2017年1月24日火曜日

道は遠い、遠い

「UP」1月号に小沼純一くんが下村寅太郎の『数理哲学・科学史の哲学』についての長い書評を書いていて、おもしろく読んだ。ぼくは数学がぜんぜんダメで、その方面の感覚がまったく育たず、どれだけおもしろい世界を逃してきたことかと思っている。でも数学について人が語る言葉には実際興味を惹かれることが多く、小沼くんのように音楽好きな人にとっては音と数の宇宙の呼応には、ついのめりこみたくなる魅惑があることだろう。

長い書評は、的確な引用をゆったりと組み込めるし、また他の本との「本脈」をしめすこともできるので、いい。いい書評は対象の1冊を超えて、ある問題系に対する興味を広くかきたてるものだが、朝からこういう文を読むと図書館に直行して、そのまま一日を薄暮の夢想に過ごしたくなる。今日みたいな冬の青空の日でも。

覚えておきたいことのメモ。

1)下村による「科学」のナショナルな伝統の指摘。サイエンスはベーコン的な人間論的=実践的性格。ヴィッセンシャフトはライプニッツ的な普遍学的性格。シアンスはデカルト的な知性的性格。なるほど、そうかもしれないな。トランスナショナルな「科学」の成立なんて、あるいは20世紀も後半以後のことかも。

2)ボエティウスによる音楽の3分類。ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)、ムジカ・フマーナ(人間の音楽)、ムジカ・インストゥルメンターリ(器具の音楽)だって。といっても、そのままでは理解できない。最初のものは星の運行、季節のめぐり。次のものは、人が理解し洞察したことをしめすもの。つまりは知識、そして一般詩学か。最後のものだけがいわゆる「音楽」、空気の振動により奏でられる音の塊、配列。当然、ピュタゴラス的な数の比例とも関係してくる。

「ムンダーナ」とかいわれると、つい「世界音楽?ワールド・ミュージック?」と聞き返したくなるけれど、そうではなかった。

ところで。高3の夏休みに京都で『思想のドラマトゥルギー』(林達夫+久野収)を読んで以来、大学ではヨーロッパ精神史を専攻しようかと思っていたけれど、そうはならかった。ひとつにはヨーロッパに行ったことがなくて、結局、エモーショナルな積み立てが育たなかった。林達夫(1896年生まれ)は1971年になるまでヨーロッパに行ったことがなくて、下村(1902年生まれ)も初のヨーロッパ旅行は1956年。そういう世代だった。それでよくあんなに燃えるような知的好奇心を、ヨーロッパに対して持ち続けられたものだと思う。すごいが、どこか、はかない。

林達夫は自分を歴史家と規定し「西洋二千年の歴史往来」というフレーズを使っていた。学ぶべきことは無限。道は冬の青空のように遠い。