2011年4月30日土曜日

昨日の言葉20

原発に話を戻せば、前にも技術の「不可逆性」ということをいいましたし、そういう側面があることは認めますが、巨大技術をどうあつかうか、というのはあくまでも社会の側の問題だ、と思います。朝永振一郎氏は最晩年に、これ以上研究開発はすべきでない、すでに臨界点を超えており、これ以上開発しても人類が幸福になることはないと発言しました。
(市村弘正 [2005年] )

精神(プシケ)の世界には、国境も民族もない。しかも、ある地域に顕著な精神の病は、全地球の精神生態系に影響を及ぼすのである。
(大嶋仁)

私は子どものころ、イングランドの学校に行かされた。しかし、学校が休みに入るたび、せがんで故郷ウェールズに帰っていた。私にしてみれば、イングランドの家は住むための場所でしかなかった。故郷(ホーム)だと思えるのはウェールズだった。大地、空、動物、森、山の中腹に生い茂るヒースやビルベリー、笑っているような川音、ガウワー半島の入り組んだ海岸、徹底してウェールズの特徴をそなえた無数の建物や人びとの顔が私の故郷だった。
(C・W・ニコル)

Chassez le naturel, il reviendra au galop.
(フランスの諺)

2011年4月28日木曜日

昨日の言葉19

哲学は、哲学にかかわりのない人々への徹底的な軽蔑を生み出します。この意味で、哲学は危険なんですよ。哲学を知らなければならないのは、哲学を乗り越えるためです。何より大切なのは生との直接のかかわりですよ。
(シオラン、金井裕訳)

空間と時間の連続性のなかから、ひとつのできごとを原子(アトム)のごとく切りとることはできない。ただ人間の言語は不完全なので、あたかもそれが可能であるかのように語らざるをえない。
(シモーヌ・ヴェイユ、冨原眞弓訳)

ぼくにとって、ハワイは、勉強の場所です。あそこは勉強に適しています。ぼくはハワイを1954年から知っていますけれど、あの島々は民間人にとっては勉強の場所です。ハワイへ観光にいくとか、ちょっとスポーツをして遊ぶとかは、イマジネーションのまったくない人たちのすることです。
(片岡義男)

「ユリイカ」2011年5月号

「ユリイカ」の5月号に連作詩「非在の波」を発表しました。16行詩、8片です。ぜひ読んでみてください。

2011年4月26日火曜日

「En-Taxi」作家たちの東日本大震災

「En-Taxi」32号のアンケートに答え、3月11日のようすを記しました。アイウエオ順なので、辛酸なめ子さんと鈴木則文さんのあいだです。

陸前高田の声

アカデミー・コモンでシンポジウム「被災地は復興への支援をこんな具合に求めているのだ」。主催はわが同僚(安全学)の山本俊哉研究室。共催はNPO「り・らいふ研究会」と「仮設市街地研究会」。

陸前高田の消防団員のみなさん3名の参加を得て、きわめて濃密な時間となった。

津波には、「押し寄せる波」と「すうっと上がってくる水」の二種類があったことを知った(後者は要するに半島の影の部分)。でもその破壊力は変わらない。それぞれの言語を絶する体験を乗り越えて「前に進むこと」を考えているみなさん(なかでも福田さんはぼくと同い年、チリ地震による津波の日がちょうど満2歳の誕生日だったそうだ)の言葉に打たれた。

痛感させられるのは、国が決めるマニュアルの無意味さ。「国」という単位では、何にも対応できない。すべてローカルな伝統と知恵に頼ったほうが、はるかによかった。どこでも適応可能なプランは、結局、どこにも役に立たないのだ。

今後はともかく、土地の「なりわい」を回復し、魅力的な出会いを組織し、若者が集って定着する土地にすること。みんなを呼び込み、土地の人々を楽しませつつ、長い期間を過ごせるようにすること。

議論に加わるみなさんの前向きな気持ちに、深く感動した。これを機に、日本社会は変わらなくてはならない。今後の千年を見通し、そのための構造とスタイルを工夫しなくてはならないと思う。

「仮設市街地研究会」のみなさんの、大きな船を買って仮設住居にする(即座に実行できてしかもはるかに安上がり)というプランも魅力的だ。そして陸前高田では消防団のみなさんが、防災FMを運用するNPO法人「陸前高田復興まちづくり会議」をまもなく立ち上げるとのこと。及ばずながら、ぼくもカンパしてきました。

あれだけ広大な被災地があるとき、どこか一地点を特別視するのはどうか、という考え方もあるかもしれない。しかし結局、人の世のもっとも有効な動きは、この自分、この私と、ランダムな一点とが、どんな偶然によってか接続されるときに生じると思う。

陸前高田が復興のモデルをしめすことが、他のすべての被災地にとっても、やがては大きく役立つにちがいない。

陸前高田は尊敬する友人の出身地。これまで訪れる機会を逸しつづけたが、いつか近い将来に、必ずその土地を訪れ、その海をじっと眺めてきたいと思う。

2011年4月25日月曜日

「プロムナード」第13回

日本経済新聞夕刊の「プロムナード」、25日(月)は「ラハイナに行った理由」。いよいよ片岡義男さんの世界に急接近します。

4月25日 第13回 「ラハイナに行った理由」
4月18日 第12回 「キモ、キル、ロウロウ」
4月11日 第11回 「島言葉の楽しみ」
4月04日 第10回 「ポイを食べてごらん」
3月28日 第9回 「島から島へ」
3月07日 第8回 「カツ・ゴトーのために」
2月28日 第7回 「マリアのマラサーダ」
2月21日 第6回 「太陽のような朝食」
2月14日 第5回 「遠くから訪れる波」
2月07日 第4回 「島々が生まれたところ」
1月31日 第3回 「ピコのためのプカ」
1月24日 第2回 「ペレの髪を拾う」
1月17日 第1回 「バニヤンの並木道を」


2011年4月24日日曜日

「東松照明全仕事」

土曜日、名古屋へ。名古屋市美術館で開幕した「写真家東松照明全仕事」のため。11時から中区役所ホールで、関連の鼎談の聴衆となる。東松さんご本人、中平卓馬さん、倉石信乃さん。これが最高だった。東松さんは体調が悪く、沖縄からの電話参加。でもいろいろお話がうかがえ、おもしろい趣向だった。わが同僚・倉石さんは第一線の批評家として全体の流れを作ってくれる。

そして中平さん。偉大さを発散している。発言はなく、ときおりうなずくのみ。その身振りと現存により、「写真は語り得ない」こと、そして「写真のすべてを肯定する」ということを、全面的・全時間的にしめしてくれた。感動以外の反応がありえるものか。

終了後、美術館にむかう。ものすごい点数。しかも同一人物とは思えないほどの幅がある。写真家がそのつどの現実を追ううちに、その現実が歴史に送りこまれ、彼の写真そのものが歴史への手がかりに転化する。そんなメカニズムをまのあたりにするようだ。

会期中、名古屋地方にゆく人は必見。関西にゆく人は、むりしてでも途中下車を勧めます。

中区役所ホールはすっかりきれいになっていたが、1974年、高校2年のぼくはここのステージで「エリザベス・リードの追憶」ほかを演奏しました。なつかしいなあ。そのころは、こんな未来(つまり現在)を予測することもできなかった。

昨日の言葉18

おのれ自身の----ひいてはどのような----未来についても
私はひとつの文字から、その黒いインクから察知した。
(ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳)

1947年の夏、私はディエップ近郊の村に滞在し、たいした確信もないままにマラルメの翻訳に没頭していました。ある日、私の内部に革命が起こりました。それは母語との絶縁を告げる衝撃でした。私は即刻その場で母語と縁を切りました。「以後、フランス語のみで書くこと」、これが私の至上命令になりました。
(シオラン、金井裕訳)

「砂漠ってきれいだな」と王子はつけ加えた。
ほんとうだった。ぼくはいつだって砂漠が大好きだった。砂の丘の上にすわってみる。何も見えない。何も聞こえない。それなのに何かが、無音の中で光を放っている……。
(アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ、拙訳)

2011年4月23日土曜日

Agend'Ars 24


El objeto de la escritura es explicación del mundo
El objeto de la poesía es
El objeto de la poesía es condolencia
Condolencia y grito de alegría, solitaria
Condolencia y solitario grito de alegría, condolencia y
Grito de alegría, y sonido
El objeto de la poesía es sonido, porque
La existencia del alma no tiene otra prueba que el sonido
Y si el alma no fuera algo retórico
No hubiera llegado a oídos
Por lo tanto, produciendo el sonido retóricamente
Hay que/ quiero dar a conocer en secreto
El paso del alma
Aunque este sonido no tenga vibración real
A excepción de esto la poesía no tiene otro valor de uso
A excepción de esto no es posible comunicar condolencia y grito de alegría

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

「死の灰」@KEN


粟津ケンさんが三軒茶屋で運営するスペースKENで、以下の展示がはじまりました。
現代史の原点のひとつです。ぜひ見に行きましょう!


EXPOSE 「死の灰」
第五福竜丸 1954 → 2011 

戦後はじめての被爆者を生み出した第五福竜丸事件から、半世紀が過ぎた。
この事件きっかけに、世界中で反原爆水爆運動が巻き起こる。
日本でも1950年代より、写真家、美術家、デザイナー、詩人、音楽家が、原水爆を表現することを試みた。
戦後日本の芸術において主要なテーマの一つだった核は、いま現在を生きる者にとってどのようなリアリティを持ちうるのか。
芸術が持ちうる可能性とは何か。
EXPOSE展では、「死の灰」を “EXPOSE=さらす”行為とともに、このクライシスなタイミングで考え、実践してみたい。

○第五福竜丸事件とは
195431日。木造のマグロ漁船<第五福竜丸>がマーシャル諸島近海で操業中に、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に遭遇。突然、水平線のかなたが光り、不気味な雲が迫り来たため、危険を察して海域からの脱出を図るが、延縄を揚げる作業中に4、5時間にわたり「死の灰=放射能を帯びた珊瑚の破片」の降灰を受け続け、船員23名は全員被爆した。この水爆実験で放射性降下物は大気と海洋を汚染し、「原爆マグロ」を水揚げした漁船は900隻にのぼり、被爆した漁民も数多くいると思われる。
      第五福竜丸はいま、都立第五福竜丸展示館にあり、公開されている。



2011年4月22日金曜日

昨日の言葉17

コーンウォール地方のケルト語の名前はケルナック(Kernuak)だということは知っていた。カルナックのケリアヴァルという土地にドルメン(石のテーブル)と呼ばれる石のモニュメントがあって、そしてケルマリオ、ケルルスカン、ケルドゥアクに列石と呼ばれるドルメンがあること、さらに近郊にケルアルという町があることも知っていた。
(ジャック・ケルアック、中上哲夫訳)

火山活動は、人間の活動を中断させる。しかし、テフラ [火山灰地層] とテフラのあいだにはしばしば人間の生活の跡があるということは、考えようによっては、火山灰が堆積したあとに、すぐ人間の活動がはじまっているということになる。火山噴火は一時的に森林を焼き尽くしてしまう。だが、それは人間にとって耕作しやすい環境を与えられたことを意味する。とくに火山灰に含まれるさまざまなミネラルが、作物の生育を助けたであろうと言われる。火山の噴火というと現代に生きる私たちには悪いことばかりが想像されるが、人的な被害の裏で、人間にとって正の側面もあわせもっているのだ。
(佐藤陽一郎+渡邉紹裕)

さらに奇妙なことだが、もののつくり方を知っている人間よりも、つくり方に全く関心のない人間の方が、あるもののもっている謎めいた力を見出すことが少なからずある。後者はものから自在な連想をひきだしアナロジーの環をひろげるが、その制作や素材などに立ち入ってみようとは思わない。そのときにものから浮かび上がってくるのは構造ではなく図像なのである。この図像はそれだけ取りだしたときには、ただ謎めいて何を意味するのか明確ではない。だが、私にはこのようにして浮上する図像を介して物から物へとひろがる一種の差異と類推の網目が、社会的なひろがりをもつ象徴の基層をなしているように思われてならない。
(多木浩二)

2011年4月21日木曜日

『野生哲学』

小池桂一とぼくの共著『野生哲学 アメリカ・インディアンに学ぶ』が、いよいよ講談社現代新書の「5月の新刊」として広告されはじめました。

http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/release_schedule_book.jsp#shinsho_9

5月17日発売です。ご期待ください!

緊急特別シンポジウムのお知らせ

新領域創造専攻の同僚、山本俊哉さんの研究室主催によるシンポジウムです。ぜひどうぞ!


*****
震災復興に向けた緊急特別シンポジウム
三陸津波被災地は復興への支援をこんな具合に求めているのだ!
~ひと味違う報告・討論を聞いて大いに学び合おう~

東北から関東に至る膨大な地域に、想像を絶する甚大な被害をもたらした東日本大震災も発災後6週目に入ろうとしています。しかしいまだ被災の全体像はつかみきれていません。被災地・被災者の日々の生活を支援することが、今、もっとも大切ですが、長い時間がかかるであろう、すまい・なりわい・まちの復旧・復興にも目配りすべきはいうまでもありません。
復旧・復興に関与するまちづくりプランナーも、この間、多くのメンバーが被災地を訪れています。そのような方々の中でも、阪神・淡路や中越震災などでユニークな活動実績を挙げてきた何人かをお招きしての集まりです。報告・討論をいただくとともに、若い学生諸君も交え、熱く学び合おうとの思いで、主催者&共催者(各々のHP参照)が企画しました。
その熱は、やがて被災地復興支援へと結びついていくに違いない!! 是非ご参加ください。

日 時:2011年4月25日(月)18時~20時(17時半開場)
会 場:明治大学駿河台校舎・アカデミーコモン2階(A1−3)
地図:
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/campus.html
主催:明治大学大学院 新領域創造専攻 山本俊哉研究室 
http://www.isc.meiji.ac.jp/~onepiece/
共催:NPO法人り・らいふ研究会(理事長_高見澤邦郎) 
http://www.relife.or.jp/
    仮設市街地研究会 
http://www.syutoken-lab.com/kasetu/index.html
プログラム
報告:山本俊哉(明治大学教授)「千厩・気仙沼・陸前高田の復興支援について」
江田隆三(り・らいふ会員/地域計画連合)「遠野・釜石・大槌の復興支援について」
討論:延藤安弘(愛知学泉大学教授)、宮西悠司(まちづくりプランナー_神戸市真野)、濱田甚三郎(仮設市街地研究会主宰)、森反章夫(東京経済大学教授)、矢野トンプー(段ボールアーティスト)、ほか

参加希望者は下記宛4月22日(金)正午までに、氏名・所属・電話番号をお書きの上お申し込みください。定員150名です。参加費不要(当日資料代として千円程度を予定/学生は無料)。
懇親会(20時頃より) 会場:カフェ・パンセ(アカデミーコモン1階)(会費:3,000円)参加も併せてご予約ください。
お申し込みはE-mailで→ 
relife@relife.or.jp (NPO法人り・らいふ研究会事務局)

Agend'Ars 23


La nieve y la ceniza volcánica caen sin cesar
Y han teñido con belleza feroz las orillas del mar y del río
El cielo nocturno resplandece de color mandarina
Temblores ligeros
Continuo sonido de baja frecuencia
Lenta rotación del planeta que parpadea
En estas circunstancias, bajo el hielo lodoso
Congeladas sus entrañas, estaba muerto
Lázaro de pez resucita
Recen, recen, gato blanco y gato negro
Huyan lejos antes de que sea demasiado tarde
Nuestro pecado es haber matado a Lázaro de pez
Haber comido su carne con voracidad
Mas la estación proporcionará la purificación
Blanco y gris intenso formarán manchas
Que borran la huella de la existencia de todos nosotros

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

2011年4月20日水曜日

アップデートの必要

地方選がはじまり、またうるさくなった。選挙カー、名前の連呼、たすき、白手袋。正気とは思えない候補者が大半をしめるとは、どういうことだろう。そのスタイルがいつ確立されたのか知らないけれど、もうやめていいころでしょう。それともかれらには21世紀が始まってすでに10年が経過したという知らせすら伝わっていないのか。

お願いです、しずかで気持ちのいい、実質のある選挙運動を考えてください。

Viva 城南信用金庫!

まったく新しい企業の心意気をしめしてくれました。あとに続く企業が出てくれることを願います。

http://www.youtube.com/watch?v=CeUoVA1Cn-A

新入生ふたり

昨日、ディジタルコンテンツ系の今年の修士課程新入生と在学生との顔合わせ会がありました。自己紹介のあと、共同研究室の掃除やコンピュータの割当、整備などが行われたはず。

そのうち、ぼくの研究室には今年は2名が参加。ダニエル・ギマランイス(ゲーム研究)と松本晃次郎(空間デザイン)です。これからの2年間、しっかり勉強してください。修士2年のみんなは、4月の段階から修士論文に焦点を合わせていきましょう。今週からゼミ開始です。

2011年4月19日火曜日

「プロムナード」第12回

4月18日(月)の日本経済新聞夕刊。ハワイの伝統的な遊びについてです。

4月18日 第12回 「キモ、キル、ロウロウ」
4月11日 第11回 「島言葉の楽しみ」
4月04日 第10回 「ポイを食べてごらん」
3月28日 第9回 「島から島へ」
3月07日 第8回 「カツ・ゴトーのために」
2月28日 第7回 「マリアのマラサーダ」
2月21日 第6回 「太陽のような朝食」
2月14日 第5回 「遠くから訪れる波」
2月07日 第4回 「島々が生まれたところ」
1月31日 第3回 「ピコのためのプカ」
1月24日 第2回 「ペレの髪を拾う」
1月17日 第1回 「バニヤンの並木道を」


昨日の言葉 16

空腹を感じても、忙しいなどの理由で、食事をする時間が取れないときがある。そういうようなとき、ある程度の時間が経過すると、不快であった空腹感がいつの間にかなくなっていることに気がつく。それを繰り返しているうちに、いつのまにか、空腹感そのものを感じにくくなったりする。正常な身体の状態を保つのに必要な身体の感覚を自覚しにくい、という傾向が一定期間続けば、それはアレキシソミアすなわち失体感症と呼ばれる状態にはいることになるだろう。このアレキシソミアは、自分の感情に気がつきにくく、またそれを表現するのが苦手なアレキシサイミア(失感情症)と深い関係があるとされ、心身症のなかに包含される概念で、空腹や喉の渇き、疲労、眠気などの身体感覚の気づきが鈍い、というものである。
(雑賀恵子)

吉田[健一]の親切に報いようと、私は彼が書いた批評の一つを翻訳しようと思ったことがあった。しかし、それは極めて難しいということがわかった。吉田は書こうと思えば、非の打ちどころのない英語で批評を書くことが出来た。しかし日本語で書く時には、かりにわかりやすさを犠牲にしても、出来るだけ日本語らしい文体で書こうとした。吉田を満足させるような翻訳は到底無理だと諦め、私は自分の翻訳を発表しようとしたことは一度もない。
(ドナルド・キーン、角地幸男訳)

ローマ人は鳥占術において主に左を吉とし、他方ギリシャ人は右手を良しとした。ローマの予言者はつまり南にむかって立ち、そのために吉の側である東を左にしたのである。それに対してギリシャ人は北を見たわけで、吉を右手の側においたのである。これは、生命の深みに根ざすオリエンテイションの方向指示に対する優位、シンメトリイに対する光の優位をしめすみごとな例である。
(エルンスト・ユンガー、菅谷規矩雄訳)

Agend'Ars 22


“Todas las cosas de las que tuviste que despedirte
Se transforman en el ángel”, me enseñó una vez mi difunto hermano
Las personas y los perros olvidados, y diversos
Juguetes y lápices, todos se transforman en el ángel
Sucias camisetas, zapatillas de deporte,
Escarabajos muertos y clavos oxidados
Se han transformado en el ángel sin que me diera cuenta
Porque yo no los toco nunca más
Porque no me hallo nunca más en su presencia
Algún ser se establece en las cosas
Y les da una transparencia insoportable, me parece
Eso es el ángel
La luz que en el impacto del desaparecer
Se ve sólo en ese momento, es el ángel
Así el seno de ella se transformó en el ángel
La oreja tierna de mi perro también se transformó en el ángel

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

「原発に頼れない地震列島」

昨日あげた毎日jpの記事は必読ですが、こちらは石橋克彦氏の2008年の文章。「地震列島」の現状がよくわかります。これを読むと、原発については推進派も反対派もなく、日本列島ではすべて停止し全廃する以外の選択肢はないでしょう。どう考えても危なすぎる。

http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/0808toshi.pdf

2011年4月18日月曜日

「ひとえに日本が地震列島だからです」

毎日jpから。われわれはこんなことも真剣に考えずに過ごしてきたのか。

国会で13日開かれた超党派の危機管理都市推進議員連盟の会合。講師を務めた石橋克彦・神戸大名誉教授(地震学)が語る議員らの“想定”をはるかに超えたシナリオに、会場は重苦しい空気に包まれた。「どうして日本の原発は危険で、欧米の原発は安全なのか」。議員の問いかけに石橋氏は「ひとえに日本が地震列島だからです」と淡々と応じた。」


http://mainichi.jp/select/science/news/20110418mog00m040025000c.html

2011年4月17日日曜日

昨日の言葉 15

また五重の塔のような高い建築が、多重の軒によってその建築の垂直性を水平に分散し、周囲の風景に「とけこむこと」を志向しているコンテクスト依存性は、周囲の風景から「とびぬけて」高々とそびえ立つことを志向する西欧風のタワーのコンテクスト・フリー性とは対照的である。
(有馬道子)

神話的思考はしたがって、複数のコードを用いて操作するという点にその独自性がある。それぞれのコードが、経験のひとつの領域から潜在的な特性をとり出し、こうしてその領域と他の領域との比較が可能となる。ひとことでいえば、それぞれの領域を相互に翻訳することが可能となる。ひとつの言語のみではほとんど理解不可能なテクストが、同時に複数の言語に訳されると、おのおのの異文から読みとられる、部分的で歪められた意味以上に豊かで深い意味が、複数の異文から浮き上がってくることがありうるのと同じように。
(クロード・レヴィ=ストロース、渡辺公三訳)

白人対インディアンの戦いも一時は五分五分で、とくに南北戦争の前後には白人側はかなりピンチに追いこまれたが、コルトという新兵器の出現が情勢を一変させた。あとはインディアンの勢力は急速に衰えてゆく。/こういう白人勢力の消長の指標がミツバチだったということは、ふつうの歴史書には書いてないけれども、一つの文化史的事実として見落とすことのできぬものである。/大西洋岸から開始されたミツバチの西進は、ミシシッピー川を越えてついにカリフォルニヤに至る。ここはまさにミツバチの楽園である。
(渡辺孝)

Agend'Ars 21


Ese lugar se llama querencia, me dijo Rudolfo
Un punto en la arena a donde el toro regresa una y otra vez como su espacio propio
A mi toro le falta completamente el ánimo de pelea
En cualquier plaza de toros se refugia inmediatamente en la querencia
Queda desconcertado el matador bien motivado
Mi toro nunca responde a provocaciones
Sólo mira vagamente en la punta del estoque
Yo decidí sacar el toro de la plaza
Y dejarlo pasearse a su gusto en las calles
En el acto, la calle se convierte en un campo abierto
En el día hace calor agobiante y en la noche frío tremendo
Es una altiplanicie triste y vacía donde ruge el viento
Mi toro, sin dirigirse a algún lugar específico
Saborea tranquilamente el rigor del clima
Rodeado por la noche, como de costumbre mi toro no tiene ganas de pelear
Pero en el cercado invertido todos los puntos se vuelven en querencia

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

2011年4月16日土曜日

「嗜み」10号

「嗜み」のクロスカルチュラル・レヴュー、今号ではDVD評を2本書きました。クリストファー・ノーラン『インセプション』とキャリー・ジョージ・フクナガ『闇の列車、光の旅』です。前者は五十嵐太郎さんと、後者は大竹昭子さんと。

おなじ対象をふたりの評者が別個に論じるという画期的バトル的レヴューです。ぜひごらんください。

2011年4月15日金曜日

グリッサン追悼ほか

明治大学文学部紀要「文芸研究」114号「特集・変貌するフランス文学 その未踏の拡がり」に、エドゥアール・グリッサン追悼詩連作10片を寄稿しました。タイトルは「島の水、島の火、島々」です。「現代詩手帖」4月号の6片と合わせてごらんください。

それとは無関係ですが、ラボ教育センター編『「10代とともに」語り合う』(ラボ教育センター新書)に、以前にやったティーンエイジャーとの座談会記録が収録されました。「探求的作文の冒険」がそれです。中高生相手というぼくには稀な場。楽しいひとときでした。

2011年4月14日木曜日

昨日の言葉 14

ホイットマンとプルーストは女の心をもつ男であったが、より適切には、精神のある重要な点において子供のままとどまった人物だったと言えよう。彼らは、精神科医らが「多形態的倒錯」と呼ぶ段階を出ることがなかった。彼らは世界をあらゆる側面において所有しようという衝動を抱いていたが、この衝動は彼らの童心に由来する。それゆえ世界は、彼らにとって、いわば大きなおもちゃ箱であった。
(マリオ・プラーツ、浦一章訳)

イエスは書きませんでした。しかしイエスは自分が話したことばと一致しています。イエスは<みことば>であり、まことの<ロゴス>です。話す理由があって話し、そのために死んでいます。死ぬ理由があって死に、そのために話しています。
(ルネ・ジラール、小池・住谷訳)

使われなくなった常套句と廃れてしまった形式の文化の廃棄場こそ、実はあらゆる革新の母胎(マトリクス)なのである。
(マーシャル&エリック・マクルーハン、中澤豊訳)

2011年4月13日水曜日

昨日の言葉 13

疲労のあまり睫毛がかすかに鳴り出すまで読むこと。
(エリアス・カネッティ、岩田行一訳。注意=まねをしてはいけません)

そういえば、初めて聞いた沖縄の音楽の旋律も、なぜかフラメンコに似ていると感じました。[......]たとえば青森県の津軽地方の音楽などは、フィーリング的にソウルやブルーズに驚くほど近いものだと思います。
(ピーター・バラカン)

鰐をトーテムとする部族の間では、少年は最初に蛇、次にトカゲ、そして最後に鰐に変身して、再び人間として再生するとされる。手足を欠く蛇から、手足のあるトカゲ、そして最後に鰐と、少しずつ人間に近い動物に転生を繰り返すのだ。なぜ鰐が人間に近いかというと、鰐は理想の男の姿であるからだ。この儀礼のあとに、少年は別の村から豚を略奪し、それを調理して食べることが義務づけられる。そのさい、獲物を鰐のようにむさぼり食うことが求められるのである。
(後藤明)

「プロムナード」第11回

4月11日(月)の日本経済新聞夕刊。わが生涯の愛読書、Pidgin to da Maxをめぐって。これで全体の半分まで来ました。


4月11日 第11回 「島言葉の楽しみ」
4月04日 第10回 「ポイを食べてごらん」
3月28日 第9回 「島から島へ」
3月07日 第8回 「カツ・ゴトーのために」
2月28日 第7回 「マリアのマラサーダ」
2月21日 第6回 「太陽のような朝食」
2月14日 第5回 「遠くから訪れる波」
2月07日 第4回 「島々が生まれたところ」
1月31日 第3回 「ピコのためのプカ」
1月24日 第2回 「ペレの髪を拾う」
1月17日 第1回 「バニヤンの並木道を」


Agend'Ars 20

El santo de lodo de la altiplanicie dio un golpe en mi mano
Será porque he robado algo del pueblo
No tengo idea de qué es ese algo, aunque he pensado una y otra vez
El sol que parpadea, la tierra que burbujea
Y el vuelo giratorio de milano
Todo era igual que siempre
Olvídalo, dijo Marilin Romelo que cumplió 49 años
Y cantó para mí una antigua canción de cuna de vaqueros
Ella cantó (sang) la canción que trajo de la región volcánica
En el dorso de mi mano rezumaba la sangre (sang)
En esta mesa (montaña rocosa en forma de mesa) han nacido planetas particulares
Entre ellas, algunas pequeñas planetas del tamaño de bola de ping-pong
Saltan de aquí y migran en la altiplanicie
Para dormir aquí tranquilamente en el ritmo circadiano de cada una
En esta estancia tranquila de septiembre
Me arrodillé y presenté disculpas al santo de lodo

(Una traducción tentativa por Eiko Minami)

2011年4月10日日曜日

You are wrong, Mr. Nakasone!

きょうの「読売新聞」1面に中曽根康弘元首相の談話をまとめた記事が掲載されている。

「大津波を伴った東日本大震災は、『太平洋国家』である日本にとって宿命的な要素を持つ大災害だった。」

これはそのとおりだと思う。ところが次の段落で、看過するわけにはいかない愚かな意見が堂々と述べられているのに唖然とした。

「文明に対する大自然の挑戦と日本人はいかに戦い、克服していったかを世界に見せる時だ。大自然の挑戦に負けてはならない。」

ちがうでしょう。「文明」(=人間世界)と「大自然」を対立の構図で捉えるこのような発想・修辞自体を、もう終わらせなければならない。そもそも自然は人間に挑戦しない。自然にとって人間世界は眼中にない。

ヒトは自然界の一部でごくつつましく、いつでも解消可能な人工物だけを使いつつ、他の動植物のみなさんの力を全面的に借りながら、ひっそりと住まわせてもらうべき存在にすぎない。

中曽根氏のここでの語法こそ、われわれが「負けてはならない」ものだ。発想は言葉に表れる。そしてヒトの行動にみずからしかるべき制限を課すのは、ヒト自身の言葉だけだ。

自然と「戦う」という発想を全面的に捨てよう。戦って勝てるわけがないでしょ。克服できる相手ではない。そもそも、ヒトにとって外在する「相手」ですらない。

20世紀を通じて列島をさんざん荒らしてきたのは、まさに「自然」を敵対視し「文明」の勝利をうたう、このような語法だった。さすがは元首相、というか。しかしあなたは根本的にまちがっています。

「原発はそういうばかげた物だ」

昨日(9日)の東京新聞から、小出裕章氏の言葉。

「被ばくはどんな微量でも危険。海に汚染水を捨て、拡散するから安心、安全だという国や専門家の見方は許せない。薄めることで危険性は減るが、逆に広まる」

「これまで電力会社からみて、原発は造れば造るほどもうかる装置だった。経費を電気料金に上乗せでき、かつ市場がほぼ独占状態だったからだ。さらに大手電機メーカー、土建業者なども原発建設に群がった」

「今回の事故は進行中で、どれだけ被害が広がるかは分からない。原発が生み出した電気の利益を全部投げ出しても足りないだろう。原発はそういうばかげた物だ」

2011年4月9日土曜日

『<風景>のアメリカ文化学』

野田研一さんが編集した『<風景>のアメリカ文化学』(ミネルヴァ書房)に寄稿しました。

「ニューメキシコ、幻景」pp.251-276.

ぼくの個人的ニューメキシコ、プエブロ的想像力、そしてジョージア・オキーフの絵画を論じています。

2008年秋のニューメキシコ旅行が生んだ、ぼくと小池桂一の共著もいよいよ完成間近です。ご期待ください!

2011年4月8日金曜日

Agend'Ars 19

Fue un lugar específico, un sendero
Por una rendija delgada, abierta entre areniscas
Guiado por los pequeños del pueblo cubiertos de lana, subía
El aire temblaba y vibraba
Como señales benévolas se han marcado rayas en la ribera
Y cada raya brillaba de negro
Al llegar arriba ya estaba en medio del cielo
La luz llenaba todo como el agua cristalina
La altiplanicie susurraba como el mar antiguo
Pensé en la coincidencia formal del ave y un tipo de pez
Y seguí con los ojos la maleza que es otra expresión de la veta de agua
Todo esto debe leerse como expresión vacía
Ahí no se debe poner emoción o sufrimiento
El tiempo recordado es lo que nace por la implacable diferencia de temperatura
Una convección caprichosa de la atmósfera ardiente
Para recibirme un negro y delgado perro se levanta

Una traducción tentativa por Eiko Minami

2011年4月5日火曜日

「すばる」2011年5月号

「すばる」で野崎歓さんと対談をしました。題して「旅する文学」。ぜひごらんください。

以前「ユリイカ」の臨時増刊号「多和田葉子」のために、多和田さんと野崎さん、ぼくとで、散りかけの桜の下の地面にすわってのんびりと話をしたことがありました。あれは2004年の春か。いつのまにかずいぶん経ったな。われわれ3人をむすびつけてくれたのは津田新吾でした。

「旅と文学」について、また3人で、あるいはリービ英雄さんを加えて4人で、だらだらと話をしてみたいものです。

それにしても3月8日に行ったこの対談が、なんと昔のことに思えることか。そしてバカバカしくも暢気に見えることか。

「プロムナード」第10回

4月4日(月)の日本経済新聞夕刊に掲載されました。スパムとポイの話です。

4月04日 第10回 「ポイを食べてごらん」
3月28日 第9回 「島から島へ」
3月07日 第8回 「カツ・ゴトーのために」
2月28日 第7回 「マリアのマラサーダ」
2月21日 第6回 「太陽のような朝食」
2月14日 第5回 「遠くから訪れる波」
2月07日 第4回 「島々が生まれたところ」
1月31日 第3回 「ピコのためのプカ」
1月24日 第2回 「ペレの髪を拾う」
1月17日 第1回 「バニヤンの並木道を」


2011年4月4日月曜日

「カフカ・ノート」

高橋悠治さんの新作「カフカ・ノート」公演まで、いよいよあと2週間を切りました。みんなで見にいきましょう!

http://www.suigyu.com/kafka3.html

「水牛のように」4月号

「水牛のように」が更新されました。ぜひごらんください。

http://www.suigyu.com/

今号では、ぼくの2篇だけが「3月11日以前」のものだったようです。

「放射能はあらゆる生命体に対して有害であり、原子力は廃絶すべきものです。」

「三上のブログ」で知った、以下の発言。現在の福島の状況を見ると、もはや反論の余地はまったくなく、正しい。


「私は原子力を専門としていながら、原子力を廃絶したいと思います。
その理由は原子力が危険だからという前に、原子力が始めから終わりまで差別に基づかないと成り立たないからです。
六ヶ所再処理工場は享楽的な生活とは無縁な六ヶ所の住民を被曝させ、下請け労働者を被曝させます。
それを選択することになんら関与することもできない世界中の人々、そして将来の世代を被曝させます。
放射能はあらゆる生命体に対して有害であり、原子力は廃絶すべきものです。」
(小出裕章、京都大学原子炉実験所)
http://shomei.saishori-databank.org/supporter/102/



2011年4月3日日曜日

山川草木鳥獣虫魚のために

以下、「Norah-mの日記」の最新エントリーから引用します。一読を勧めます。

http://d.hatena.ne.jp/norah-m/


そして同時に、とりあえず「人体」がよければいいのだろうかという疑問がある。

海の水、地下水、空気、土壌に本来あるはずのない放射性物質を紛れ込ませ、将来にわたり汚染してしまったことは、すでにそれじたい「大惨事」だと考える。
誰かにとっての郷土が、その土と水が、人間の生のタイムスパンでいえばほぼ永遠に汚されてしまったわけで、環境保護の意味ではもちろん、「愛国主義」(または「民族主義」)的観点からも、福島県民の、あるいは日本人の、地球人の尊厳にかかわることだ(本来、右翼は怒っていい局面だ)。
この期に及んで、保安院の役人や東電役員やテレビに出てくる学者たちが、「この程度なら問題ない」「沖へ流れれば希釈されるから大丈夫」とくり返し、今後もなお原発増設・維持を推進しようとするのはどうしてなのか。
もっとも顕著な例は、地震国・日本がその国土に原発施設を作るのは運命であり、これからも変わらず推進したいと述べた与謝野馨大臣で、この局面での発言には言葉をうしなった。」(引用終わり)

まったくその通り! 原発は日本には必要ないし、世界にも必要ありません。引用されている与謝野氏の発言の度し難い思慮のなさは、強く糾弾されてしかるべきです。日本で「政治」の名において行われているのが経済的な利害調整だけだということが、よくわかります。

技術的に完全にしろうと集団の東電の経営陣の初期段階での判断ミスも、「原子力には詳しい」と豪語した首相の無能さも、悪い冗談としか思えません。そしてその冗談のおかげで、福島県を始めとする地域の住民のどれだけが生活を完全に破壊されたことか。さらには人間世界の都合のおかげで、土地の生命のどれだけが奪われ、苦しんでいることか。

いまこそ、怒りをあらわにすべき時でしょう。

リービ英雄とともに

ホノルルで開催中のAAS(Association for Asian Studies)で、リービ英雄さんの作品をめぐるパネルに参加しました。発表のタイトルと発表者は以下のとおりです。

Crossing the Pacific: Asia and America in the Work of Ian Hideo Levy

-Faye Kleeman "Exophony and the Locations of Identity in Levy Hideo's Fiction"
-Christopher Scott "Memoir of a Gaijin: Whiteness and White Privilege in Ian Hideo Levy's Fiction"
-Keijiro Suga "Transversal, Translingual: Levy Hideo's Pursuit"

それぞれ20分のこの3人の発表につづいてリービ英雄さんご自身がコメントを返し、それから「座談会」的に自由な発言、さらに聴衆との質疑応答というかたちで、あっというまの2時間でした。

ぼくはトラヴェル・ライティング(旅の記述)としてのリービ作品を論じましたが、時間が限られているので発表としては『ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行』(2002年)の分析について話しました。すばらしい、すばらしい傑作です。

日本語作家としての「リービ英雄」が学会のパネルのテーマとしてとりあげられるのはこれが初めて。かつて若くしてアメリカのもっとも優秀なジャパノロジスト(日本研究者)のひとりだったリービさんにとっては、20年ぶりのAASへの「帰郷」だったそうですが、さすがに気さくで真摯で気骨のある人柄そのままに、われわれの発言に対するコメントからはじまって、つづく議論もたいへんに充実したものになりました。

この機会に彼の著作のかなりの部分を再読して、その精神の大きさと探求の苛烈さに強く打たれました。まったく誰も到達したことがない場所から、日本語と日本を見ています。そして中国を、そして台湾を、そしてアメリカを。まちがいなく、現在日本語で書いているもっとも重要な作家のひとりです。

そのリービさんが近刊『我的日本語』の中で、こんな風に書いています。「二十一世紀、ぼくはこの紀行文学が重要なジャンルになりつつあると思う。」日本語をめぐる精神の自伝ともいえるこの本を、彼自身による紀行文学の実践である『我的中国』と合わせて、学生のみんなにまず勧めておきます。

彼の作品に対する国際的な評価も、ようやく高まってきました。今年はアメリカのみならず、台湾、中国、フランス、ドイツで翻訳が出るとか。今回のパネルを組織したクリス・スコットが、夏に刊行される『星条旗が聞こえない部屋』の英訳者です。