Check this out.
http://www.youtube.com/watch?v=ao6JntNIPHc&feature=related
Thursday, 29 May 2008
Tuesday, 27 May 2008
トヨダヒトシさんのスライド
昨年、生田でも上映会をやっていただいた、ニューヨーク在住の写真家トヨダヒトシさんのスライド・ショー。
彼は「終われば白いスクリーン以外何も残らない」スライドという形式を、唯一の発表形態としている人。痛切なしずけさ、しんとした一回限りの感覚は、ちょっと較べられるものがない。
今回は、場所がまたすごい!
5月31日(土)は多摩川河川敷(丸子橋付近)。
6月13日(金)は旧四谷第四小学校校庭。
へえ、こんな世界があったのか、と思うことは確実。ぜひどうぞ!
予約情報は彼のサイトから。
http://www.hitoshitoyoda.com/
では会場で会いましょう。
彼は「終われば白いスクリーン以外何も残らない」スライドという形式を、唯一の発表形態としている人。痛切なしずけさ、しんとした一回限りの感覚は、ちょっと較べられるものがない。
今回は、場所がまたすごい!
5月31日(土)は多摩川河川敷(丸子橋付近)。
6月13日(金)は旧四谷第四小学校校庭。
へえ、こんな世界があったのか、と思うことは確実。ぜひどうぞ!
予約情報は彼のサイトから。
http://www.hitoshitoyoda.com/
では会場で会いましょう。
Monday, 26 May 2008
藤部明子さんの写真が
小説家の石田衣良さんの新著『傷つきやすくなった世界で』(日経プレミアシリーズ)を書店で見かけたら、ぜひ手にとってみてほしい。
カバーおよび各章の扉の写真は、藤部明子さんの作品。光と色のパターンに見る者の注意を集中させる、高度に美学的な写真ばかりだ。
すでに『The Hotel Upstairs』および『Memoraphilia』という2冊の写真集で知られる彼女だが、この本に使われた連作がまた新しい写真集にまとめられる日も近いだろう。近いことを願っている。
彼女の写真を見るたび、「画家の写真だなあ」と思う。そして絵画と写真の関係という、どう考えればいいのかよくわからない問いを考えてみたいという気になる。
カバーおよび各章の扉の写真は、藤部明子さんの作品。光と色のパターンに見る者の注意を集中させる、高度に美学的な写真ばかりだ。
すでに『The Hotel Upstairs』および『Memoraphilia』という2冊の写真集で知られる彼女だが、この本に使われた連作がまた新しい写真集にまとめられる日も近いだろう。近いことを願っている。
彼女の写真を見るたび、「画家の写真だなあ」と思う。そして絵画と写真の関係という、どう考えればいいのかよくわからない問いを考えてみたいという気になる。
寺山修司『月蝕書簡』
歌の良し悪しを論じられるほどには歌を知らないが、歌も詩であればまるでわからないということもありえない。
寺山修司を論じられるほどにはその作品を知らないが、きょう書店ではらはらと立ち読みをしているとおもしろくてつい買ってしまったのが、彼の「未発表歌集」。『月蝕書簡』という題名がいい。岩波書店刊。
こちらの無知なるがゆえの先入観に反して、ユーモアの感覚が冴えている。わかりやすいのが、たとえば
みみずくに耳奪われし少年が算盤塾に通う夜の森
少年は「みみ」を奪われ、代わりに「ずく」を与えられた。算術の成立。思わずにっこりする、見事に内在的なユーモアだ。
フィクショナルな家族ものは概してわざと重く暗いが、ふと、ふわりと明るいユーモアが漂うのは、次の一首。
霧の中酔いたる父が頬を突くひとさし指の怪人として
そして思わずビクッとしたのが、次の非常に完成されたサブライムな光景。
あじさいを霊媒として待ちおれば身におぼえなき死者ばかり過ぐ
これであじさいの季節が待ち遠しくなる。
ときどき、ほんのときどきだが、寺山の唐突な語の結合にフェデリコ・ガルシア・ロルカを感じることがあり、vice versa。当たっているかどうかは知らないが、それで青森とアンダルシアが近くなる。
青森にまた行きたい。
寺山修司を論じられるほどにはその作品を知らないが、きょう書店ではらはらと立ち読みをしているとおもしろくてつい買ってしまったのが、彼の「未発表歌集」。『月蝕書簡』という題名がいい。岩波書店刊。
こちらの無知なるがゆえの先入観に反して、ユーモアの感覚が冴えている。わかりやすいのが、たとえば
みみずくに耳奪われし少年が算盤塾に通う夜の森
少年は「みみ」を奪われ、代わりに「ずく」を与えられた。算術の成立。思わずにっこりする、見事に内在的なユーモアだ。
フィクショナルな家族ものは概してわざと重く暗いが、ふと、ふわりと明るいユーモアが漂うのは、次の一首。
霧の中酔いたる父が頬を突くひとさし指の怪人として
そして思わずビクッとしたのが、次の非常に完成されたサブライムな光景。
あじさいを霊媒として待ちおれば身におぼえなき死者ばかり過ぐ
これであじさいの季節が待ち遠しくなる。
ときどき、ほんのときどきだが、寺山の唐突な語の結合にフェデリコ・ガルシア・ロルカを感じることがあり、vice versa。当たっているかどうかは知らないが、それで青森とアンダルシアが近くなる。
青森にまた行きたい。
Saturday, 24 May 2008
「辛いそば」の作り方
中国語の同僚は林ひふみさん。知るヒトぞ知る、料理名人でもある。
彼女に教わったのが、簡単味付けの「辛いそば」。
(1)まず、カイエン・ペッパー(粉末)を用意し、同量の水でしめらす。雨降ってかたまった地面みたいに。湿らすのは焦がさないため。
(2)それをごま油に入れて熱する。焦がしたら、まずくて食えないよ。
(3)熱くなると、いい香り。
(4)あらかじめ用意しておくのが、すりごまと同量の醤油。ここに熱した油をかける。
(5)別にゆでておいた麺(日本そば)に、これをかけて和える。小細工なく、がつんと食べる。以上。
麺はたぶんそばでなくても、そうめんでも焼きそば麺でもオーケー。具も何もなく素朴な味わいが、麺ピュアリストにはうれしい。
ぜひいちど試してみてください!
彼女に教わったのが、簡単味付けの「辛いそば」。
(1)まず、カイエン・ペッパー(粉末)を用意し、同量の水でしめらす。雨降ってかたまった地面みたいに。湿らすのは焦がさないため。
(2)それをごま油に入れて熱する。焦がしたら、まずくて食えないよ。
(3)熱くなると、いい香り。
(4)あらかじめ用意しておくのが、すりごまと同量の醤油。ここに熱した油をかける。
(5)別にゆでておいた麺(日本そば)に、これをかけて和える。小細工なく、がつんと食べる。以上。
麺はたぶんそばでなくても、そうめんでも焼きそば麺でもオーケー。具も何もなく素朴な味わいが、麺ピュアリストにはうれしい。
ぜひいちど試してみてください!
Thursday, 22 May 2008
万事快調!
この春から明治理工の同僚に加わったのが、カリスマ・フランス語教師、清岡智比古さん。
先日、開設されたばかりの彼のブログが、はやくも絶好調だ。
http://tomo-524.blogspot.com/
語学教師の資質の決めてはサービス精神。ぼくには欠けていて、黒田さんや清岡さんにあるのが、それ。
教室での彼の楽しい授業を彷彿させる、親しめる語りが、日々のうたかたを綴ってくれる。それでこっちも刺激をうけ、新たにやる気が出る。
毎日が消化すべきルーティン・ワークなんかにならないよう、つねに清岡さんとあれこれ情報交換をしながら、フラ語のクラスを運営していきたい。
先日、開設されたばかりの彼のブログが、はやくも絶好調だ。
http://tomo-524.blogspot.com/
語学教師の資質の決めてはサービス精神。ぼくには欠けていて、黒田さんや清岡さんにあるのが、それ。
教室での彼の楽しい授業を彷彿させる、親しめる語りが、日々のうたかたを綴ってくれる。それでこっちも刺激をうけ、新たにやる気が出る。
毎日が消化すべきルーティン・ワークなんかにならないよう、つねに清岡さんとあれこれ情報交換をしながら、フラ語のクラスを運営していきたい。
これはすごい、すごい、すごい!
強烈だった。
無知を認めるにはいつもやぶさかではないが、あの有名なジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)を、きょうの午後はじめて見た。なんという傑作! 矢継ぎ早にくりだされる映像が、「演劇とも文学とも異なる映画言語」を追求している。ただあっけにとられ、あっというまに1時間あまりが過ぎる。ゴダールたちが「ジガ・ヴェルトフ集団」を名乗ったことの意味を、いまにして知った。
不覚、もちろん。でもどんな不覚だって、改めるに遅すぎることはないだろう。ジガ・ヴェルトフ万歳!
そしてもう1本、135分の長篇は1964年のミハイル・カラトーゾフ監督『私はクーバ』(怒りのキューバ)。
これほど完成度の高い作品があるだろうか。ストーリーは非常に公式的。売春(マリア)、搾取(ペドロ)、反体制運動(エンリケ)、革命への参加(マリアーノ)という4つのステップが、それぞれに苛烈なエピソードによって描かれる。
問題はカメラだ。当時すでに携帯カメラを使用していたという撮影監督セルゲイ・ウルセフスキーの、信じがたい天才。息つくまもなく、ひとつひとつの場面が心にしみわたる。その運動感。その深み。その鋭いしずけさ。
結局、見せつけられたのは、ソビエト連邦において、公式イデオロギーとは無縁にものすごいレベルの美学的達成をなしとげていた人たちがいたこと。かれらから学ぶためだけにでも、ロシア語をこれからやりたいと思った。
ロシア語のために、わが友人・黒田龍之助さんに、改めて弟子入りしよう。
無知を認めるにはいつもやぶさかではないが、あの有名なジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)を、きょうの午後はじめて見た。なんという傑作! 矢継ぎ早にくりだされる映像が、「演劇とも文学とも異なる映画言語」を追求している。ただあっけにとられ、あっというまに1時間あまりが過ぎる。ゴダールたちが「ジガ・ヴェルトフ集団」を名乗ったことの意味を、いまにして知った。
不覚、もちろん。でもどんな不覚だって、改めるに遅すぎることはないだろう。ジガ・ヴェルトフ万歳!
そしてもう1本、135分の長篇は1964年のミハイル・カラトーゾフ監督『私はクーバ』(怒りのキューバ)。
これほど完成度の高い作品があるだろうか。ストーリーは非常に公式的。売春(マリア)、搾取(ペドロ)、反体制運動(エンリケ)、革命への参加(マリアーノ)という4つのステップが、それぞれに苛烈なエピソードによって描かれる。
問題はカメラだ。当時すでに携帯カメラを使用していたという撮影監督セルゲイ・ウルセフスキーの、信じがたい天才。息つくまもなく、ひとつひとつの場面が心にしみわたる。その運動感。その深み。その鋭いしずけさ。
結局、見せつけられたのは、ソビエト連邦において、公式イデオロギーとは無縁にものすごいレベルの美学的達成をなしとげていた人たちがいたこと。かれらから学ぶためだけにでも、ロシア語をこれからやりたいと思った。
ロシア語のために、わが友人・黒田龍之助さんに、改めて弟子入りしよう。
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