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川、湖、ダム湖、海へ
管啓次郎
ある年、早春の奥入瀬渓谷を走った。葉のない樹林を明るい陽射しがみたし、そこは光の国だった。渓流は鮮烈。勢い良くほとばしる水が撥ね、光が撥ね、心を削った。手をふれると冷たい水だ。どんな命が隠れているのか。どんな時間を流しているのか。
そこから上流にむかうと、川の始まりには湖があった。十和田湖。大きく深い水瓶のようにして火口に雪解け水が溜まり、湖になったのだった。ミズウミというが、ここはウミと変らない。北風が雲を飛ばし、どんよりとした灰色の層からときおり光と雨が降ってくる。波が立つ。しぶきが飛ぶ。
別の年、沖縄本島の北部をひとりで走ってみた。福地(ふくじ)ダムは貯水目的でアメリカ軍が建造した石積みのダムで、それはまるで知らない土地の古代からやってきたピラミッドのようにも見えた。ダム湖はしずかだ。人工物ではあるけれど、できてしまえばダム湖もみずうみ。水面にはさびしい心と歴史が写っている。
そのまま北上し、この島ではこれ以上行けないところにたどり着いた。辺戸岬、ここが沖縄本島の北端だ。海がどれほどの年月打ち寄せてきたのか、波の造形力をこれほど感じさせる場所はない。岩に無数の穴が穿たれている。北の水平線上に与論島が浮かんでいる(浮かんではいないけれど)。
水はどこまでめぐるのだろう、水はいつまであるのだろう。そもそも、いつどうして、地球には水ができたのか。なんの答えも知らぬまま、水をたどっていつも歩いている、走っている。流れる水のかたわらで、ぼくの体にも水が流れている。