像検索でTucson, lightningでいくらでも出てくるから、見てみてください。いちど大学のキャンパスの椰子の木に落雷し、木が燃え出したことがあった。郊外にはサワロ・サボテンが生えているが、その中にもときどき黒こげになったものがある。

明け方にものすごい音がした落雷、たぶんかなりのご近所なんだけど、その後はどうなっているのだろう。

Friday, 29 August 2008

「日本経済新聞」8月31日(日)

こんどの日曜日の「日本経済新聞」に書評を書きました。岡村民夫『イーハトーブ温泉学』(みすず書房)。

宮沢賢治の温泉的想像力に迫る好著で、目をひらかれることの連続でした。秋にはぼくも花巻を訪ねてみたいと思っています。

醜いベティ!

きょう渋谷を通ったら、駅前交差点のところで、でっかいアメリカ・フェレーラがにっこり笑っていてびっくり。『アグリー・ベティ』のDVDが、いよいよ9月3日に発売されるらしい。

もともとコロンビアの人気テレビドラマのリメイクらしいが、外見を見ればおちびで太っちょで眼鏡で歯も矯正しててぜんぜんさえない彼女の魅力が爆発する、楽しいコメディーです。

そして! アメリカが主演した『私自身の見えない徴』(エイミー・ベンダー原作、日本語訳は角川書店)の公開は、2009年1月1日に予定されている。少しずつ近づいてくるので、わがことのようにドキドキ。

ぼくがイメージしていたモナ(どちらかというと神経質ながりがりさんタイプ)とは必ずしも重ならない彼女だけど、はたしてどんなモナを演じてくれるのか。日本公開がいつになるか、あるいはそもそも日本で公開されるのかどうかもわからないが、来年のメインイベントとして楽しみにしている。

Thursday, 28 August 2008

雨と秋

今週はほんとに雨が多い。どんどん秋の気配が深まっているのもさびしい。夏の仕事、まだまだ。今週も試練だ。

さて、同僚の清岡智比古さんのブログが異常に充実している。ほぼ毎日更新。

http://tomo-524.blogspot.com/

そこでマリエ・ディグビーという、アイリッシュ・アメリカンと日本人の混血の若い女性歌手のことを教わった。なんでも彼女、YouTubeに自分の歌を投稿し、そこから火がついたらしい。来日中とか。

アフリカではレコード産業をショートカットして新曲をまずYouTubeで発表するグループも多いらしいし。すごい可能性のある場だと思える。問題は、いろいろ見ていると、すぐに一日が終わってしまうこと! でも、たとえば(われわれの業界でいうなら)外国語の勉強だって、ほんとに計り知れないくらい容易な時代になった。それにもYouTubeはいろいろ役に立つ。

やる気さえあれば、ひとりで、そして外国に行かなくても、いくらでも勉強できるのだから、もう大学で「語学」をやる意味ってないのでは? と思えてくる。

断っておくが、ぼくは言葉の勉強をせずに「自動翻訳機にまかせろ」とか、そういうバカなことをいっているのではない。言葉のおもしろさは無限で、生の言語的コミュニケーションがもたらす高揚は、何物にも代え難い。「語学学校」というものに魅力を感じる人がいることだって、それは「コミュニケーションの練習」だから、というよりは、「それ自体がコミュニケーションだから」であることは、まちがいない。(かといって巷にあふれる英語学校を勧めているのではない。)

でもね、必修にして、「単位をください」とか平気で答案用紙のかたすみに書く一時的狂気の状態に学生たちを陥れてまで、「大学」のシステムにそれを要求する時代はもう完全に終わったような気がする。言葉の勉強は夢中になってやる人だけがやればいい。音楽のように。スポーツのように。恋愛のように。

話が逸れた。マリエ・ディグビー、ギターはうまくないけど、歌はさすがに聴かせる。日本人との混血といえば、去年からぼくがひいきにしてたのはニュージーランド人との混血のキャット・マクドウウェル。世界各地で、いろいろおもしろい子が出てきてる。いずれはアフリカ人と日本人の混血のスーパースターも、きっと出てくるにちがいない。ジャンルは音楽かも美術かも科学かもしれないけれど。

そして「日本」と「アメリカ」の「混血」、というような、まるで意味不明な表現が、誰の目にもおかしく見え誰の耳にもおかしく響くときが、必ずやってくるはず。(つい便宜的に使ってしまうが、それは悪い習慣。)

Tuesday, 26 August 2008

半世紀のチキンラーメン

日清のチキンラーメンが発売されたのは1958年8月25日だそうだ。新聞に全面広告が出ていた。物心ついたころから、いったいいくつ食べたことだろう。ときどき、深夜に、むしょうに食べたくなるのはなぜだろう。

1958年、半世紀前。ということは、

キース・ヘリングも(生きてたら)、
プリンスも、
ケヴィン・ベーコンも、
ケイト・ブッシュも、
マイケル・ジャクソンも、
ティム・ロビンスも、
ぼくも、
同僚の清岡さん(フランス語)も、

チキンラーメンと同い年だったわけか。これほど確実な世代論はない。

1958年8月25日生まれはティム・バートン。そしていま名前をあげた中では、まあ確実に、ぼくがいちばんたくさんチキンラーメンを食べてきたことだろう。たぶんそうだよね、清岡さん? そもそもマイケル・ジャクソンはチキンラーメンを食べたことがあるんだろうか(カップヌードルはともかく)。

Sunday, 24 August 2008

なんというでかさ、広さ

札幌の古書店・書肆吉成が出している「アフンルパル通信」の別シリーズとして、「アフンルパル通信ex.01」が刊行された。

写真家・露口啓二さんの連作「On―沙流川」からの写真4点を、無謀なまでにでっかい1枚の紙に印刷し、折って、完成形態としてはA2の大きさのページが8ページ分。谷口雅春さん、倉石信乃さん、宇野澤昌樹くん、そしてぼくが短文を寄稿している。

露口さんが撮る北海道の風景は、まるで鹿や鳥やカワウソが見ている風景のようだ。そのたたずまいが、この大きさで、よく生きてくる。吉成くんの英断をよろこびたい。

写真について書くのは、ほんとにむずかしい。写真について書かれている文章の大部分は、写真にとってなんの意味もない。ぼくの文も、写真とはぜんぜん関係なくなってしまったことを反省。

ともあれ、きわめて興味深い刊行物です。ぜひ手にとってみてほしい。そしていつか、露口さんの写真展を生田図書館のギャラリー・ゼロでも開催したいもの。

http://camenosima.com

に注文してください。

9月19日、ジュンク堂新宿店

音楽学者・細川周平さんの渾身の大著『遠きにありてつくるもの』(みすず書房)の出版を記念して、ジュンク堂で公開対談をすることに。9月19日の午後6時半から。

http://www.junkudo.co.jp/shop2.html

もっとも、ぼくはもっぱら聞き役。長い年月のフィールドワークと資料読みを重ねてきた細川さんの日系ブラジル研究の労作に、ぼくの側から付け加えられることなど、何もなさそう。

ぼくがブラジルに住んだのは1984年。来年で25年になる。そしてこのとき友人たちにあてて書いた書簡をもとにした最初の著書『コロンブスの犬』(弘文堂)が出版されたのが1989年。来年で20年になる。

だが、はたして自分はブラジルを知っているのか、と自問すると、答えはひとつ。何も知らない、ほとんど。

本当にぼくはブラジルに行ったのか? 行った、でも行ったのは、きわめて小さな一部分にだけ。

来年こそブラジルを再訪し、『コロンブスの犬』の新版を準備したいと思っている。

「その時その場が異様に明るく」

テレビを日ごろまったく見ないので、大抵の名場面は見逃している。稲妻ボルトの9・69も女子ソフトボール日本チームの優勝も見なかった。

オリンピックみたいな機会にかぎったわけではなくて、あの長寿番組「笑っていいとも」も、たぶん3回くらいしか見たことがない。それでももちろん、タモリの顔も話し方も知っているのだから、世界のメディア化は根深い。

そのタモリさんの、赤塚不二夫先生に対する弔辞をYouTubeで見た。電撃的だった。

赤塚先生の考えによって「その時その場が異様に明るくなる」こと、

たこ八郎の葬儀に際してげらげら笑いながら大粒の涙をぽろぽろこぼしていたという思い出、

タモリにとって赤塚不二夫とは父であり兄でありはるか年下の弟であったということ、

「あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれない」、

そして「私もあなたの数多くの作品のひとつです」という決めのひとこと。

まちがいなく歴史に残る名弔辞。しかも、噂では、タモリさんが読んでいた(ふりをしていた)紙は白紙だったという。すごい。

ぼくは冠婚葬祭が嫌いなので、友人たちがこれから死んでも葬儀には出ないだろうし、ましてや弔辞なんて。自分が死んでも葬儀は省略してもらい、飼い犬が最後に頬をぺろりと舐めてくれれば、それで死後ずっと満足。

それはそれとして、このタモリの芸の絶頂には、感動した。言葉の芸人の極みだ。

Saturday, 23 August 2008

フェルナンド・ペソア詩集

思潮社の海外詩文庫から、『フェルナンド・ペソア詩集』が発売された。

編者は友人の澤田直くん(立教大学)。日本の代表的サルトル研究者である彼は、他方ではロマンス諸語の詩に詳しく、カタロニア詩の翻訳もやっているし、イタリア語もよくできる。ポルトガルの20世紀を代表する詩人ペソアについても、ひさしい以前から取り組んできた。

この手軽な体裁で、「1880年代生まれの天才」のひとりであるペソアの詩が日本語で読めるようになったのは、本当によろこばしいことだ。

訳詩はほとんど澤田くん自身のものだが、ペソアの異名のひとつであるアルヴァロ・デ・カンポスの詩編のふたつは、ぼくの訳で収録されている。

いつしかぼくも、はじめてペソアを読んでから25年が過ぎた。故・出淵博先生のモダニズム研究のゼミで、ペソアについての発表をしたのを、よく覚えている。その後、シアトルの大学では、指導教官のひとりだった哲学者のミケル・ボルシュ=ジャコブセンが、90年代初めの一時期ペソアと多重人格の問題に強い関心を抱いていた。


ぼく自身のペソアの訳詩は『オムニフォン』に載せているので、これも興味がある人は、ぜひ見てください。

灯籠流し

近くの多摩川べりで灯籠流しがあったので、夕暮れどきに犬の散歩がてら行ってみた。

地元のいくつかのお寺が宗派を超えてやっているらしい。暗くなったところで読経がはじまる。

 一心敬礼十方法界常住仏
 一心敬礼十方法界常住法
 一心敬礼十方法界常住僧

ぼくは仏教系の学校に行っていたので、耳に親しい言葉。もっとも、われわれは音楽家だった校長の作曲にしたがって、この文句を文字通り、歌っていた。

やがて川面の舟から、火をともした灯籠がそっと送り出される。火の群れが水の上を滑って、すばらしい美しさ。ちょうど夏の終わり、何かを「送る」には、この上なくふさわしい儀礼だった。

Friday, 22 August 2008

残念!

島への旅にもっていったのは、ずっと愛用してきたリコーのコンパクトカメラGR1s。アイツタキのラグーンをゆく舟の上で、捲き上げのときになんかいやな雑音があるなと思っていたら、案の定壊れていた。

カウンターは作動していたが、実際にはフィルムがまわっていなくてすべて未露光。36枚撮りのフィルム3本が、最初の1本のはじめの数枚を除いてダメだった。

これは残念。早速、銀座のリコー修理センターに出したが、撮ったつもりだったいいショットは、もう地上のどこにもない。さいわいもう一台もっていたGR Digital IIのほうで撮ったものが200枚くらいあるが、こっちは主として記録的に撮ったものばかり。画素数も上げていないので、大きなプリントにはできない。この春に買ってまだ使い方がよくわかっていないせいでもあるけれど、どうもディジタル写真はおなじレンズのおなじリコーでも、平板になってしまうような気がする。絞り優先とか、そういう問題なのかもしれないけど。

もっとも、使い捨てカメラで撮っても、いい写真はいい。次回の旅行では、5年ほどまえに旅行スナップ用に買ったPentaxのEspio120SWiiをもっていこうか。28mm から120mmというズームのついた、なかなかおもしろいコンパクトカメラ。そういえば、セイフコ・フィールドにおけるイチローの後ろ姿なんかは、右翼側スタンドの最前列から、このカメラで撮ったんだった。

Monday, 18 August 2008

周期的に上昇し下降すること

ふと手に取った本のぱらりと開いたページに次の一節を読んで、すっかり感心してしまった。

「ニーチェのユニークさは、風土に徹底的にこだわるからこそ異郷を選択する、大地を愛するからこそ、移動しつづけるというところにある。身体と環境のあいだの絶妙な平衡が実感されるつど、そこが暫定的な「故郷」となる。彼は特定の質の空気や光を享受しつづけようと欲するがゆえに、地中海岸とアルプスの高原のあいだの標高差1800メートルを周期的に上昇し下降する。彼は風に棲むのだ」(岡村民夫『旅するニーチェ、リゾートの哲学』白水社、60ページ)

鮮やかで、ひきしまった喚起力のある一節だ。

思えば1988年、「ニーチェのテラス」と呼ばれる高台からニースの町を見下ろしていたことがあった。いつかニーチェの足跡を追って旅してみたい、と思っていた。その後ぜんぜんそんな旅を果たせないうちに、これほど充実した本が日本語で書かれていたとは。驚き。そして、うれしいことだ。

いまはおなじ著者の宮澤賢治論、『イーハトーブ温泉学』(みすず書房)を読んでいるところ。8月も残るは2週間。大切にしなくちゃ。

Tuesday, 12 August 2008

日本の英語教育?

留守中の新聞をまとめて読んでいる。鶴見俊輔による赤塚不二夫追悼文の一節がおもしろかったので、以下にメモ(「朝日新聞」8月5日)。

「日本の英語教育は、150年にわたる政府の投資として失敗した。その失敗は、世界諸国の事業の中で、きわだっている。」

「たとえば日本の社会学は、英語まじりの学術用語でアメリカの学問をなぞりつづけている。馬首を転じて、私たちの内部に残されている赤塚マンガの広大な影響を追いかけてみたらどうだろうか。」

大学院入試

8月1日、DC系の大学院入試(第1期)。12名受験し、7名を合格とした。すごい多様性。それに先だって行なわれた学内入試合格の4名を加えて、現在11名が確定している。定員15名なので、あとは2月の第2期入試で。

映像、写真、音楽、文章、文化研究、いろんな人が集まりつつある。中国からの留学生も2名。これからの展開がほんとうに楽しみになってきた。

DCの名のもとに、全員を貫く関心は、創造=想像。ありきたりな反復が続く世界に、どんな思いがけない偏差を導入できるか。たぶんばらばらな課題にとりくむわれわれが、毎年必ず暫定的な答えを出す日も近い。

ぼくらがまだ知らない4人へ。ぜひ、この共有された場所に、来春から加わってください。手探りです。何の保証もありません。でもどこにも負けず、自由です。

ちょうど今夜(11日)、札幌では、露口啓二さんの写真展開催に合わせてDC系の何人かが、写真家と倉石さんの対話につきあったはず。ぼくは行けなくて残念。こんなふうに地理の遠さを克服した活動も(しかも電子的移動ではなくて肉体的移動に基づいて)、これからも探っていきたい。

Monday, 11 August 2008

ラロトンガ縦断トレッキング

クック諸島への旅から帰ったところ。その位置は、言葉がよく物語っている。

アオテアロアのマオリ語で「こんにちは」はKia ora!
タヒチ語ではIa ora na!
クック諸島のマオリ語ではKia orana!

そう、まさにアオテアロアとタヒチの中間です。

大きな目的は2つあった。世界で2番目に有名な環礁であるアイツタキを訪ねること。諸島の首都の島であるラロトンガを徒歩で縦断すること。どちらも果たして、まずはめでたし。そしてその上にニコラ老人との出会いやラロチキンの襲撃や諸島最大のお祭りテ・マエヴァ・ヌイや2件の交通事故目撃やスーツケースあわや紛失事件など、思いがけないことは旅にはつきもの。

今回は明治の3年前の卒業生である小林、斉藤の両君が同行してくれた。おかげで生涯のもっとも楽しく、しかもきわめて楽な旅のひとつとなった。ふたりを含めた明治の4人と西表、沖縄本島、沖永良部をめぐる旅をしたのは、はや5年前。あのときも爆笑的ハプニングの連続だった。

旅の模様は、いずれ「風の旅人」に書きます。たぶん11月発売号。ご期待ください!

Saturday, 2 August 2008

R.I.P. 赤塚不二夫先生

赤塚不二夫さんが、きょう亡くなったそうだ。長い闘病生活だった。つつしんでご冥福をお祈りいたします。

同世代の友人たちと話をするたび、「われわれがいちばん影響を受けた人をひとりだけあげるなら」それは赤塚先生だ、という声が多かった。ぼくもまったくそう思う。ユーモアの基本感覚が、初めから赤塚化されていた世代なのだ。

長い病床の眠りから、永遠の眠りへ。どんな夢を見ていらしたのでしょう、赤塚先生。先生の絵が、アクションが、ぼくらの心を作ってきました。それは手塚先生や水木先生以上に。

これからも何度でも、先生の作品を手にとりつつ、ぼくらは老いてゆくことでしょう。ありがとうございました!

長い一日

長い一日だった。朝8時から夜の9時すぎまで、休憩はお昼に同僚の倉石さんと一緒に崎陽軒のしゅうまい弁当を食べた20分のみ。大学院入試と各種作業、会議、会議が続いた。でもおかげで、一段落。これからしばらくは自分の原稿と翻訳に集中できる。

さあ、八月の光。とりあえず、海に行きたい。