2016年12月6日火曜日

「すみか」展のために

明治大学生田図書館のギャラリー・ゼロで開催している「すみか」展のために書いた文章を、ここにご紹介します。生田付近にいらっしゃるとき、ぜひお立ち寄りください!


「すみか」について
管啓次郎

 父方の故郷、大分県南部の沿岸地帯では、海にもぐることを「すむ」といっていた。すんで、さざえやおいず(とこぶし)を採る、あるいは魚を突く。だがそもそも「すむ」とは何を意味するのだろう。海の中でぱっちりと目を開け、澄んだ視線で対象物を見ること。水の中でゆったりと海洋性哺乳動物のように動き、海水という媒質と一致してただよう。心が「澄む」とは心がおちつくことで、「住む」という行為は心も体もその場におちつき、しっくりと馴染むということだと考えればいいのだろうか。

 英語でdwellingといえば、それは「居住」という行為と「住居」という場所を同時に表す。つまり、「すむ」という行為によって開かれるのが「すみか」であり、「すまふ」という(現在進行を表す?)行為によって定まるのが「すまひ」だろう。「すむ」主体は人には限らない。あらゆる生物が、地表にすみ、すみかを打ち立てる。すみかでは、主体は周囲の環境とのあいだに密接な物質交換をおこない、痕跡を残し、記憶をつみ重ねる。そこに履歴が生じ、情緒の虹が発生する。

 われわれの社会は、その意味でいえば、二次的な虹だ。人間の経験は、与えられた空間を「場所」として徴づける。個々のわれわれは、何らかの光源を得るたびに、その場所に自分だけの虹が立ち上るのを見る。そんな虹の群れの上に、集合的な幻想のように、巨大な社会化された虹が生じている。個としての「すみか」の開拓の上に、われわれがどれほど望んでも一望におさめることのできない、大きな地平がひろがる。

 その地平はそのまま「地球」という球体に接続される。この惑星の有限性、産業革命以後の人間の活動がそれに与えてきた負荷、途方もない破壊。まともに考えれば、未来はあまり明るいものとは思えない。それでもわれわれは、一回ごとの生において、「すむ」という挑戦をやめるわけにはいかない。 “Since my baby left me, I’ve got a new place to dwell…” そう、「ハートブレイク・ホテル」でプレスリーがとっくの昔に教えてくれたように、どんな絶望もdwell という動詞を帳消しにすることはできない。きみのdwellingは、今日また新しくはじまる。