写真家・露口啓二さんの圧倒的な連作「地名」について、短い文章を書きはじめて、まだ終われずにいる。
すごい作品だ。北海道のあちこちのポイントで、ただそこにある風景を撮影し、現在もちいられている日本語地名、そのローマ字表記、もともとのアイヌ語地名、その日本語訳、英語訳を併記してゆく。
もちろんアイヌ語地名がその地点の性格をよく描写しているのに対して、日本語地名は音を写すための当て字である漢字が自律的に意味を帯びてしまうせいもあって、ほとんどナンセンスな名に変わっている。だが、そうはいっても、やはり音は残り、響き、連続性とずれの奇怪な作用のうちに日本という国がこの島を同化していったプロセスを、つねにそこに浮上させる。漢字が、そのままで、一種のリマインダーになっている。こっちがそんな心の姿勢をもつならば。
先住民の地名を征服者の地名が覆ってゆく、ないしは見えにくくなったかたちで継承してゆくことは、世界のどこにでもあることだが、そこに余分な意味作用が加わるのは、たぶん日本語の特性。そこまで踏みこんで論じたいものだが、必要な知識がないので困る。
そして写真が捉える光と地名の絶対的な齟齬については、きわめて理知的な写真家である露口さん自身がこう書いていて、付け加えるべきことは何もない。
「「地名」の起源の根拠を視覚化することは、まさしく表象的な行為といえます。喪失感と均質感を日常とした空間内に「地名」あるいは「その起源」という表象を持ち込むことで、そして「風景」として写し取ることで、その場所にかすかなゆがみをもたらす、私の採取作業はその繰り返しであります。「アイヌ語の意味」から、「表記された漢字の意味」から、そして「音」から生じる反映としての「イメージ」は、おそらく私の写真行為に介入します。それらすべてを引き受けた上で、はたして写真は「場所の表象」という地点からどれほど遠くに行けるものでしょうか。」
だがまさにこの「ゆがみ」の意識こそが、それだけで大きな贈りものなのだと思う、写真を見る者にとっての。それはそのまま現実を変える力になりうるし、表象を通じてしか到達することのできない実在物のなまなましい層にふれている。
最初に土地に住みはじめた人々の発見の歴史、確立された地名が貯蔵してゆく記憶、その名を変形し同時に土地をごっそり変形してゆく後発の巨大な国家、二つの名のあいだの落差、しかしあえて二つを併記することがその場で作り上げる、想起の現場。露口さんのこんな問いは、まさしく「世界的」な地平の中に刻まれている。
「雨煙別」と書いて「うえんべつ」と読み、それはアイヌ語のwen-petから来ていて「悪い川」であること。
「分部越」と書いて「ぶんぶこえ」と読み、それはアイヌ語のhunpe-oiから来ていて「鯨がいるところ」であること。
こうした名前が併記され写真に添えられるとき、びりびりと電荷を帯びたような、まるで紫の光が見えるような気がする。でもその先に、はたして何を書くべきか。写真とは、写真そのものについて、まるで語ることがない対象だ。