Friday, 15 March 2019

日仏会館で思い出したこと

昨夜、ひさびさに日仏会館のステージに立って、いろいろ思い出しました。2001年、グリッサンとコンデが来日。2003年、ぼくの講演(後に『オムニフォ ン』に収録)もここ。2007年にはブレーズ・サンドラル生誕120周年イベントを正田靖子さんたちとやらせてもらった。

2000年代はじめの数年は、カリブ海文学に対する興味が(日本において)最高潮だった時期なのかな。2002年には一橋で大きな国際シンポジウムがあり、ぼくはハイチのアントニー・フェルプス(もっと評価されていい詩人)に対するディスカッサントとして「オムニフォン・エグジログラフィーとは何か」と いう話をフランス語で。また、これは日仏会館ではないけれど、やはりハイチのルネ・ドゥペストルの来日が2004年。いま思ってもすごいね。こうした企画の実現は、恒川邦夫さん、三浦信孝さん、立花英裕さんらの努力のたまもの。

そしてカリブ海とは関係ないけれどシルヴィー・ジェルマンが来日して、日仏学院で彼女とぼくが対談したのが2007年。この対談は「すばる」に掲載された(けど、いま手元にない)。このあたりで、ぼくのフランス語系の仕事がぷっつり途切れました。なぜ?ひとつには2007年から大学院ディジタルコンテンツ系の設立に忙殺されていたため。これが2008年に発足。2017年からは組織替えして総合芸術系。理工学部・理工研の中にアートスクールを作るというかつての野心(?)が、まずまず達成されたというわけ。

もうひとつには、2009年から自作の詩を発表するようになり、その分、研究や翻訳に使う時間が大幅に減った。詩人としての本格的デビューは2010年、スタンフォード大学で偉大なジェローム・ローセンバーグと一緒に朗読をしたとき。昨年、英語詩集Transit Bluesをキャンベラ大学で出してもらい、10年かけて創作言語のシフトも、なんとか実現。

という迷走の歴史を記して、自分の覚えとし、同時にそろそろ軌道修正を図ろうと思います。具体的には、フランス語の比重を大幅に増やします。まずは、はなはだしく遅れたグリッサン『第4世紀』を、きちんと出さなくちゃ。もうゲラになっています。ぜひ楽しみに待っててください!