Thursday, 9 October 2008

山と読書

『岳』のどこかに、二つの山に同時に登ることはできない、というような言葉があって、まったくそうだなと思った。

それでちょっと考えてみると、読書と登山には似ている部分がたくさんある。

(1)二つの山に同時に登ることはできない。
(2)標高が問題なのではないし、山頂をきわめることが問題なのでもない。
(3)いくつもの山にとりあえず登ることもできるが、ひとつの山に何度も登ってはじめて見えてくることもある。
(4)ひとつの山にひとつのルート(解釈)しか知らない者もいれば、いくつものルートを発見する者もいる。
(5)人をガイドできるまでの知識を得る者もいれば、いつまでもお客さんで終わる場合もある。
(6)そこに住む動植物のことまでよく知るようになれば、どんな小さな里山だって、無限の宇宙に呼応している。

どう?

文学研究の道に足を踏み入れて30年、いまはある限定された地形をよく知ること、にむかっているような気がする。それは砂漠かも、島かも、平原かもしれない。趣味からいって、都市ではない。(文学の驚くほど大きな部分が、都市しか知らないのはどういうことだろう?)

ひとりの著者はひとつの山系で、そこでは主要作品が峰をなす。

ジョイスはむちゃくちゃに標高が高いが、峰の数は少ない。バルザックはアルプスで、しかも峰の数も多い。ぼくの師匠ルドルフォ・アナーヤなんかはニューメキシコのサングレ・デ・クリスト山脈とその周辺の荒野。標高ではジョイスにとても較べられないが、味わいは他のどこにも代え難い。そして彼の作品を必要とする地元の人たちが、たくさんいる。

ぼくは生田の丘に、学生たちを連れて、授業をサボって、歩きにゆく。それでいいじゃないか、と思う。それだって文学だ、とも思う。あるいは、もしそこに文学を見出せないなら、どこにも見つからないだろう、とも。

そして最後に思うのは、買ったまま読みもせず書棚に並べられる本は、結局、山岳写真にすぎないということ。いつか、行きたい。いつか、読みたい。でも行けない、技術もない。読めない、知識もない。

こうしてハイデガーもホワイトヘッドも、トルストイもプルーストも読まずに、長い年月をすごしてしまった。