Monday 29 November 2010

知己も正鵠も「得る」ことはできない

学生たちの作文を直すといっても、大部分は言葉遣いがへんなのを直すだけ。そしてその目で見ると、プロの物書きでもずいぶんまちがった言い方がまかり通っているのには日々驚かされる。

「すべからく」と来たら「べし」で受けなくてはならないことは漢文を少しでも学んだ者には明らかなことだが、あいかわらず「すべからく」を「すべて」という意味だと思い込んでいる人は多い。

もっと笑えるのが「知り合う」という意味で「知己を得る」と書いてしまう人。得るのは「知遇」でしょう。知己とは己を知る、すなわちそこに至るにはそれなりの友情の歴史が必要。また「正鵠」と来たら、これも「得る」では意味がいかにも舌足らずになります。当然、「射る」でしょう。相手は鳥なんだから。

「私淑する」もまちがって使われることが多い。実際に授業に出たりしていたら私淑ではない。これは直接の面識なく、遠くからヒソカに師と仰ぐことをさす。こうした誤用は、大学教員にも結構見られます。

でもほんとに大笑いさせられるのは、対応物を欠いた、完璧に死んだ言い回し。たとえば「思い出は走馬灯のごとく」などというけれど、その「走馬灯」を見たこともない人がつぶやくのはいかにもやりすぎでしょう。あるいは「教鞭をとる」といっても、そもそも「教鞭」て何? 今日でも使っている人、どこかにいますか? 

こうしたことをすべて排して、できるだけ素直な言葉であくまでも現実に即して書くのが原則。よく知らない言葉は使わないこと。可能なかぎり、誰もが知っている素朴で単純な言葉だけで文章を書くことを心がけたいものです。

でも「素朴」って、「単純」って何? それはまた次回の話題とします。