Tuesday, 19 April 2011

「原発に頼れない地震列島」

昨日あげた毎日jpの記事は必読ですが、こちらは石橋克彦氏の2008年の文章。「地震列島」の現状がよくわかります。これを読むと、原発については推進派も反対派もなく、日本列島ではすべて停止し全廃する以外の選択肢はないでしょう。どう考えても危なすぎる。

http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/0808toshi.pdf

Monday, 18 April 2011

「ひとえに日本が地震列島だからです」

毎日jpから。われわれはこんなことも真剣に考えずに過ごしてきたのか。

国会で13日開かれた超党派の危機管理都市推進議員連盟の会合。講師を務めた石橋克彦・神戸大名誉教授(地震学)が語る議員らの“想定”をはるかに超えたシナリオに、会場は重苦しい空気に包まれた。「どうして日本の原発は危険で、欧米の原発は安全なのか」。議員の問いかけに石橋氏は「ひとえに日本が地震列島だからです」と淡々と応じた。」


http://mainichi.jp/select/science/news/20110418mog00m040025000c.html

Sunday, 17 April 2011

昨日の言葉 15

また五重の塔のような高い建築が、多重の軒によってその建築の垂直性を水平に分散し、周囲の風景に「とけこむこと」を志向しているコンテクスト依存性は、周囲の風景から「とびぬけて」高々とそびえ立つことを志向する西欧風のタワーのコンテクスト・フリー性とは対照的である。
(有馬道子)

神話的思考はしたがって、複数のコードを用いて操作するという点にその独自性がある。それぞれのコードが、経験のひとつの領域から潜在的な特性をとり出し、こうしてその領域と他の領域との比較が可能となる。ひとことでいえば、それぞれの領域を相互に翻訳することが可能となる。ひとつの言語のみではほとんど理解不可能なテクストが、同時に複数の言語に訳されると、おのおのの異文から読みとられる、部分的で歪められた意味以上に豊かで深い意味が、複数の異文から浮き上がってくることがありうるのと同じように。
(クロード・レヴィ=ストロース、渡辺公三訳)

白人対インディアンの戦いも一時は五分五分で、とくに南北戦争の前後には白人側はかなりピンチに追いこまれたが、コルトという新兵器の出現が情勢を一変させた。あとはインディアンの勢力は急速に衰えてゆく。/こういう白人勢力の消長の指標がミツバチだったということは、ふつうの歴史書には書いてないけれども、一つの文化史的事実として見落とすことのできぬものである。/大西洋岸から開始されたミツバチの西進は、ミシシッピー川を越えてついにカリフォルニヤに至る。ここはまさにミツバチの楽園である。
(渡辺孝)

Agend'Ars 21


Ese lugar se llama querencia, me dijo Rudolfo
Un punto en la arena a donde el toro regresa una y otra vez como su espacio propio
A mi toro le falta completamente el ánimo de pelea
En cualquier plaza de toros se refugia inmediatamente en la querencia
Queda desconcertado el matador bien motivado
Mi toro nunca responde a provocaciones
Sólo mira vagamente en la punta del estoque
Yo decidí sacar el toro de la plaza
Y dejarlo pasearse a su gusto en las calles
En el acto, la calle se convierte en un campo abierto
En el día hace calor agobiante y en la noche frío tremendo
Es una altiplanicie triste y vacía donde ruge el viento
Mi toro, sin dirigirse a algún lugar específico
Saborea tranquilamente el rigor del clima
Rodeado por la noche, como de costumbre mi toro no tiene ganas de pelear
Pero en el cercado invertido todos los puntos se vuelven en querencia

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

Saturday, 16 April 2011

「嗜み」10号

「嗜み」のクロスカルチュラル・レヴュー、今号ではDVD評を2本書きました。クリストファー・ノーラン『インセプション』とキャリー・ジョージ・フクナガ『闇の列車、光の旅』です。前者は五十嵐太郎さんと、後者は大竹昭子さんと。

おなじ対象をふたりの評者が別個に論じるという画期的バトル的レヴューです。ぜひごらんください。

Friday, 15 April 2011

グリッサン追悼ほか

明治大学文学部紀要「文芸研究」114号「特集・変貌するフランス文学 その未踏の拡がり」に、エドゥアール・グリッサン追悼詩連作10片を寄稿しました。タイトルは「島の水、島の火、島々」です。「現代詩手帖」4月号の6片と合わせてごらんください。

それとは無関係ですが、ラボ教育センター編『「10代とともに」語り合う』(ラボ教育センター新書)に、以前にやったティーンエイジャーとの座談会記録が収録されました。「探求的作文の冒険」がそれです。中高生相手というぼくには稀な場。楽しいひとときでした。

Thursday, 14 April 2011

昨日の言葉 14

ホイットマンとプルーストは女の心をもつ男であったが、より適切には、精神のある重要な点において子供のままとどまった人物だったと言えよう。彼らは、精神科医らが「多形態的倒錯」と呼ぶ段階を出ることがなかった。彼らは世界をあらゆる側面において所有しようという衝動を抱いていたが、この衝動は彼らの童心に由来する。それゆえ世界は、彼らにとって、いわば大きなおもちゃ箱であった。
(マリオ・プラーツ、浦一章訳)

イエスは書きませんでした。しかしイエスは自分が話したことばと一致しています。イエスは<みことば>であり、まことの<ロゴス>です。話す理由があって話し、そのために死んでいます。死ぬ理由があって死に、そのために話しています。
(ルネ・ジラール、小池・住谷訳)

使われなくなった常套句と廃れてしまった形式の文化の廃棄場こそ、実はあらゆる革新の母胎(マトリクス)なのである。
(マーシャル&エリック・マクルーハン、中澤豊訳)