チリについてできるだけ精密に思い出してみたいと思うものの、時は強力な消しゴム。輪郭も細部もぼやけたまま、光の印象ばかりが強くよみがえってきます。ブエノスアイレスから延々とパンパスを走り、バリローチェから国境を越えてプエルト・モンへ。そこで真夏のクリスマスをすごしてから鉄道でサンティアゴめざして北上しました。ふたつの国、ふたつの首都。でもその表情はずいぶんちがいます。派手好きで贅沢な印象をもつブエノスアイレスに比べて、サンティアゴはやさしくたおやか。人々の顔立ちも、圧倒的に混血顔です。アンデスの雪解け水を湛えたマポチョ川が市内を流れ、緑の多い街は美しい光にみたされ。でも同時に、そこではずっと重苦しさを感じてもいました。33年前のサンティアゴは、まだ戒厳令下にあったのです。
街角ごとに軽機関銃をもった兵士。夜間は外出禁止、夜はしずまりかえっています。モネダ宮殿(大統領府)を通りかかると「ああ、ここが」と思うものの、立ち止まると怪しまれるのではないかと足を止めることができません。独裁者ピノチェ将軍が1973年にアジェンデ社会主義政権を転覆させたクーデタの舞台。自分の知らない恐ろしい記憶がここに刻まれていると思うだけで、街の平和な美しさとの落差が、断崖のように感じられました。
ぼくはラテンアメリカ研究者ではありませんが、不思議な巡り合わせで、その後、チリ人が書いた本を2冊、スペイン語から翻訳することになりました。『知恵の樹』(朝日出版社、1987年)と『パウラ』(国書刊行会、2003年)です。前者はマトゥラーナとバレーラというふたりの「認識の生物学」者の共著で、いわゆるオートポイエーシス理論をわかりやすく解説しています。一読して魅了されたのですが、かれらの理論の背後にあるものがクーデタ後の知識人に対する凄惨な弾圧と社会の崩壊だったことを知り、慄然としました。政治状況が生物学理論にまで影響をおよぼすなどとは、それまで考えたことがありませんでした。
後者は自殺に追いやられたアジェンデ大統領のいとこの娘にあたる小説家イサベル・アジェンデの、娘の死をめぐる悲痛な手記。作家イサベルもまたクーデタ後の状況下でチリを離れ、以後ずっとチリの外で生きてきた人です。彼女のよろこびも悲しみも、すべてはこの流浪の生活の中にあり、極端な振幅をもった暮らしが抑制の効いた文体で綴られます。彼女が正面切って政治を論じることはほとんどないのですが、その生涯がまるごとチリの流血の現代史とともにあることは疑いの余地がありません。
そんなふうにチリを垣間みることがつづいたあと(ただし本当に関心をもってその歴史を学ぶことのないまま)、一昨年になってパトリシオ・グスマン監督のすばらしい2本のドキュメンタリー映画が、またぼくの心をチリにむかわせました。『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)という2部作です。前者はアタカマ砂漠にある天文台を出発点とし、光と時をめぐる瞑想に人を誘いながら、この砂漠がピノチェ独裁政権により殺害された人々の死体を埋める土地ともなっていたことを知らせます。後者は一転して水つまりは海に焦点を合わせ、チリの歴史にひそむ先住民虐殺の記憶をたどるのですが、ついでかれらの海もまた、独裁者により殺された人々の死体捨て場になっていた事実が明らかにされます。
驚くべき多様性をもったチリの国土に、こうしてちりばめられた現代史の惨劇の痕。息を呑むほど美しい映像に載せて、しずかな口調で語られるこれらの証言により、ぼくはまた1984年のサンティアゴに引き戻されたのでした。自分がかつてたしかに訪れ、でもそれ以上の関わりをもたず、けれどもこうして何度も回帰してくる、あの街の存在。それはたぶん半ばをとっくに過ぎてしまったぼく自身の生に対して、何者かによって与えられた、大きな宿題なのかもしれません。