このところ1、2年生むけの「作文ゼミ」を教えているのだが、この数年とみに増えた「妙な書き間違い」に非常に気持ちの悪い思いをしていた。原稿は手書きで提出するというルールを作った。ところが簡単な漢字に代えて、「うそ字」を書く。ワープロの変換まちがいみたいな誤字誤用を平気でする。ユーモアをめざしているとも思えない場面で、ひらがなばかりになってゆく。
問題はワープロに慣れ切った作文態度にあるんだろうなとは思っていたが、まさにそのとおり。身体技法としての「文字を書く能力」が、著しく低下している。
それがじつは「視覚の専制」でもあることに気づかされて、はっとした。ワープロでは文字選択を目で確認し、イエスかノーかを伝えれば、それで話はおしまい。ひとつひとつの文字を書き上げるときの緊張、抵抗感、手の運動、どれも関わってこない。文字の細部も見ていない。問題は、こうしたことをつづけていると、人間が確実にバカになってゆくということだ。総合的な技術としての筆記が、視覚の判断に還元される。すると文にも、「身が入らない」。
そんなことを改めて思ったきっかけは、ひとりの建築家の作品集にあることばだった。千葉学の『Rule of the Site』。建築の設計における「身体」から「視覚」への転換を論じて、千葉はこう書く。
「僕たちが行なっているのは、じっと座って指先をかすかに動かすことだけだ。視覚に頼る比重が増えている。(中略)これはちょうど、ワープロで文章を書くようになって、漢字は読めるけど、実際に書くことがでいないという状況が生まれてきていることと似ている。手が覚えていることが筆跡ではなくて、マウスをクリックすることになっているということだ。/この視覚に頼った身体を受け入れつつも、そこにもう一度動き回る身体を重ね合わせてみる。身体が、視覚に頼り切ってしまっているからこそ、視覚も、そして動き回る感覚も顕在化してくるのではないか」
なるほど、と思った。視覚の比重が強くなり、それにしたがってわれわれの意識や判断力が変化するのは仕方ない。でもそこにまた、動き回る感覚をもういちど入れたい。それにより視覚の専制にチェックをかけたい。そうしなければ、われわれは十分生きているとはいえない。そういう考えに、ぼくも賛成だ。
ヴァーチャル空間での判断が現実の生活空間に影響を与えるようになればなるだけ、有機物としての自分の体の「うろつき」に判断を委ねよう、それに決定権を返そう、とする動きも出てくる。映像は世界についてめちゃくちゃに多くを教えてくれるが、それは「現実」とは一種の皮膜で隔てられている。そしてこの現実の、信じがたいほどの情報量には、視覚だけではとても対処できない。この身体を、また動かせ。建築というジャンルは、そんなメッセージを発しているようだ。