夜、なんとなくテレビを見たら、日放協でトビウオ漁のドキュメンタリーをやっていて、これがすばらしかった。ミクロネシア、インドネシア、台湾、日本。すごく充実していると思ったら、やはり門田修さんの作品で、文化人類学者の後藤明さんも協力していた。
台湾の離島の漁民たちが、卵のみならず大きな目玉も、「さしみ」と称してたっぷり生で食べているのが印象的。そのおかげで、目が悪くならないのだそうだ。一理あるかも。
ところで太平洋の漁労文化の研究者である後藤さんは、ぼくのハワイ大学人類学科での先輩。ハワイでのぼくの愛車の前オーナーでもあった。アパートのまえは坂道なのだが、走り出しは上り方向には行けない。まず坂を下りて、しばらく平地を走ってエンジンを温めてから、おもむろに上り坂に戻った。それは楽しい儀式みたいだった。車は500ドルで後藤さんから買い、半年ほど乗って、ハワイを去るとき中国系タヒチ人のルネに250ドルで売った。
もうひとつ、最近びっくりしたニュース。昨日(木曜日)の朝日新聞の朝刊だが、おむつを使わずに子育てをしている人たちがいるそうだ! 考えてもみなかった。生後まもないころからおまるを使わせ、ころあいをよく見計らっていれば、特に汚さなくてもすむらしい。
紙おむつを使い捨てにし、しかもその製品の性能がよければよいほど、おむつがとれる時期は遅くなる。もともと日本でも昭和20年代までは、おむつは2か月でとることが勧められていたのだそうだ。「2歳以前に無理にはずそうとすることは赤ちゃんの心理的負担になる」という考え方は昭和40年ごろあらわれ、紙おむつの登場と軌を一にしていたとのこと。
これは根本的な発想の転換。ますます、すべての生活上の慣習は疑ってかかるべきだ、と思う。紙おむつは当然、アメリカから来たものだったろうし、その導入を支えた心理学主義も、やはりそうだったろう。おむつの使用といった根本的な問題ですら、ほんのわずかな期間でがらりと変わるものだ。
ぼくなんかは、「布おむつの末期に育ち、紙おむつで子育てをした世代」だということになる。そしてこの世代すら、歴史上のあるごく限られた一時期のスタイルだった、ということになるのだろう。