Saturday 28 February 2009

部分点という悪癖

学部生でも大学院生でも、期末試験でも入試でも、英文和訳の採点をしていると絶望的な気分になることがある。まったく意味不明な日本語を、次々に読まなくてはならないから。

これはもとの英文の内容が理解できないというのとは、まるで別のレベルの話だ。もとの英文がかなり難解だとしても(難解なものはそもそも出題しないが)まるで何もわからないということはありえないだろう。内容の20パーセントでも30パーセントでも、自分なりに摑める部分はあるだろう。漠然と、明るい話か暗い話か、いい気分なのか悪い気分なのかくらいはわかるだろう。

そうしてわかったことだけを、ちゃんとした日本語で書いてくれればいいのだが、もとの文、いや文ではなく個々の語、に対応するデタラメの創作力を発揮してしまい、完全に支離滅裂な文、いや文として成立してさえいない何かを、答案として書いてよこす。

思うに、これはたぶん、部分点という奇怪な採点法に過去のある段階で慣らされてきたためではないだろうか。「訳文」としては点があげられないので、どれかの熟語の意味がわかっているようなら、それだけで点をあげる。いずれかの単語の意味がちょっと顔を出せば、仕方ないので点をつけておく。ただゼロにしないため。先生たちの苦肉の策だとは思うが、弊害も大きい。

そうやって記憶の曖昧な糸をたぐりつつ、とにかく訳語を並べてみる。どんどん宝くじ的世界観に近づいてくる。「文を読む」ことからは、どんどん遠ざかる。これでは何にもなりません。

たとえ10行の原文が2行になったとしても、ちゃんとした日本語の文を作ってほしい。わからないならわからないで、一か八か「こういうことではないか?」と思うことを、きちんと書いてごらん。大学生なんだから、知っている名詞と動詞だけを丁寧に追っていけば、どんな文だってまるで何の絵柄も浮かんでこないということは、ありえないはずだ。

と述べた上で、大学入試の段階からまるで英語の力がついていない大学院生には、ひとことだけいっておきたい。

勉強しろよ。