*****
バルセロナ、西地中海の文化的拠点のひとつであるこの都市から、あの「チェルノブイリ」を巡るグラフィック・ノヴェルが届いた。手渡されたぼくは、読んだ。打たれた。人間的経験としての「チェルノブイリ」に関して、ぼくらが取り逃がしていたものが描かれている。そのもっとも重要で胸に迫る部分、その核心が描かれている。それはこの土地をまるごと愛し----耕される田園、町、森や川を愛し----それなのに突然そこを追われなくてはならなかった人たちが、心に抱く風景だ。家族の歴史と深く絡み合った、奪われた風景とその匂いが、丁寧な取材に立つ二人のアーティスト(シナリオ+作画)の仕事によって、遠い土地に住むわれわれに提示される。遠い土地? ちがう、チェルノブイリを遠いと考えたことが、すべてのまちがいの始まりだったのだ。
一九八六年四月に起きた、当時人類史上最悪のチェルノブイリ原発事故は、その途方もない規模と事後の放射能汚染の拡大ぶりによって世界に衝撃を与えた。与えた、はずだった。でも現在の目で見ると、それはまだどこか「あの遠い国での遠いできごと」としてSF的次元の嘘っぽさで受け止められていた部分があったと思う。「鉄のカーテン」という二十世紀用語に端的に表れていたように、われわれは隣国としてのかつての「ソビエト連邦」を「あちら側」と考えることにあまりに慣れていて、「何かとんでもないことが起きたらしいけれど、あっちの話だから」といえばそれですむと考えていた。実際には日本列島も、世界の他の地域とおなじく、影響を受けないはずがないのに。そして現実に甚大な影響を受けながらも、事故の本質も、原子力技術がもつ意味も、事後の経験についても、何ひとつ学ばないまま、考えないまま、われわれは「福島」を迎えた。ありうるとわかっていたことが、すべてなおざりにされ、現実に起こり、想像をはるかに超える被害をもたらした。非常事態がつづき、終息はありえない。十年後はおろか百年後にも、その終わりはやってこない。
このグラフィック・ノヴェル『チェルノブイリ 家族の帰る場所』は、そんな遠い出来事だというふりをしていた「チェルノブイリ」に表情と風景を与え、一気にわれわれの現実にむかって再提示してくれた。いま、改めて四半世紀前の事故とその後の状況を想像しなおすために、これほど多くを与えてくれる作品はない。コミックというジャンルの優れた特性を、ぼくは改めて考えた。コミックには音がなく、動きがない。それはわれわれが日常的に経験している心理的な無音と不動の瞬間、時の外に出てしまったような時を、完璧に表現することができる。むしろそれは何かが開示されるそんな瞬間をとりだして、つなげてゆく。この手法によりコミックは回想というメカニズムと強い親和性をもち、じつはドキュメンタリーという目的のために、フィルム以上にふさわしいメディアかもしれない。その恐るべき創作力、すなわちリアルな写真・映像としては誰も体験することができなかったイメージを提示できるという特性が、それに加わる。そしてわれわれの心の活動の大部分が回想と想像によってできあがっている以上、断片化された言葉と連続する絵が物語をしめすコミックこそ、心の教育にもっともふさわしいメディアだとさえ、いっていいと思う。
誤解しないでほしい、この作品はチェルノブイリを過去に、空想に、送り返そうとしているのではない。それとは正反対に、現在に、現実に、取り戻そうとしているのだ。それを通じて、いまここで起きている状況に対するアティチュードを教えてくれようとしているのだ。チェルノブイリの土地に住んだ人たちがいた。かれらはきみの祖父母だった。チェルノブイリの事故で死んだ男たちがいた。かれらはきみの父だった。チェルノブイリの土地を追われた家族がいた。かれらはきみの家族で、その子供はきみだ。少なくともきみの一部がたしかにその子供でもあることを自覚したとき、このフィクショナルな迂回を経て、福島を中心とする土地で現実にいま進行していることの意味が改めて痛切にわかるだろう。やっと、わかりはじめるだろう。
地球上における生命の活動にとってまったく無用かつ有害な原子力とその廃棄物が、二十世紀が残した最大の負の遺産だということを、われわれの共通認識としよう。いま現に福島の土地を追われた人々と、想像力において連帯しよう。この作品がそんな動きのためのきっかけとなることを、作者たちも強く願っているにちがいない。