Tuesday 7 April 2009

別人のノート

子供のころから「科目別のノート」を作ったことがなくて、ぜんぶテキトーに1冊のノートに書いては、ある期間が過ぎると捨てていた。中1の1学期のノート、とか、そういう感じで。

大学時代のノートも何も残っていないが、それでも成人後の古いノートが3冊ばかりはあって、見るといまや何を意図していたのかすらわからない断片的な言葉があちこち。

何かを計算したあとで「この数字で円はありえない」とか。

「No se permite tomar fotos」とか。

「The Irish
かれらは町を恐れていた
恐れるのみならず嫌っていた
時代ごとの問題は世代ごとに解決するしかない」とか。

「スペイン語ではバカというと牝牛
        アホというと大蒜
        ロバというと牝狼
        ミレというと見れ
        ミレンも見れ」とか。

「This notebook is no longer used as a diary. This in itself is a series of facts encountered at many different places. It should tell not about the worlds but about my own failures in encountering them.」とか。

「Spike Leeを見ること」とか。

「ホテル朝食つきにして大失敗」とか。(この失敗、その後もくりかえしている。)

「Jack Londonのすばらしさ。
あるいはStephen Craneの。
かれらは教養や都市文化などまったく気にかけない。
生のもっとも深い部分を直接つこうとする。
それはMelvilleがしめした道でもあった。
他の言語には、他のナショナルな文学には
こんな作品はない、ほとんど」
などは、はあ、そんな風に思っていたのか、と別人みたいな気がする。

「本は祭壇に飾らない、道具として手になじませる」なんかは、いまも自戒したい言葉。過去の自分からのメッセージか。

といくつか書き写して、このノートはもう捨てる。