Monday, 18 June 2007

Grizzly Man

見逃していた『グリズリー・マン』(2005年)を見た。ドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークのドキュメンタリー。ところがドキュメンタリーといっても、これ以上ありえない題材を得た、ヘルツォークのこれまでの作品との驚くべき一貫性をもつ傑作に仕上がっている。

アラスカでグリズリー保護の運動にひとりたずさわり、最後にはグリズリーに食われて死んだ男が残した膨大なビデオ映像を編集しつつ、ごく平均的な(なりそこないの俳優、でも一方で善意にあふれた)アメリカ男の挫折と夢、狂気に傾いてゆく執着、ゆがんだ、けれども一笑に付すことのできない世界観、そして息を呑むほど美しい光景を提示してゆく。

死んだティモシーが残したアラスカの自然の映像は、どんなにすごいシネマトグラファー(撮影監督)でも撮れないようなすさまじい美しさ。そして監督自身の訛った英語の淡々としたナレーションともに、できあがった作品はヘルツォーク自身の「世界」に対する関わり方をこの上なくよくしめすものになっている。

おなじく熊に食われたといっても、あの理知的だった動物写真家の星野道夫さんとはまるでちがうタイプの、愚かな狂気。ばかげた、もろい思い込み。でもその愚かさが、じわりと、深くから、こちらの生き方を揺さぶる。

こうして見ると、ヘルツォークと小説家ブルース・チャトウィンの想像力の親和性(「極端なやつら」にとりつかれていた)も改めて浮かび上がってくる。先日の「ワールドシネマ研究会」でとりあげた『コブラ・ヴェルデ』の原作者のこと。

それにしてもきょうもいい天気だった。ここまでの空梅雨とは、怖くなる。水量が少ないと鮭が遡上しない。食料が足りず、熊が荒れる、小熊が食われる。ティモシーが泣き叫ぶ。お天気はただちに狂気にむすびつき、狂気はただちに生存の問題にむすびつくことを、思わずにはいられない。

来年度の大学院授業「映像文化論」は作家(監督)研究になると思うが、その有力候補のひとりが、このヘルツォーク。ひとりの監督の作品をくりかえし見ることで学べることが、いずれにせよ焦点になるだろう。