Sunday 8 February 2009

「ゲスト」であることをやめろ

『サバイバル登山家』の服部文祥さんは、まちがいなく現代日本の最重要の思想家のひとりだが、彼が土曜日(7日)の「朝日新聞」でこう書いていた。

「幼い頃、自分の生活のどこにズルさを感じていたのか、今では少しわかる気がする。頭や体を使わなくても生きていける生活そのものに疑問があったのだ。受験戦争盛んなころに思春期を迎え、それなりに頭は使っているつもりだった。だが、自分が生きるための判断は、ほとんどしていなかった。自分の人生においてすら、私は<ゲスト>だったのだ。」

実際、日々大学で学生たちとつきあっていて、最大の苛立ちを覚えるのもその点だ。肉体的生存そのものと知的生存との差異は、あえて無視していう。大学でのすべての知的な冒険、実験、試みに対して、完全に「ゲスト」というか無関心な傍観者でしかない自分を、疑うことすらしない学生たち。もちろんその一方には、教師の側にも、半世紀は昔の旧態依然たる「大学」像に自足して何の改革も工夫も変化もなく、このままあと2、30年やっていけると思っている人々も少なからずいる。

それで満足なのか? いつになってもお客さん、大学に対しても社会に対しても「ゲスト」。折角の行動の自由を、創造への可能性を、まるで生かそうとせず、人が与えるものだけを期待し、与えられるものに対しては万事「消費者」の立場で。あるいは、はなから「自分には関係ない」で、すぐ身近で起きていることにもまるで関心を抱かず。

ぼくは大学は、まだまだいろいろなことができる場だと思う。祝祭のような知的解放を、社会の不特定の人々に対して無償で提供できる、数少ない場のひとつだと思う。それが少しでも多くの人々の生活に直接反映される、省察と、批判と、楽しみを生産する場でありうると思う。

「大学」の社会的サバイバルは、ここにかかっている。そして「大学」(現行の大学に限らない、能う限り自由な知的共同体)のサバイバルが試みられなくなった社会には、もはや生存の希望も託せないにちがいない。